実現予告小説『世襲廃絶の日』
民主党員の抗議殺到!
論文や雑誌記事は書いてきましたが、小説は初めてです。どうか、ご指導を。
おもしろくない所、わかりにくい所はすべて書き直します。
−−−−−−−−−−−−−−−−
150人の国会議員のポストが空きます!
実現予告小説 『世襲廃絶の日』
田中雄二
「今さら国替えができるか!」
「立候補の権利を奪うな。憲法違反だ!」
「議員の子だけ立候補できないのは不当だ」
「私たちだけ議員になれないのはおかしい」
「不公平だ!」
二世議員たちが断末魔のような叫びを上げて口々に自分た
ちの窮状を訴えるなかで、ひときわ目立ったのがこの「不公平」
という言葉であった。
浜田靖一という代議士が太い首を震わせながら叫ぶ声は、そ
の一瞬だけ父親の野太い声を彷彿とさせた。彼の
父はハマコーこと浜田幸一である。
幸一は、若いころ人を刺して1年の実刑判決をくらい、任侠団
体稲川会の初代会長を尊崇し、武闘派議員として数々の武勇
伝を持つ。ハマコーがドスの聞いた声で一喝すると、まわりは
いつも一瞬静かになったものだ。
福田元総理の息子のやはり元総理は、自分の議席から、中
曽根元首相の息子(参議院議員)は、二階の傍聴席から、それ
ぞれ大声を出して叫ぶ。
任期途中で倒れた元首相小渕恵三の娘は、かん高い金切り
声で、不公平!と叫び続けた。その声は、暗闇を流す屋台のさ
びしいチャルメラの響きにどこか似ていた。それは父恵三が、
高くそびえる福田・中曽根の二大巨頭と同じ選挙区で苦労し続
け、自らを「ビルの谷間のラーメン屋」と称したなごりなのだろう
。
新しい法律のもとでも、選挙区を替えれば立候補できる。しか
し、彼らが当選する見込みはまったくない。
二世議員たちが議長席に殺到して審議打ち切りに抗議する
中、たった一人席に座ってじっとしている者がいた。
北海のヒグマと言われながら自ら命を絶った中川一郎の忘れ
形見、昭一である。彼は、選挙区を代えての選挙戦に自信が
あるのか、腕を組んだまま一言も発しなかった。
採決のための投票は20分後に開始された。そして1時間後、
賛成301票、反対178票、中川の棄権1票をもって、公職選挙
法の改正案が成立した。こうして二世議員は親兄弟から引き継
いだ選挙地盤からの立候補ができなくなった。
時に9月12日午後6時32分。1889年(明治22年)に選挙
制度が誕生してから120年あまり。このたびの改正は、すべて
の成年男子に選挙権を与えた普通選挙以来の大変革であった
。以下は、この日に至るまでの経緯である。
□
アメリカ・テキサス州の地盤を父親から受け継いだジョージ・
ブッシュが失策を重ね、そのおかげで大勝した黒人大統領の
就任式が終わった1月も末のころ、ネット上にひっそりと次のよ
うなブログが登場した。それは珍妙な文だった。
ー ー ー
■公平同盟 綱領(案)
古人は言う。
「切るが如く、磋でるが如く、啄くが如く、磨くが如く、
かくして石は玉と成れり」と。
ー ー ー
なんじゃコレ?
ここまで読むと、せっかくこのサイトをのぞいてくれた女の子も
、その9割は100分の4秒で他のブログにジャンプし、男性の
多くも三歩引いて、わずかな者だけが続きを読んだ。
ー ー ー
…かくして石は玉と成れり」と。
ダイアモンドの原石は、磨かなければただの石である。カット
し、形を整えなければ、まぶしい光も生まれない。人も同じであ
る。
複数者たちの切磋琢磨によってこそ、粗雑なアイディアが洗
練されて千金を生み、素朴な思いは昇華されて数々の制度を
作り出す。こうして人類は繁栄してきた。
この繁栄を持続させるために、切磋琢磨への参加に制限が
あってはならない。あらゆる階層のあらゆる人々が知恵を出し
合うことによってのみ、真によきものが残るからである。
ー ー ー
どうやら四字熟語「切磋琢磨」の講釈らしいの
だが、ここまで読みきった者は、数人だった。この人たちは並は
ずれた読解力とやさしい心の持ち主なのだろう。最後まで根気
よくこの難文を読んでくれた。
ー ー ー
…切磋琢磨…真によきものが残るからである。
しかし、近年の政治において、参加は著しく制限され、切磋琢
磨を望むべくもない。したがって政治に進歩がみられない。
政治の進歩をはばみ、社会の向上を妨げるものは何か?
それは世襲だ!
わが国の政治における世襲の弊害は見るに耐えない。無能
者たちはその血統のみをもって政治家の地位を独占し、有能
な賢者による指導の機会を奪っている。
そこでわれわれは、公職選挙法の改正を通じて政治参加に
おける不公平を正し、国民のために政治家が真に切磋琢磨す
る場を提供しようと決意した。
無能者を国政から排除し、有能な人材を政界に供給すること
はわれわれの心からの願いであり、この願いに基づくわれわ
れの行動は日本の未来に貢献するであろう。
この思いに賛同する人々の参集を広く呼びかける。
公平同盟 発起人代表 某
■規約
第一条……
ー ー ー
この文に続いて図のような資料と説明があった。三名だけの
読者が図をながめる。
−−−−−−−−−−−−−−−−
[歴代首相選抜年表]
明治 大正 昭和 平成
戦闘選抜 ==
試験選抜 =武官=
同上 =文官=
世襲選抜 ・ ==
選挙選抜 ・ ・ ・
[詳細年表はパソコンのみhttp://happytown.orahoo.com/yuji-tanaka/ ]
−−−−−−−−−−−−−−
この図は歴代の総理大臣がどのような選抜形式によって選
ばれてきたかを示したものです。最初のころは幕末の殺し合い
の中で生き残った者たちが交代で政権を維持していました。い
わゆる「藩閥政治」です。これが明治18年から34年まで16年
続きます。
次に入学試験や採用試験によって選抜された官僚の政権運
営が、明治34年から平成5年まで92年続きます。この試験選
抜は二つに分かれ、最初は士官学校を採用ルートとする軍人
すなわち「武官」であり、後半が旧制高等学校、帝国大学、およ
び高等文官試験を経て採用される「文官」です。
この間、選挙選抜による原敬や田中角栄らの内閣、あるいは
世襲選抜による近衛文麿の内閣などがありますが、大きな流
れは、戦闘選抜から試験選抜へ、そして試験選抜の中で武官
から文官へというものでした。
この流れが変わったのが平成3年の宮沢喜一の時です。彼
は官僚であると同時に二世議員でもあり、彼以降、総理大臣は
二世あるいは三世の議員による世襲です。また、各省大臣の
多くが二世議員であることから見ても、選挙選抜のきざしはま
ったく見られません。
戦闘、試験、および選挙は、いずれも実力による選抜ですが
、世襲はそうではありません。無能でも選挙区を引き継ぐことが
できます。これが世襲選抜の第一の欠点です。
また、世襲選抜は、有能でありながら地盤がないために議員
になれない人々から不当に政治参加の権利を奪っています。
この不公平が世襲選抜の第二の欠点です。
ー ー ー
ここまでに、もう一人の読者が脱落した。
□
綱領(案)がネットに載って三か月。何のコメントも来ない。
そこでこのブログを作った某は、政治に関心のありそうな人に
片っ端からメールを送って内容を宣伝した。そのかいあって、さ
らに二ヶ月過ぎたころ、コメントがやっと寄せられ始めた。
コメントに答える形でブログを更新し続けていくと、次第に意
図を理解してもらえたらしく、賛意を示す内容のものが増え始
めた。メール交換をする相手もできた。そこで某は次のステップ
を始めた。
いくらメールをやりとりしてもしょせんは画面上のこと。やはり
生身の人間が会って話しをしなければ本物ではない。しかも通
常のオフ会では困る。日夜起居をともにし、絶え間なく議論を
重ねてこそ、運動を持続させる力が生まれる。議論は白熱し時
には拳がとびかう。そのような対話が生まれる場所、そ
れは昔から「たまり場」と呼ばれてきた。
そうだ。たまり場だ!
