10 暗がり
コンビニを出ると、その角を折れた薄暗い脇道に、和気さんは私を導いた。左手は駐車場、右手はオフィス風のビルで、人気はない。少し行くと、ビルの入口が歩道から少し奥まっているところがある。あっ、と思ったときには、その窪みへと引き込まれていた。和気さんと向かい合う形になり、意外と身長あるな……と今さら感心する。和気さんの声が少し上から降ってきた。
「そういえば、暗がりの定義について確認してなかったけど」
「ふふ」
一瞬空気が和み、そして静けさが訪れた。和気さんは、目尻を下げて私を見ている。じっと見ている。
もしかして……私待ち?
そうか。誘ったのは私なのだった。よし、と覚悟を決めるものの、「始め方」にしばし悩む。そういえば自分からしたことって、あんまりなかったかも……。
急にドキドキしてしまって、和気さんの胸元にそっと手を当ててみる。その手が、一回り大きな温かい手に包まれた。はっとして見上げた瞬間、和気さんの顔がぎゅんと近付いてきて、唇同士が触れ合っていた。一瞬で離れた後、今度はゆっくりと。
和気さんは私の唇をひとしきりチューチュー吸い、今日はこれだけなのかなと思って私が黙って吸われていると、不意に舌を使い始めた。途端に私は混乱した。当然のように絡みに行こうとした舌を邪魔だとばかりに横へ押しのけられてしまい、その側面をレロレロと舐められる。
それに飽きると次は歯列の一か所、その次は口蓋の一点、少し戻って唇のど真ん中。そういう狭いエリアを集中的に味わおうとしてくる。これまでの恋愛で縦横無尽に舐め回されることに慣れていた私は面食らうばかり。
そんな風だからぶっちゃけうまいとは言い難かったが、マイペースというかランダムというか奔放なキスで、それが和気さんらしくもあり、至近距離で鼻呼吸を荒くしていく和気さんは急にオスと化したようでもあり、私はかつてなくときめきまくっていた。ヤバイよヤバイよーを心の中で連発しながら、唾液を気前よく分泌して和気さんに与えた。
和気さんの気が済むと、キスは終わった。その「気が済んだ感じ」がとてもわかりやすかった。
「ここはあれですか? 和気さんとっておきのキススポットですか?」
和気さんがハハハッと笑うと、その声がビルの壁に反響する。
「違うよ。適当に歩いてみただけ」
「コンビニに寄ったのは?」
「あの……道を渡る理由が欲しかった。ほら、あっち側なんか明るかったから」
「なーんだ。てっきり、口ゆすぎたいのかと」
「まあ、そこはね。同じもん食べてんだから同じ味でしょ」
「うん。ちょっとネギネギしてた」
「え? そう?」
慌てて口に手を当ててみたって、もう遅いのに。
「ねえ、和気さん」
「うん」
「エッチしたい?」
「……ヒデちゃんは?」
「それ、なんかずるくない?」
「ずるい、か……」
「後から文句言われたら困るから、予防線ってことでしょ?」
「うーん……僕が困るってことじゃなくて……うーん何だろうな。ヒデちゃんにはこう……能動的に決断してほしい、ってことかな」
「能動的? 私って、そんなに受け身ですか?」
どちらかと言えば肉食女子を自認しているのだが。
「いや、受け身……ではないんだろうけど、何だろうなぁ……。要は、承諾のハードルが下がってる状態で何らかの提案を受けた場合さ」
「……はい」
「そのやや安易な承諾を経て、その後の自尊心の健全性を果たして保てるだろうか、っていう……」
「うーん」
脳ミソが火照っていた。酔っていなければ理解できそうだったのに。何といっても、和気さんはもはや私の専属カウンセラーなのだから。
「ま、今日は帰ろ」
「……はい」
私たちは並んで歩道を歩き、駅を目指した。そういえば、店を出てからここまで来る間はうっかり手をつないでしまったけれど、その辺に会社の人がいないとも限らない。誰かに見られていなければいいが、と、今さら心配になる。バレたときに困るのは、もちろん私よりも和気さんの方だ。
翌日は、私も和気さんも「別にキスなんてしてません」という顔で出社し、いつも通りにそれぞれの仕事に精を出した。




