参
五月、ゴールデンウィーク突入。しかし別段イベントもない。そうだ、酒を飲みに行こう。ということで妻帯者でもない独身貴族の私は何時もの行きつけのあの店にやって来た次第だ。
それにしてもこの店は世間の流れを無視しているのか、普段と変わらない客入りだ。なにせ私しか居ない。店内で流れる曲はBill EvansのMy Foolish Heart。静かに揺れるキャンドルの火を見つつボーッとしながら聴き入ってしまう。
「これ、貰い物なんですけど良かったら食べませんか?」
とマスターがココットを手に厨房から出て来たかと思うとそう話し掛けてきた。そして目の前に置かれたココットを凝視する。んーー?スナック菓子かな?
「これ、山崎蒸留所で売っているパスタスナックなんですって」
言われてみると成る程。確かにマカロニやフジッリだ。一つ手に取り食べてみる。強烈な燻したベーコンの味が口に広がり、手元にあるビールを一気に流し込む。
「このおつまみは良い意味でまずいね」
ですよね。とマスターが笑顔で肯定する。そうなのだ。このスナック、止められない止まらない奴なのだ。これはビールだ、ビールしかない。止まらない手をどうにか止め、ビールをもう一度注文する。
「それならスタウトビールと合わせるのは如何ですか?香ばしい香りが合うと思いますよ」
じゃあそれで。と注文する。因みにスタウトビールとはビールの原料である大麦麦芽を乾燥させる際、高温で色が変わるまで乾燥させ、上面発酵という製法で作られたビールのことだ。更に因みに日本のビールは下面発酵という製法が主流で喉越しやキレが特徴だったりする。
「当店にはギネスしかないですけどね」
マスターはそう言いながらビアグラスにギネスと書かれた黒い瓶を用意している。最初は勢い良く注いでキメの細かい泡を発たせ、最後に静かに液体を注いで綺麗な泡と液体の比率を作り上げると私の手元に置いた。
先程のパスタスナックを先に含み、次にビールを口にする。燻した塩辛い味わいにコーヒーとも云われるギネスの特徴のある風味とビールの苦味が混ざり合う。ああ、駄目だ。これは人を駄目にする。
左手にグラス、右手にパスタスナックを持ち、二三度交互に味わっていると、不意に人を寄せ付けない重そうな黒い扉が開いた。少し酔っているのか、楽しそうに会話しながら入店してくる若い男性が二人。
「いらっしゃいませ」
マスターはいつもと変わらない笑顔と声色で彼らを迎えた。入り口から一番目と二番目のカウンター席に通し、おしぼりを手渡す。
「俺はモスコミュールで」
先頭で入って来た黒髪短髪で服の上からでも分かる位がっしりした体格の彼はおしぼりを受け取るのも早々にそう注文した。
「うーーん。俺あんまりカクテルとか分からないから生ビール下さい」
後ろを付いて来た茶髪のこれまた体格の良い彼はそう話ながらビールを注文した。
「おいおい、バーに来てまでビールを飲むことないだろ」
と黒髪は呆れた口調と表情で茶髪を茶化す。それに対してバツの悪い顔をしながら茶髪は五月蝿いなと口を尖らせている。
「ご注文は宜しいですか?」
と苦笑いを浮かべるマスター。まあ、偶に見る光景である。バーでビールを飲む。全然悪い事ではないし、なにせ私も今スタウトビールを飲んでいる。バーで飲むビールは家で飲む缶ビールとはやはり違う訳で、酒のプロがセレクトし、最適な液温やグラスでサーブするのだから。とまあ、持論を展開したが、だからと言って彼らの会話に割って入るつもりない。
そうこう考えていると、マスターは作業スペースに銅製のマグカップを用意していた。カットライムを搾り入れ、氷を詰めたマグカップにストリチナヤというウォッカを計量して入れ、ジンジャエールでマグカップを満たした。そしてジントニックと同様に静かにバースプーンを入れ、氷を二度掬い上げる動作をし、ゆっくり一周させた。そして次はビールだ。ビールサーバーの口にビアグラスを斜めにした状態で近づけ、サーバーの取っ手を手前に引く。すると黄金色の液体が真下に向かって流れ、グラスの縁を伝う。七割程満たされたらサーバーの取っ手を奥に倒し、泡を注ぐ。最後にカニ泡と呼ばれる荒い泡はバースプーンで取り除き、再びクリーミーなキメの細かい泡を注ぐ。完成だ。
「お待たせしました。モスコミュールとビールです」
二つのグラスを彼らの手元に静かに置き、マスターはそう言った。今日も完璧な所作である。彼らは待ってましたとグラスを直ぐに持つと軽くグラス同士を合わせる。小さくグラスの当たる音が鳴ると彼らはグラスに口をつけ、一口飲んだ。
「さっき居酒屋で飲んだビールと全然違う」
と茶髪が驚きながら二口目を胃に流し込む。そしてマスターにやっぱりバーだと特別なことをしているのかとグラスから口を離し問いかけた。
「そりゃ、安い居酒屋のビールと違うでしょ」
と黒髪は煙草を取り出しながらまた呆れたように一人呟く。マスターはニコッと笑顔を見せながら答えた。
「バーのマジックに掛かったのですよ。だからバーでお出しするドリンクは全て美味しいのです」
成る程。店の非日常を崩さないちょっとロマンチックな言い回しだ。確かに技術的な話なんてしたら急に雰囲気ぶち壊しだもの。これもプロの技か。そう思いながらグラスを傾ける。が、中にはもう黒い液体はいなかった。
――今日も時間という概念が薄れた非日常な魔法の空間は飲み手を待っている。やっぱりバーとは良いところだ。