(某は一人で盛り上がっていた)
準備しなければならないのは、仲間を求める人たちが集い、
話しをぶつけあうことのできるたまり場なのだ!
このような妄想に一人燃え、興奮で夜も寝られなかった某は
、事務所でなく、寝泊りのできる3LDKのマンションを借りた。場
所は、「国会議事堂前」駅のある千代田線と山手線が交差する
西日暮里駅から徒歩5分。場末だから賃料は月17万5000円
。
ただし、払うのは夢見る某でない。
このたまり場を借りるにあたって、ブログで、月30万円の寄
付を、一口わずか百円で募集した。匿名希望の寄付者は男女
とも「鈴木一花」とすること、寄付者の氏名は祭りの掲示板のよ
うに、[金三万円 鈴木一花様]と大書して扉の面に張り出すこ
となどを説明した。
最初の綱領案を出した時の無反応が身にしみていたので、
某は、こんな募金をお願いしても反応があるのは半年後くらい
だろう、と覚悟していた。しかし、なんと翌月には目標の30万
円に到達してしまった。
世の中には物好きがいるのか、はたまた、画面中央に置か
れた帽子が見る者のあわれをさそったのか。
寄付の入金が確認されると、寄付者に感謝メールが送られる
。そのメールに記されたサイトをクリックすると、画面にカウボ
ーイハットがあらわれ、自分が寄付した金額、たとえば300円
なら、百円硬貨三枚が帽子の中に投げ入れられる。同時に、ス
ーツを着込んだ男性がきっちり90度腰を折って頭を下げる。そ
れをもう一度見ようと思って同じサイトにアクセスすると、今度
は、白地に黒い文字だけで、
「ご寄付ありがとうございました。またのご支援を心よりお待ち
しております」
という味気ない画面しか出ない。何度やってみても、もう二度と
おじぎ動画は出ないようになっている。
某があとで着信ログを調べてみると、この「おありがとうござ
います」シーンを見るためか、二度以上寄付をした人がたくさん
いた。金を与えて相手に頭を下げさせるのは、かなりの快感ら
しい。目標額達成の真の立役者は、このたわいもない御礼シス
テムだった。
スタート資金ができたところで、わずかな家具を買いそろえ、
公平同盟の最初の拠点がオープンしたのが7月25日。最初の
ブログから半年たっていた。
□
某が朝8時半にマンションの鍵を開け、最初の来訪者を待っ
ていると、恐る恐る訪ねてきたのは19歳の大学生だった。
某はあいさつもそこそこに、「飲み物は何にしますか。コーヒ
ーか紅茶、アルコールは夜6時からになっていますが」と言った
。しかし、その学生はとまどうばかりだった。某のその日の格好
は、雪駄にジーンズ、そして上は、着古して首まわりが
大きくひろがったTシャツ。それがまずかったのかもしれない。
ともあれ、初日の訪問客は12名。年齢はやはり若者が多く、
五十を越えた人は一名だけだった。みんな某と少しばかり話し
てその日は帰っていった。
このような日々が続くうちに、お茶係をかってでる者、食事を
作る者、そのまま泊まって翌日鍵を開けてくれる者など、自然と
役割分担ができはじめ、秋には、4名がマンションに寝泊りして
大学や専門学校に通うようになった。そして彼らが事務局を構
成し、電話番、ブログの管理、客の応対などをこなし、通いでや
ってくるボランティアの学生たちの組織もしてくれた。
□
困ったこともある。
住みついた学生の一人が京都の花園大学の3回生なので、
学校はどうした?と某が聞くと、休学しましたとの返事。主催者
としては親御さんに文句を言われないか少し心配である。この
若者は福祉を専門とする地方議員になりたいという夢を持って
いたのだが、はたしてこの場所がその修行にふさわしいものか
。某にはまったく自信がない。
ともかくこのようにして人々が集まり始め、なんとなく各人の役
柄も決まってきたので、正式に政治団体「公平同盟」を設立す
るための総会を開くことにした。12月時点での登録同盟員は3
78名。
といっても、準備に参加した人たちはいずれもこれまで政治
活動に縁がなく、大がかりな会合の経験がなかった。もちろん、
ホテルを借りてパーティーをした者はいるが、それではお金が
かかりすぎる。団体設立前の募金はなるべくしたくない。
そんな時に救いの手をさしのべてくれたのが、かつてPTA会
長として辣腕をふるった女性ブロガーだった。彼女
はただちに、小学校の講堂の借用、机と椅子の手配、当日の
作業人員の割り振り、分単位の進行表の作成など、
テキ!
パキ!
と、手際よく処理していった。
他の者はそのスピードに驚くばかりだったが、彼女にしてみれ
ば、卒業式のあとに行う「お別れ会」の準備と同じであり、しか
も花もいらず、飾りつけも不要とあっては、なんの造作
もない。
会長の時に、死蔵されていた立派なこいのぼりを近隣の旧家
から200本近く集め、それを一斉に校庭になびかせて子供た
ちを喜ばせた彼女にとって、テーブルクロスを敷く必要もない今
回の準備は、5グラムの減量より楽なのだ。
こうして総会が12月26日に行なわれた。
会場の入り口に奉賀帳を置き、署名した人をすべて発起人と
して設立総会はスタートした。席上、某以下の役員、綱領およ
び規約が承認され、世襲廃絶のための選挙法改正を目的とし
て運動し、その手段として国会に議員を送ることを確認した。
寄付金募集は総会の翌日から開始され、拠点を西日暮里の
仮事務所から国会そばの赤坂に移すべく、とりあえず500万
円を目標に資金を集めることにした。
懸念されたとおり、同盟のことが少しでも世間に知られるよう
になると、振込み詐欺と同じ手口で、<公平同盟 寄付窓口>
を詐称するサイトがあらわれた。間違って振り込んだ人もいた
が、強力な検索エンジンでインチキサイトを常時監視し、見つけ
ると、ただちに口座のある金融機関と所轄警察署に連絡したの
で、被害は最小限に食い止められた。
詐欺団の方も、口座開設は警察のマークが厳しいので、まも
なくナリをひそめたようだった。
こうして資金集めもなんとか成功し、翌年3月には目標額を突
破した。そして念願の事務所は、地下鉄赤坂駅徒歩一分の所
に借りることができた。
このたびも「たまり場」機能を重視し、なるべくたくさんの人に
集まってもらえるよう夕方五時以降はすべての事務用品を片
付けて机と椅子だけにし、入り口には縄のれんをさげて居酒屋
の空間を演出した。そして、カマンベールとワイン、おにぎりと
ウーロン茶、お酒とビールを常置し、ただで一杯やれるようにし
た。
おつまみや軽食などは隣のコンビニで買ってきてもらうのだ
が、やはり「ただ酒」の効果は大きく、学生を中心に多くの人が
やってきた。
ただでふるまわれる酒とチーズなどは、すべて現物寄付でま
かなった。冷蔵庫で眠っているチーズやワインなどは捨てるに
捨てられず始末に困っている人が多いと見えて、ネットで現物
寄付を募集すると、すぐに締め切らないと集まりすぎるほどだっ
た。
しかし、ウーロン茶だけは集まりが悪かったので、団体の経
費から茶葉を買い、大きなやかんで煮出してふるまうようにな
った。
ここに集まって五時から騒ぐ若者たちの一部は豪傑気取りで
天下国家を論じていたが、その内容は空疎なものだった。
「国会議員になる前にまず市長になるから、その時はお前に顧
問を頼む」
「幼稚園の時に大統領になろうと決めたが、小学校の時、日本
はそうじゃないとわかって総理大臣になろうと思った」
こんな政治青年特有の大志はまだ許せる。
「国を取る。権力を取る。一緒にやらないか」と言って迫ってくる
若者の顔には、生ぐさい汗が浮かんでいる。みんながそいつを
