弐
四月の終わり、桜も散りつつある今日この頃、残業を終えた私は夕食もそこそこに行きつけの店に向かっていた。今日は如何ともし難いぐらい疲れた。こんな時は"通飲"だ。明日への不安は酒で忘れよう。
繁華街の大きい通りに面する大衆居酒屋の横を走る小さい小道に入り、目当ての白い二階建てのビルを探す。あった。あった。築年数二十年のそのビルは哀愁漂うその出で立ちで隠れ家を演出してくれるのだ。ビル内は一階に三軒、二階に三軒テナントが入れる。一階は空き物件が二つと営業してるのか怪しいスナックがある。二階に上がると階段から近い順にこれまた怪しいシーシャバー。なんの変哲もないダーツバー、そして目当ての店だ。黒い木目調の扉の取っ手に手を掛ける。金属のヒヤリとした感触を感じながら静かに開けた。
「いらっしゃいませ」
はっきりとしているが、店内の雰囲気を壊さないゆっくりと且つ低い声でマスターが私を迎える。今日はJamiroquaiか。店内に響く曲はアシッドジャズというジャンルで一番成功したと云われるグループのマイナーなナンバーだ。
カウンターは八席。四人掛けのテーブル席が一つの店内。カウンターの一番奥の席に若い女性が一人。下ろし立てなのか綺麗なスーツを着ている。
「いつもの席、空いてますよ」
とマスターが少し茶目っ気を出した言い方と笑みで私の着席を促す。私はどうもと言いながら奥から四番目の席に着くとおしぼりを手渡され
「ご注文は如何致しますか?」
と訊かれる。いつもの流れだ。今日は疲れているし、歩いて何だか喉も渇いた。さっぱり炭酸でも飲みたいところだ。なのでバーでの所謂" とりあえず生"を注文しよう。
「とりあえずジントニックで」
畏まりました。と一言添えるとマスターは作業に取り掛かる。因みに私が何故この四番目の席がいつもの席かというと、作業が見れるからである。バーテンダーの美しい所作は見ていて楽しい。
目の前ではカットライムを半分程絞り、背の高いコリンズグラスに入れたところだ。そして氷を詰め、ジンを注ぐ。ここのジントニックはタンカレーという銘柄のジンを使用する。そしてゆっくりウィルキンソンのトニックウォーターが注がれ、軽くバースプーンで氷を二度、液内から掬い上げる動作をし、最後にバースプーンをグラスの縁に沿って優しく一周する。
「お待たせしました。ジントニックです」
私の目の前に出された透明の液体は炭酸が出す気泡と底に沈むライムの緑色がアクセントになり、さながらエメラルドと真珠だ。
頂きますと言うや否や直ぐに口を付け、ゴクゴクと半分程飲んだ。ジンのキレのある味わいとトニックウォーターの甘苦いがさっぱりとした喉越しが身体中に沁みる。
マスターがいつも通り、灰皿を目の前に置いてくれたので、懐からマイルドセブン……いや、メビウス10mmを取り出し、もう十年位愛用しているオイルライターで火を灯す。ああ、落ち着く。
傍らでは若い女性とマスターが会話をしていた。紫煙を燻らせながら耳を傾ける。
「私、今年の春から社会人一年生なんです。背伸びして大人なバーに来てみたくて……」
成る程。真新しいスーツも何となく理解出来る。それにしても良くここに辿り着いたものだ。お世辞にも入り易いとは言えない店だし。そんなことを思いながら煙を吐き出す。そして会話は続く。
「それで今日初めて社内で失敗しちゃって……」
おやおや、話題が変わってきたぞ。
「何だか落ち込んじゃって……バーテンダーさんにお話することじゃないですけど……」
ばつの悪そうな笑顔が浮かぶ。まだまだこれから大変だぞうと言いたくなるが、おっさんは黙っておこう。
「最後に……あの……三角のグラスのカクテルで一杯ください」
ばつの悪い笑顔から少し気恥ずかしそうな顔になりながら注文する彼女。最初って頼み辛いよな。分かる分かる。
「畏まりました。それでは女性でも飲みやすいカクテルを」
優しく微笑むマスターがシェーカーを取り出す。ボディと呼ばれる部品にサザンカンフォートというアメリカ生まれの色々なフルーツやハーブを配合したリキュールとクランベリージュース、絞ったライムの果汁を加える。そこに氷を詰め、ストレーナーといわれる部品を被せ、トップと呼ばれる部品で最後に素早く二度蓋をする。そしてバーテンダーの一番の見せ所、シェイクだ。小気味良い、氷がシェーカーを打つ音が店内に響く。次第に緩やかにリズムを落とし、シェイクを終え、コールドテーブルからカクテルグラスを取り出し、シェーカーの中身を注いだ。
「お待たせしました。こちらはスカーレットオハラというカクテルです」
淡い赤色の液体が彼女に提供される。続けてマスターはいたずら小僧のような笑みを浮かべ口を開いた。
「Tomorrow is another day」
「明日は明日。ということです。そのカクテルの名前はとある物語の主人公の名前からとったものです。そして先程の言葉は劇中で主人公が発した台詞で、どんなに辛い事があった今日でも明日は違う。そんな意味合いが籠った前向きな言葉です」
ありがとうございますと嬉しそうに彼女はマスターに感謝の言葉を発しながらスカーレットオハラを口に含んだ。そしてマスターと目が合った私はマスターのニヤリとした、今で言うところのドヤ顔を見ながらバーとは、いや、バーテンダーという職業は面白いと思った。