避けるので、彼の周りには、いつも半径2メートルの空白地帯
があった。
しかし、彼らの笑い声は底抜けに明るい。それは彼らに、どこ
までも広がる夢しかないからだろう。この広大無辺な夢と笑い
にひかれてやってくる年配の背広姿もあった。
たとえば、定年間近のある政治部の記者は、一度取材に訪
れた時に事務所の雰囲気が気に入ってしまい、その後たびた
びふらっとやってきて、一人熱燗をチビチビやりながら、背中で
若者たちに応援を送っていた。
□
場所を確保し、人が集まると政治の勉強を始めた。勉強会は
三部門に分かれ、政治家、行政官、ならびに研究者と在野の
活動家を招いて話しを聞いた。
二代目政治家の無能とわがままに辟易していた
官僚たちは、政治における世襲廃絶にもろ手をあげて賛成して
おり、快く講師を引き受けてくれた。特に国政を志しながら庶民
の生まれであるがゆえに選挙を断念して官職に留まっていた
者は積極的に参加してくれた。
困ったのは議員を呼ぶことだ。自民党は事実上の党議拘束
があるらしく、誰一人講師依頼に応じてくれない。民主党の議
員も小沢一郎に気がねしてか、なかなかウンと言ってくれない
。小沢一郎は二世議員なのだ。
小沢の父は、貧しさゆえに小学校を5年生でやめ、苦学して
弁護士となり、地方議員を経て代議士となり、閣僚にまでなっ
た人物である。彼はそのパワーから「闘牛」と呼ばれた。
二世とはいえ、数々の政変をリードしたきた一郎の力もまた
すさまじい。彼のような実力者を落選させる政策を持つ団体に
協力などできないのだろう。勉強会は結局、他党の議員を招く
ことからスタートした。
□
陳情も寄せられ始めた。そこでその処理が問題になった。政
党としては公職選挙法の改正だけを目的としているのだが、そ
れだけでは政治活動ができない。そこで、
1 人々は、苦情を処理し要望を実現させる見返りとして政治家に権力を与えている。
2 見返りは、多くの人に幅広く与えられてこそ政治の進歩がある。
という二つの原則のもと、交通違反のもみ消しや裏口入学のあ
っせんは丁重に断り、愛犬を自由に走らせるドッグランの設置
などは県や都に交渉を開始した。
公共事業の配分については、はじめから相手にされていない
ので、陳情処理は市民活動家のレベルで十分にこなすことが
できた。しかし、公共事業に、雇用を増やす大きな効果がある
ことも事実なので、公平と効果の観点から新規の公共事業を
提案することにした。それが「電柱の地中化」である。
これは電柱を禁止して電線を地中に埋設するというものであ
る。都市の狭い道路では、自動車によって道の端に押しやられ
た自転車と歩行者が、電柱に邪魔されて通りにくい。事故の原
因にもなっている。電柱がなくなることになって生まれる空間は
わずか30センチだが、これだけの余裕が人と車の接触事故を
防ぐのだ。
田舎にあっては、空を無粋に横切る直線を消滅させ
て景観を保護する。
この事業は、中央と地方で等しく行われるので公平でもある。
全国の道路の側溝を掘り返して工事をするので総工費はまあ
まあの金額になる。
この構想を発表すると、自民党に内緒という条件で数社が試
算を申し出た。
しかしこの政策も、すでに行われているものを加速するだけ
に過ぎず、目新しいものではない。その点はみんなよくわかっ
ていた。国民に夢を与える、目のさめるような公共事業など、今
の日本にはもうないのだ。ダムも道路も港も、もうみんな作った
じゃないか。もしかするとあるかもしれないが、どうせアメリカあ
たりで実行されたものが輸入されるだけだ。
同盟の政策立案チームは慎重だった。公共事業で新機軸を
打ち出すことをあきらめた余波か、福祉面では何も主張しない
ことにした。
もちろん最初は提案も検討された。五十歳以上の人が介護
に参加し、車椅子を押したり、入浴の手伝いなどをすれば、社
会保険料の割引を受けられるという制度である。しかし、反対
論が大勢を占めた。
わずかな利益誘導では人は動かない、もっと介護事情が悲
惨にならなければ国民は動かない、たしかに自治体で始めた
所もある、しかし国政レベルではまだ時期尚早だ、というのが
その理由である。
提案の推進者は悲憤慷慨した。
「どうせ自分の仕事を増やしたくないんだろ。みんな、ちんまり
まとまりやがって!」
と毒づく。そんな彼をなぐさめて、君の思いはいずれ必ず実現
するよ、と言ってくれる人もいたが、彼は同盟を恨んだ。事務所
のただ酒をあびるほど飲んだ後、つばを吐いて去る代わりに、
大量のゲロを吐いて去って行った。
□
政策も決まったところでいよいよ選挙の準備を開始した。
しかし、候補者を決める前にまず選挙参謀を募集した。なぜ
なら政治業界というところは、議員に「なりたい」人はたくさんい
ても、「ならせる」人はほとんどいないからである。企画と演出
の能力に長け、人を売り出すことだけに生きがいを感じるよ
うな人材は、芸能プロダクションにはたくさんいるが政治の世界
には少ない。このような人材を募集したところ、面白い経歴の
人たちが三人ほど集まった。
一人はもと小学校の先生。彼はアイディアが豊富すぎて校長
やPTAとぶつかる日々にうんざりして塾の講師をしていた。もう
一人は外食産業で長く新規出店を担当していた男性。あとの
一人はベンチャービジネスが株式を上場する際のめんどうを見
ていた証券会社の女性課長である。
彼女は慶応義塾大学総合政策学部の出身で、就職のための
会社訪問をする際、どこに行っても、用意した資料をサッと広げ
た。そして、
「御社の経営は、コンポンテキに間違っています。そこで御社に
ご提案したいのは…」と自説をとうとうと述べ、50社以上回って
も内定がもらえなかった。
説明の内容はいいかげんなものではなく、各社とも学生とし
て集められる限りの情報を集めて研究し、その提案も、冷静に
聞けばなかなか見どころのあるものだった。しかし、その態度
がきらわれたらしい。
彼女の口調は自信を通り越して、傲慢だった。内
定が取れずいらいらしてくると、その口上はけんか腰になり、「
コンポンテキ」の「テキ」は!が加わった「テキ!」になった。こ
の「テキ!」が、特に部長以上の年配担当者の胸につきささり、
その神経をふっつりと切るのだった。。
そんな彼女も、なんとか証券会社にもぐりこみ、自分がしゃべ
るのでなく、投資家向けにベンチャー経営者にしゃべらせる仕
事をしているうちに、ずいぶん角が取れた。あいかわらず「コン
ポンテキ」は彼女の好きな言葉だったが、「テキ」の発音はずい
ぶんまろやかな「てき」になっていた。
そんな彼女をはじめとする三人が選挙の指揮を執ることにな
ったが、彼らにはいずれも選挙の経験がない。そこで、ツテを
頼って地方選挙の選挙事務所で修行させてもらった。
こうして政治団体としての体制が整ったので、いよいよ立候補
者を決めることになった。とはいえ弱小政党なので戦力を一点
に集中することにし、衆議院選挙ではすでにしっかりした組織
ができあがっていた首都圏で2名だけ小選挙区候補を立て、比
例代表では東京ブロックと南北二つの関東ブロックにだけ名簿
候補を立てることにした。
しかし、この案には猛烈な反対が沸き起こった。
政治の集団に集まってくる人々は、いずれも一旗あげようと
いう野心家ぞろいである。だから自分のデビューの機会を減ら
すことには極端に反発する。せっかく世襲廃絶に対する世論が
高まりつつあるのに、顔を出す候補者が二人だけとは。しかも
他党の候補者から推薦依頼があっても一切断るという。そんな
馬鹿なことはない。もったいないではないか。国民の期待を裏
切ってもいいのか!
これを反駁する執行部の理由は、力の集中で勝利を確実に
するという単純な軍略だけだった。豊臣秀吉もナポレオンも、こ
の原則を守って日本を統一し、ヨーロッパを征服したのだ、など
とくり返し解いた。しかし政治青年たちは納得しない。特に大票
田の京阪神をどうするかが焦点となった。
大都市でムードを盛り上げれば勝つという議論はわかるのだ
が、この地域には組織がまったくない。ムードだけでは小選挙
区で勝てない。しかもムードに頼って票をもらうことは、選挙民
を感情にしか左右されない存在として侮辱することではないか
。
そんな議論が繰り返されたのち、結局、小選挙区に候補者は
立てず、定数29の近畿ブロック比例代表に名簿候補者を立て
、組織を作りながら戦おうということになった。
□
立候補者の募集にあたっては、書類選考は一切しなかった。
その代わり、
「自分を信頼して応援してくれる人を十五人集めてください。そ
の人たちにお話をうかがってあなたの資質を判断します」
という文言で志願者を募った。この「十五人」という数字は、信
用できる古株の政治コンサルタントが長い経験から割り出した
値である。
この採用基準はかなりハードルが高かったらしく、応募期限
の六ヶ月を過ぎた時点での志願者はわずか五人だった。しか
も、そのうち二人は面接日に支援者が数名欠席したので失格
となった。
のこり三名について支援者面接が始まったが、この面接だけ
で、志願者の人品、能力、こころざしなどが露骨なほどよくわか
った。一人の志願者の支援者たちは、あきらかに無理やり集め
られたようで、面接者の問いかけに対する答えに熱意が感じら
れなかった。
ところが、残り二名の候補者の支援に集まった者たちは、い
ずれもその当選に命をかけてもよいといった熱気をたたえてい
た。したがって、選考はあっけないほど簡単に終わり、この二名
を公平同盟の公認候補として決定し、物心両面の面倒を見る
ことにした。
選挙区は石原慎太郎の息子石原宏高の東京3区、および元
首相小泉純一郎の二男が地盤を引き継いだ神奈川11区だ。
小泉家四代目に挑むのは同盟の事務局長をつとめる30歳
の男性。早稲田大学政経学部を出た彼は、日本生命に3年勤
務して資金をため、アメリカに留学してハーバードの大学院で
公共政策の修士号をとって帰国し、参議院議員の政策秘書を
経て公平同盟の門をたたいた。
東京3区で戦うのは、東大農学部を出て東京都公園緑地課
につとめていた女性で、31歳、一児の母。いずれの候補者に
も地盤と看板はない。しかし時間だけはあるので、オーソドック
スな選挙準備を行った。その中心が後援会づくりである。
友人を誘ってお茶会を開いてもらい、そこに候補者が顔を出
して話しをするというのが理想であったが、たいていは、すでに
後援会に入った人の案内で居宅を訪問し、玄関先で少しばか
り話しをさせてもらうだけだった。これを毎日繰り返す。相手が
男性の場合は、行きつけの飲み屋で集まってもらい、そこに候
補者が顔を出すことも多かった。
話しが終わると後援会名簿に名前をかいてもらうのだが、そ
の時、
「応援していただくお気持ちのあかしとして硬貨を一枚だけくだ
さい。1円でも結構です」
といってハンコがわりにワンコインをもらう。支援する者とされる
者の簡素な儀式だが、心の通う度合いはぐっと高まる。
最初は百円もらおうという意見もあったが、ワンコインに落ち
ついた。ハンコを持ち歩かない人は多いが硬貨を一枚も持って
いない人はいないので、これは成功した。
後援会員の七割が投票してくれるとして、当選ラインは東京
三区で16万票。だから集めるべき会員数の目標は11万2千
人。毎日百人獲得したとしても1120日かかる。これではとうて
い投票日に間に合わない。
地盤と看板はないが、時間だけはあると思っていたのだが、
その時間もないのだ。
それがわかったのは候補者を決めてから3週間後だった。そ
こで、ボランティアを募り、手分けして各戸訪問をしようと考えた
。しかし、そう簡単にボランティアは集まらない。
事務所でタダで飲んでいる学生たちに期待したのだが、意外
にも動きがにぶかった。飲み食いは得意でも、いざ働くとなると
誰しも腰が引けるのだろう。特に、毎晩よく飲み、よく談じて、み
んなのリーダー格と目されていた男は、自分の足を使うこ
とになるとまったく役にたたなかった。
□
寄付金募集には知恵をしぼった。
寄付を集める時には、寄付の目的をできる限り明確にしなけ
ればならない。ただ、寄付してください、では迫力がない。椅子
がないんです、机がないんです、だから寄付してください、と言
う方がわかりやすい。
そこでまず、「ポスター基金」と称して、使途を街頭ポスターづ
くりに限定した寄付金募集を行った。
あなたのお名前をポスターの裏側に印刷します、と説明しな
がら、一万人から一口2000円を集めて2000万円を達成した
。それが、募金を開始してからやっと一年後。目的額達成後た
だちに寄付者のもとに一万人の名をびっしりと記したポスター
が送られた。
名前はアイウエオ順でなく寄付日付順なので、自分の名前を
探すのにみんな一苦労していた。
冠婚葬祭にもまめに顔を出した。葬儀があれば三本の線香
を香典として包み、結婚と聞けばお祝いの言葉のカードを持参
する。
金を包まない香典袋はすぐに捨てられた。相手によっては、
馬鹿にしているのか!、と怒られもした。
そこで、世間の常識に従えばいいじゃないか、香典に必要な
金は別途募金すればいいじゃないか、という声もあがった。
しかし、募金をするにしても、「葬式基金」ではクライし、「香典
募金」も変だ。そんなファンドに金を入れてくれる人はいないだ
ろう。ここはひとつ辛抱して、故人をしのぶ気持ちを線香に託す
という趣旨を理解してもらおう。愚直にいくんだ、ここはがまん
だ。そのような議論が最後に勝ったが、要は金がなかったのだ
。そして集める自信もなかったのだ。
葬式はこちらから押しかけるからまだよいが、結婚式に新顔
候補はまず呼ばれない。お祝いカードを新居と両親宅にお届け
するのが精一杯であった。
□
後援会作りを始めて1年たったころになると、いわゆる選挙に
便乗して利を漁る、いわゆる「選挙ゴロ」たちがたくさんあ
らわれた。
著名人に会わせて、あとから数十万円の謝礼を要求する者
などはまだかわいい方である。会計をまかせた人物がすべてカ
ラ発注しており、総額300万を着服したまま姿を消したのには
まいってしまった。ポスターも宣伝カーもいつまでたっても来な
い。その時はじめて不正がわかったのだが、もうあとの祭り。
横領された金額は予備費でなんとかやりくりし、あらためてポ
スターなどを発注したが、二度とこのような被害が起きないよう
、金の流れは、複数の者で、常時監視することにした。仲間を
疑うのはつらいことだったが、監事をしてくれている現役銀行マ
ンの告白でそう決めた。
「恥ずかしい話ですが、ぼくは万引きをしたことがあります。
過労でうつ病になり、それが直るころ、やたらハイになって、
なんでもできるんだという気分になっていました。そんな時、な
んでもチャレンジだ!という気持ちで万引きをしたのです。
コンビニは狭いからやめて、スーパーでやりました。10回以
上やっても全然平気でした。それで今度は、無銭飲食にチャレ
ンジだ!と決めたのです。居酒屋で飲んで食べて、トイレに行く
ふりをして外に出て、そのまま歩いていると、店員がおっかけて
きました。それで、走って逃げました。必死でした。
相手を振り切ってホッと一息ついた時、思いました。もうやめ
よう、って。このままではいつかつかまる。もう悪いことはやめ
よう、って。
おかしくなる時はだれにでもあるんじゃないでしょうか。人間
はもろいものです。弱いのが人間なんです。いつ、どう変わる
かわかりません。『魔がさす』とも言うじゃないですか。だから、
いつまでたっても横領がなくならないのです。そして、だからこ
そ、横領をしないよう、その人を見てあげる必要があるのです。
ずさんな管理は罪作り。そう思いませんか?」
謹厳実直を絵に描いたような銀行員が、その体験から得た教
訓に、執行部はみんな納得した。
彼の懺悔によってできた厳しいチェック体制のもと、
選挙ポスターは再度発注された。それができあがたったのは、
そろそろ解散ではないか、と新聞が報道しはじめたころである。
デザインは白地に赤く『プロジェクト日本』と染め抜いたもの。
この文言はジャッキー・チェンの映画『プロジェクトA』、NHKの『
プロジェクトX』に続く三番煎じであったが、新鮮さをもって人々
に迎えられるはずだと、身内では確信していた。
しかし、「プロジェクト〜〜」も「ーー日本」もありふれたキャッ
チコピーである。いくら大上段に、プロジェクト日本!とふりかざ
してみても、その言葉自体に中身はない。はた目から見れば、
陳腐で手垢にまみれたコピー文に過ぎないのだが、
身内だけは燃えていた。どんな組織でもよくあることだ。
シールも作った。その形は二種類で、神社仏閣の門柱に貼ら
れている千社札と、観光みやげでおなじみの三
角錐ペナントである。このシールを学生や主婦が近所のおじい
さんに連れられて一軒一軒売りあるき、ついでに後援会への加
入もお願いする。
売り始めて三ヶ月たったころ、車の窓に内側から貼れるもの
はないのかと言われ、早速そのタイプも追加した。
若者がシールを売り、「プロジェクト日本」のポスターが町中に
貼られ、秋も終り、冬も近づいたころ、当初の予想どおり、11
月に解散、12月に総選挙が行われた。
□
神奈川12区の選挙戦は楽だった。三代目までは許すが四代
目となるとさすがに人は許さない。まして純一郎が改革の成果
を挙げただけに、息子に世襲させた父の固陋ぶりがめ
だってしまい、「先代の純一郎が世襲でなく実力で勝ちあがった
政治家だったならば、不良債権の処理だけでなく、ほかの改革
も成功したに違いない」といった正論も飛び出す始末だった。
しかし東京3区の戦いは熾烈を極めた。後援会員は
着実に増え、公示日までになんとか7万人の名簿がそろってい
たのだが、業界団体に入り込む余地はまったくなかった。唯一
推薦がもらえたのは、候補者が毎日大根やにんじんを買って
いた八百屋のご主人の尽力による、青果組合だけだった。
石原父が参議院全国区から衆議院に転じたのが1972年だ
から、親子二代にわたって40年近い地盤を形成している東京
都大田区は、もはや「石原王国」の様相を呈しており、忠臣たち
が磐石の組織を築いていた。しかもわきをかためる渡哲也、舘
ひろしなどの「石原軍団」が連日選挙区にやってきて支持を訴
え、選挙カーの周囲はいつも黒山の人だかりである。
対する公平同盟の方は、”世襲廃絶・実力本位”の趣旨に賛
同したお笑い芸人たちが何人か応援にかけつけてくれた。しか
し、それは圧倒的な力を持つ帝国軍の前で、絶望的な抵抗を
するわずかな道化に過ぎなかった。
投票日が四日後に迫り情勢の不利がますます明らかになっ
たころ、骨董品のような政治ブローカーが東京3区の事務所に
あらわれた。一人一万円で票をとりまとめるから百万ほしいと
言うのである。いまどきムラの選挙でも通用しない手法だし、値
段も昔聞いた金額と同じだ。
「ええ、15年前と同じ値段です」
こう言われて笑いそうになったのは若い運動員だけで、のど
から手が出るほど票が欲しい選挙参謀は、詐欺だとわかって
いても心が激しく揺らいだ。
しかしどう対処するかは前もって決めてあったので、そのマニ
ュアルに従った。買収の金品を要求した者は公職選挙法221
条違反として処罰できるが、参謀は彼を告発せず、やりとりの
一部始終をビデオにとり、それを2週間ほどネットで公開した。
ダブルのスーツにネクタイをきっちりしめ、正絹のポッケチー
フを胸にはさんだ老紳士が、なごやかな口調で買収の手口を
説明する画像は、一夜にして人気サイトとなった。
□
選挙区に入らない学生たちは『公平同盟』と書いたのぼりを
持って全国各地に飛び、主に駅頭で選挙法改正への支持を訴
えた。彼らはサウナに泊まって宿代を浮かすことにしていたが
、うちへ泊まって行けと言われてしばらくご厄介になる者もいた
。
宿を提供されなくとも、大分で叫んでいた者は関サバ定食を
おごられ、札幌で歩きながらハンドマイクを使っていた女子学
生はバターラーメンをごちそうになった。
彼らは托鉢する僧のように寄付の皿も持って行ったが、連日
千円札を中心に多くの浄財がなげこまれ、投票日までに総額
で3429万6825円が集まった。
政治団体としては関東と近畿以外の比例区に候補を立てて
いなかったのだが、「公平同盟」と記した無効票が数多くあった
と選挙管理委員会から後日発表された。
しかし選挙期間中、同盟内部ではとんでもないことが起きて
いた。大失態は比例区で発生した。
□
比例区の名簿候補者は、その者が選挙区の支持者名簿を集
めた数で決めた。この時、東京3区と神奈川11区の数は2倍
に計算した。つまり、小選挙区とブロック選挙区で大きく貢献し
た者が候補者になれるのだ。
もちろん架空名簿もありうるので、無作為抽出で名簿掲載者
の5%に電話をかけ、「今度の選挙には間違いなく私どもの候
補者○○に投票していただけますね」と言って、本当に足を使
って集めた名簿かどうかを確認する。
この電話かけはパソコンを使えないお年寄りにお願いした。
同盟は、運動も業務もすべてネットを通じて行っているので、ど
うしてもパソコンに慣れない高齢者を組織に取り込めない。そこ
で、電話や訪問などは極力この人たちに活躍してもらうことにし
ていた。
ただし、確認すべき名簿の送付、確認の結果などの連絡はす
べてネットで行うので、おじいさんとおばあさんにはサポーター
をつけ、一緒に作業をしてもらった。これは、少壮と老年の双方
に、同じ釜の飯を食って苦労してもらうことで、運動への支持が
より一層深まる効果を狙っていた。しかし、トラブルはここで起
きた。
確認すべき作業リストは本部がとりまとめ、各サポーターに配
信され、サポーターはそれを紙に打ち出して担当のおじいさん
かおばあさんに渡す。そして時には一緒にお茶を飲みながら、
電話をかけ、結果を用紙に記録する。それをサポーターが入力
して本部に送る。
このような5手順を二人がこなすのだが、カゼなどで電話手が
交代すると、交代要員を手配するために2手順増え、二人だっ
た参加者が三人となり、その結果「7手順三人」となる。
伝言ゲームと同じく、プロセスが増えれば増えるほど、間違い
が増える。事故はこうしておきた。
検査入院のため電話手のおばあさんが作業開始前に交代す
ることになったので、サポーターがそれを本部に連絡した。サ
ポーターと高齢者は一体なので、本部担当者は別のユニットを
作業にあてることにし……。
担当者(女性)はここから先を間違えた。公示前ではあるがす
でに事実上の選挙戦に入っているので、本部は戦場である。そ
の混乱の中で彼女は、やっと探し当てた代わりのユニットに、
本来ほかのチームに送るべきリストを送ってしまった。しかも大
量に。
受け取ったがわは、何の疑いもなく必死に電話かけをする。
しかし、50倍の分量を受け取ったため、50分の49の確認作
業ができない。こうして、立候補締め切りの日になった。
他方、リストの到着を待っていた人々も、他の仕事があったの
で、何の疑いも持たず、誰一人本部に催促しなかった。
また、ミスをした本部担当者も、自分の間違いに気づくどころ
か、確認結果の報告があがって来ないことにいらだち、同僚に
むかって、「トロイことやってんじゃねえよ。まったくC班は…」と
口汚いことばで軽口をたたいていた。
しかし、いくら待っても報告がないので、リストを送った相手に
きつい調子のメールを書こうとした瞬間、彼女は気がついた。
もしかしてリストを送り間違えたのではないか?
全身から汗が吹き出すのを感じつつ、彼女は送ったリストを
調べた。C班は50のチームで構成されるはずだが、刹那(せつ
な)の直感で思ったとおり、すべてのリストを一つのチームに送
っていた。
もう時間がない。これ以外の支持者名簿はすべて確認を終え
、集計表には、76%、69%、91%といった名簿の信頼度を示
す数字がならんでいる。名簿の支持者数はこの数字をかけて
割引される。
自分の失敗を告白し、空欄のまま報告するか。いや、それは
できない。そんなことをすれば、この名簿を必死で集めた立候
補志願者に申し訳ない。C班の確認対象は二名の志願者。こ
の二名が集めた支持者数は第3位と12位。自分が叱られるの
もいやだが、二人の努力をむだにすることはもっと悪い。途中
経過だけど、71%という数字は来ている。50のうちあとの49
も問題なかろう。いや、ないはずだ!
彼女はこのように自分自身に説明した。
でも、マズイんじゃないの?
この疑問を投げかけるもう一人の自分は、神様にお願いして
罰してもらった。
そして彼女は、この71%という途中数字を第12位の志願者
に、71を少し丸めた69という数値を第3位の者の欄に入力し
て送信した。
こうして69という数字をもらった人物が候補者になってしまっ
た。
この男は軽い気持ちで支持者集めによる候補者選びに参加
し、最初から実際に動くつもりはなかった。名簿は、電話帳から
適当に作り上げた。そして、彼のように徹底して架空の名簿を
作るような参加者は他にいなかった。だから50分の1のリスト
でも、確認結果はまあまあの数字71%だったのだ。
さらに、この詐欺師のカラ名簿は、まったく電話確認されてい
ない50分の49のリストの大半を占めていた。
彼が南関東ブロック名簿順位4位の候補者として認定された
時、どうせこんなミニ政党などに票が集まるわけはないと思って
いたので、候補者になったと言われても何の感慨もなかった。
それでも、選挙期間中は本部に毎日顔を出し、支持者のもと
に行くと告げて外出していた。もちろん、同盟のためには何もし
ない。気持ちもないが、そもそも手段もないのだ。
そんな彼でも、ブロック当選者が増えて、自分も国会議員にな
るとわかった時は、ほんとうかよ、マジかよと、大きく、しかし心
の中だけで叫んだ。彼も本部につめて他の候補者たちと開票
速報を見ていたため、バンザイ以外の声を上げることが許され
なかったからである。
男の不正がわかったのは、選挙が終わって2週間経ったころ
である。彼の言動がどうひいき目に見ても粗暴かつ野卑なので
、念のため、支持者名簿をあらためて検査したのだ。その結果
、実在の人物は一人もなく、名簿がまったくの虚構だったことが
わかった。
執行部はあぜんとしたが、もうどうしようもない。ただちに彼を
除名し、次順位の名簿候補者をくりあげ当選させる手続きを取
った。
マスコミへの公表はこれより早く、彼の不正があった時点でた
だちに謝罪会見を開いた。これは危機対応マニュアルにそった
行動である。
マニュアルは市販本をまる写ししたもので、もとの本は古典を
引き、「孔子曰く、改むるに憚ることなかれ、と
。いさぎよく非を認めて陳謝することが早ければ早いほど、非
難を支持に変えるきっかけが生まれます」と説いていた。
なるほど!
マニュアルを作ったとき、執行部はひたすら感心した。彼らは
平凡人の集まりであり、危機などに出会ったことがない。あえて
危機の経験を探しても、その内の一人が直面した「浮気の発覚
」くらいしかない。それすら、「危機対応」に失敗しており、彼は
熱いアイロンを背中に押し付けられている。
その本はさらに言う。
「人前で謝罪する人数は、絶対に三人です」
その教えどおり、会見では、三名の幹部が雁首そ
ろえて90度に腰を折り、「申し訳ございません」ときっちり頭を
下げた。パシャパシャパシャというお決まりの音がそれに続く。
三名である理由については、「二名以下だと、誠意がないと
受け取られます。また、四名以上だと、頭がバラバラに下がっ
てしまりのない印象を生み、謝罪対応でもっとも必要な『いさぎ
よさ』イメージが演出できないのです」と説かれている。
冷静に考えると、3人も4人も大した違いはないのだが、危機
に遭遇した経験がない幹部たちは、誰も疑わなかった。
その幹部連中は内部から猛烈な非難を浴びた。
「危機対応のマニュアルをそろえるより、そもそも危機が起きな
いよう、事務のマニュアルを完備する方が先ではなかったのか
」
その通りなのだが、危機対応をうたう書籍は山ほどあれど、
選挙事務のマニュアル、しかも実務に使える詳細なものは皆無
だ。
そのことを心の中で思いながら、執行部は内部構成員に対し
て、ひたすら無言で頭を下げた。
しかし、失墜した信用を取り戻すには長い時間がかかった。
支持者に対しても、世間一般に対しても。
□
ともあれ、この失敗が明らかになったのは選挙後だったので
、選挙中の公平同盟は広範な支持を受けた。結果は次のとお
り。
東京3区はやはり落選。神奈川11区の一名、比例区の東京
・南北関東ブロック10名、近畿ブロック2名が当選し、衆議院に
13議席を得た。3区の女性候補者は比例区への重複立候補
をさせてもらえなかったので、落選後は団体の広報責任者とし
て働くことになった。
選挙期間中、公平同盟は「二世比率」という言葉を作って世
論を喚起しようとつとめていた。これは親兄弟が地方議員・首
長・国会議員だった議員の割合である。
議席数が確定するとただちに新聞各紙に二世比率が掲載さ
れ、その数字「49.2パーセント」を見て同盟幹部たちは大いに喜
んだ。なぜなら、半数にわずかに足らないこの数字によって、
「いま制度を改正しなければ、次の選挙で議員の半分が世襲
になりますよ、それでいいのですか」と国民に訴えかけることが
できるからである。
新人議員たちは当選の興奮も冷めやらないうちに早速多数
派工作を始めた。翌年の正月あけから彼らは自民党と民社党
の非世襲議員をたずね、説明し、説得し、時に恫喝
した。法改正に賛成しなければ、先生の選挙区にわれわれの
候補者を立てますよ、と。
公明党、共産党、社民党には世襲廃止に反対する理由が何
もないので、簡単な説明だけですんだ。こうして、着々と味方が
増えていったのだが、命を奪われるがわの抵抗もまたすさまじ
いものであった。その代表は世襲議員の父、石原慎太郎であ
る。
かつて、
「部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃起した陰茎を外
から障子につきたてた。障子は乾いた音をたてて破れ」
と記して旺盛な種族保存の欲求を表現した彼は、年をとっても
まだその欲望を保っていたのだろう。×××を入れた茶封筒を
持って片っ端から議員たちの内ポケットにねじこみ、法案への
反対を要請した。
しかし、性器を紙に押し込んでも子供が生まれないように、懐
に押し込まれた×××は、砂漠にしみこむ水のようにあとかた
もなく消えていった。
四ヶ月あまりで民主党の非世襲議員101名全員の同意をほ
ぼとりつけた。自民党でも非世襲議員の大半が協力を確約し
てくれ、その数119名に及んだ。これで220票。これに公平同
盟13、公明31、共産9、社民7、無所属諸派2を加えれば28
2票となり、過半数の240を大幅に上回る。ここまでの票読み
ができたのは、選挙から半年たった6月3日のことだった。
ただちに議員立法で公職選挙法の改正案が上程された。もし
僅差の情勢ならば、⊂⊂を使った切り崩しによって形成が逆転
される恐れもあるが、40票もリードしていれば裏切りはほとん
どない。世襲廃絶の流れが決定的な以上、バスに乗り遅れた
者にはきびしい非難が待っているからだ。
採決は同月14日に行われた。自民党の世襲議員が反対票
を投ずるのは当然として、その他の議員たちが次々と賛成の
札を入れる光景が続いた。しかし民主党の議員の番になると
異変が起きた。彼らは一斉に反対票を投じたのである。
議席からも傍聴席からも一瞬、「オー」というどよめきが起き、
続いて聞くに耐えない怒号がとびかった。彼らは見事に裏切っ
たのである。
結局法案は賛成181反対299の大差で否決されてしまった
。このニュースはただちにネットに流れ、ついで夜のテレビニュ
ースのトップに報道される。
国民は憤激した。
改正案に反対した民主党議員の自宅にいやがらせが始まり
、そのホームページには最新のコンピューターウィルスを乗せ
たメールが送られ、民主党本部の電話は殺到する抗議の電話
で一時不通となった。
舞台裏で何が起きたのかはわからない。関係者は全員貝の
ように口を閉ざした。石原の×××が利いたとも、世襲議員た
ちの生存本能による巻き返しが成功したとも、二世議員である
小沢一郎のしめつけが奏功したとも、あらゆる憶測が飛び交っ
た。
公平同盟としては対策を協議した結果、抗議のデモをうつこ
とにした。しかし、メンバーは誰一人デモに加わった経験がない
。学生時代、過激派の覆面デモを冷ややかに見ていた世代と、
そもそもキャンパスにデモなるものが存在しなかった世代しか
いないので、デモをするにしてもどうしてよいやら皆目見当もつ
かなった。
それでもなんとか古老からデモのやり方を聞き、とりあえずデ
モの期日と目標人数を決定した。デモの決行は7月24日、目
標とする人数は10万人。はたしてこれだけの人数が集まるか
どうか、まったく自信がない。かつての労働組合は組合員に手
当てを払って動員をかけたものだと聞いても、公平同盟にそん
な金はない。
しかたがないので、ネットで「7月24日、東京駅から国会議事
堂まで、歩くオフ会をしませんか」という呼びかけをした。公職
選挙法を改正しよう!などという政治的メッセージを流しても、
相手が引くだけだということは確信していたので、政治めいた
内容は一切掲示しなかった。
政治青年たちからは伝統的なスローガンが主張されたが、「
セイジ」と聞いただけでうさん臭いものを感ずる者たちが執行部
の過半を占めていたので、激論の末、脱政治的宣伝に終始し
た。
しかし国民からの反応はなかなかよいものだった。そもそも、
祖父母からデモに行った思い出を語られたことのある若い世代
は、デモに淡いあこがれを持っていたのである。だから”デモを
知らないあなた。一生に一度の思い出に、デモに行ってみませ
んか”というメールだけで集まってしまった、お気軽な「てゆうか
デモ」のカップルも当日は多かった。
そのほか、親子連れの「ディズニーランドのついでにデモ」や
、おばあちゃんたちの「巣鴨とげぬき地蔵のついでに
デモ」などもあった。
道路の使用許可を取るため、事務局は前もって参加人数を
把握すべく参加者をネットで募集しておいたのだが、当日はそ
の人数をはるかに上回る人たちが押し寄せ、最終的な参加者
は70万人を超えてしまった。(警視庁発表:71万3000)
その昔1960年(昭和35年)、日米安保条約に反対する人々
が国会を包囲したデモは65万人であり、一名の死者も出して
いる。しかし今回のデモにそんな悲壮な様子はまったくない。
行進する人々は、あちこちにちらばるストリートミュージシャン
の音楽を聴き、テキヤの屋台で焼き鳥をほおばり、ボランティ
アが説明してくれる旧跡案内に立ち止まるといった具合に、日
本最大の縁日を楽しみながらのんびりと歩いていた
。
当初の予定では東京駅だけに下車して国会をめざす予定だ
ったが、一駅だけではとても乗客を降ろしきれない。そこで、運
動本部はただちに隣の駅からの下車をすすめるサイトをたちあ
げ、アドレスの分かる人にはメールも送った。
東京駅の北は、神田、秋葉原、徒町、上野まで。南は有楽町
、新橋、浜松町、田町まで。これらの駅から次々と人が吐き出
され、いずれもいったんは東京駅のレンガ駅舎をめざし、つい
でまっすぐ皇居に向かい、皇居前広場につきあたると左に折れ
て桜田門の警視庁まで歩き、そこを右に折れて、あとはゆるや
かな坂を登って国会議事堂まで。蟻の群れが行進を終えて蜜
に群がるように、議事堂周辺は人間に埋め尽くされた。
議事堂に至るまでに人の流れがもっとも滞ったのは、桜田門
周辺だった。名所案内の担当者がスピーカーで、
「桜田門には、外桜田門と内桜田門があり、外桜田門に面して
いるのが警視庁です。幕末に井伊直弼が暗殺されたことで有
名なこの門の名は、もともとここに桜田という村があ
ったことに由来し…」と説明すると多くの人が足を止め、
「俗に桜田門とも呼ばれる警視庁は、1874年、明治7年に首都
東京を守るために創設され…」と始まると、せっかく流れ始めた
群集がまた、足を止めてしまう。
そこの屋台は大繁盛で、黄色いカラシと真っ赤なケチャップを
かけたアメリカンドッグをほおばり、パステルカラーの粒チョコを
まぶしたチョコレートバナナをなめる人々が大勢いた。中には、
道路わきに座り込んでじっくりと名所案内を聞く者もいた。
警備にあたる警察官たちは最初のうちこそ殺気だっていた。
群集たちが指定ルートからはみ出し、勝手に立ち止まり、時に
は元に戻るからである。しかし、このデモが平和的で楽しそうな
ものなので、途中から進路規制はあきらめ、もっぱら気分の悪
くなった人の世話やトイレの案内に終止していた。
このお祭り騒ぎは深夜になっても続き、翌朝の始発列車が動
き始めると、人々は永田町や赤坂見附などもよりの地下鉄駅
から三々五々帰っていった。
□
このデモが終わって三日後、公平同盟内にちょっとしたお家
騒動がもちあがった。
同盟としては、選挙法改正に成功したあとの選挙は選挙活動
を一切せず、公認も推薦もしない方針だった。しかし、運動の
高まりを見た幹部の中には、「一政党として候補者を立てるべ
きだ」と考えた者もいた。野心にあふれる若者が多く集まる組
織にあっては当然の動きである。
しかし、執行部は頑としてその要求を拒絶し、同盟があくまで
も選挙制度の改正を主眼とする運動体であることを主張した。
そこで、業を煮やした者たちは分派を作ることにし、ただちに結
党して「公平同盟 本部」と称した。デモからわずか二週間後の
7月23日のことである。
幹部たちは動揺し、名称の差し止め請求の訴訟を起こすなど
と息巻いていたが、同盟の代表者は「名前を使われて困るとい
うなら、こっちは『元祖 公平同盟』とでもしますか」と笑ってとり
あわない。多少の混乱はあったが、国民の支持はやはり本家
の方にとどまり、選挙に候補者をたてる前に『本部』は消えてい
った。
公平同盟の分派さわぎはあぶくのようにはかないものだった
が、自民党のそれはまったく異なっていた。それは単純な政治
力学によるものである。
280名の自民党衆議院議員のうち、世襲は137名、非世襲
は143名。幹部クラスはほとんど世襲議員に占められている。
デモに国民の熱気を見た非世襲議員たちはこう考えた。
選挙法改正案の成立はもう間違いない。これに反対するなら
次の当選はおぼつかない。現に否決した直後、支持者からの
抗議の電話が議員会館や地元の事務所に殺到した。選挙法
が改正され二世議員が一斉に国替えして立候補するなら、そ
のほとんどが落選し、自民党は一気に第一党の地位を失い、
民主党が政権を取るだろう。それでは自分たちが困る。
しかし、二世議員を引退させ、これまで国政に出たくても出ら
れなかった地方議員や首長を公認候補として自民党から立候
補させれば、当選は確実だ。しかも、これまでの幹部がほとん
どいなくなるのだから、すぐに大臣ポストがまわってくるのは間
違いないし、自分が内閣総理大臣になるのも夢ではなくなる。
誰もがこのように考え始めたので、あとは誰がこの動きのリー
ダーシップを取るかという問題だけになった。いち早く仕切り役
に名乗りをあげたのは、副大臣を二回経験していた〓〓であっ
た。彼はテレビ中継される国会デモの様子を見るかたわらで、
その熱気が乗り移ったように檄文をしたため、ただちに賛同者
を募るために議員会館の中を回り始めた。同志が10名集まる
とすぐに記者会見を開き、「新自民党」の結成を告げた。
といっても彼らは離党したわけではなく、今の執行部が退陣し
なければ新党を結成し、新自民党の名のもとに、今の自民党
の人的財産をすべて接収すると通告したのだ。
テレビで〓〓たちの会見を見た閣僚や幹事長たちに衝撃が
走った。しかしまもなくその感情は慟哭に変わった。
流れが世襲廃絶にあることは彼らも肌身に感じていたからであ
る。
非世襲議員による自民党内の多数派工作は、デモが鎮静化
するのと反対に一層活発化し、公平同盟のお家騒動が終結し
たころには自民党総裁を決める選挙が公示された。そして投票
では、国会の赤い絨毯を踏むことを夢見る地方議員たちの圧
倒的支持を得て〓〓が総裁に就任した。
〓〓はただちに国会で総理大臣に指名され、組閣手続きに
入った。この内閣は来る衆議院選挙までの「選挙管理」
内閣に過ぎないので、〓〓はあえて世襲議員を閣僚に任命し
た。これらの大臣はマスコミから「お情け大臣」と称されたが、
〓〓が二代目たちに最後の花道を提供する代わりに〓〓を総
裁とする密約が、彼らの間にかわされていたのだった。
この内閣のもとで今度は政府提案として選挙法改正案が提
出され、賛成多数で可決された。その様子は冒頭で述べたとお
りである。
可決された条文は簡単なものだった。
「公職選挙法 第87条の3
その三親等以内の血族ないし一親等の姻族が昭和21年以
降に立候補して公務員となった者は、それぞれの選挙区に重
なる部分があるとき、その選挙区の候補者となることができな
い。」
三親等の血族とは叔父、一親等の姻族とは妻の父を指して
いる。この条文で、子と孫はいうまでもなく、甥や娘婿も選挙区
の地盤を相続することが不可能になった。
なお、この条の第二項では、立候補制限を国政だけにとどめ
た。だから、地方政治はまだ世襲が可能である。これには反対
論もあったが、地方自治まで世襲を禁止すれば、政治家の子
弟は必ず生まれ故郷を離れて家業を営まざるをえない。憲法
の保障する立候補権をそこまで制限することはできないだろう
という議論が支持され、第二項が法文に盛り込まれた。
□
10月23日に衆議院が解散されると、議員たちは異様な高揚
感をいだいてそれぞれの選挙区に帰っていった。相手を蹴落と
し、自分だけが生き残るためのいくさが始まるのだ。
世襲議員の半数は立候補を断念したが、残りは選挙区を替
えての選挙戦にのぞんだ。世襲廃絶の嵐の中、彼らへの風当
たりはきびしかったが、特に慶応義塾の出身者には、塾を開い
た福沢諭吉の言葉が浴びせられた。
福沢は、あふれる能力を持ちながら下級の士族であったため
に無能な上級者がその身分だけで出世の階段を上っていく様
子をにがにがしく眺めていた。だから彼は、「門閥は親のかたき
」と言って死ぬまで世襲を憎み続けた。したがって慶応卒の二
世議員は、福沢先生の教えに背くのか!と言われると、反論の
しようがなかったのである。
これまでの名誉と財産が砂のように崩れていくなかで、世襲
議員たちのストレスは頂点に達した。ついに死者を出し、大臣
を二期つとめた大物が公示日の前日にホテルで首をつったと
報道された。また、慶応出身の小沢一郎が胸の痛みを訴えて
入院したのも同じ日であった。
しかし、政治家を志す人々はかつてない大きなチャンスに心
のときめきを抑えることができなかった。なにしろ百五十名を越
える世襲議員たちのポストが一気に空いてしまうのだから
、これまで、どんなに優秀でも県議どまりで政治家生命を終え
ていた者たちは、血をたぎらせて国会議員に名乗りをあげた。
官僚たちもこれまでになく立候補した。国政にいくら関心があ
っても自分が二世でない限り、娘婿にでもならなければ議員は
無理だ。行政官としての地位を捨ててまで国会に挑戦するには
あまりにリスクが大きすぎる。そんな懸念は今回の改正で吹き
飛んでしまった。職を捨てて立候補したのは課長級が2名、課
長補佐にいたっては23名が役所を飛び出した。
□
総選挙が公示された日、かつて公平同盟の設立を呼びかけ
た某は、規約第19条に従って公平同盟の解散手続きを進めて
いた。選挙法の改正が終わり、政治における世襲廃絶の目的
が達成されれば、同盟を解散する旨は設立当初から定めてあ
った。
「これから暇になるが、なにをしようか。今度は高齢者向けのス
ポーツでも発明するか。ビーチボール水球なんかどうだろう。水
の中だから怪我はしないし、玉の奪い合いだから結構興奮もす
る。でも張り切りすぎて体がぶつかったらあぶない。
そうだ!
男が女の体に触れたら無条件で相手に1点与える。これなら
不公平じゃないだろう」
そんなたわいのないことを夢見ながら、某はこれまでのことを
振り返っていた。
…そう言えば、前回の選挙で比例区の連中にこんな言葉も贈
っていたなあ…
「時の流れにくさびを打て!」
比例区の前回当選者は、一名が参議院に、二名が首長選挙
に挑戦するほか、全員が主婦、研究者、実業人などに転進した
。
投票日は二日後である。
■参考文献
『内閣制度と歴代内閣』, 首相官邸,
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
『選挙参謀、手の内のすべて』, 鈴木精七, 講談社, 1995
『太陽の季節』, 石原慎太郎, 新潮社, 1956
『シルバーが燃える ビーチボール水球』,田中雄二 , 蘊奥舎,
2012
◆伏字×××の扱いについて
×××のところに、「百万円」などと記入すれば、犯罪行為の
描写となってしまうので名誉を毀損する可能性が大きくなりま
すが、「小さいころのわが子の写真」とすれば、子を思う親の熱
情を描写するに過ぎず、なんの問題もないでしょう。