剣身の拍手
躑躅家とはいかなる家門か。
長屋門の外に列を成す馬車の数で、その権勢の程が知れる。御殿の規模で、その財力もまた。そして、母屋向こうに背負う森の深さを見れば、その伝統が知れるというものだ。
豪族である。それも有力の。
しかし、薬医門を抜けた先にて待ち受けていたその老貴婦人は、ゼクと相対するなり、深々と頭を下げてきたのである。
「先生、よくぞお出で下さいました。躑躅家を代表し、心より感謝申し上げます」
ただの一目で心に通じるものがあった。
「私はジュエイと申します。亡き主人に代わり当家を取り仕切っております」
皺を重ねたその静かな面持ちに、ゼクは震える夜の悲愴を見た。
咎人だろうか、と思った。あるいは重病人とも。死を感じる。老貴婦人……ジュエイには、死の臭いとでも言うべきものが染みついている。ゼクはそれがわかる。嗅ぎ慣れているがゆえに。
「お、奥方様。あの、どうしてそこまでの……」
「カオロ。お客様方のお相手を。私は先生を上の間へご案内します」
「奥方様、僕は」
「貴方は渡り廊下に。誰も中庭からこちら側へ来ないようになさい」
ゼクは先導されるがままに奥へと進んだ。
祭事において日常の玄関から上がることの違和感は、常に打ち消され続けた。先を行く小さな背中が、まさにその小ささにより訴えかける悲壮があって、ゼクの歩みは自ずと神妙なものとなった。
寒い家だ。整然と並ぶ調度の隙間を縫って、冷気が、埃一つない足元を這っていく。
「こちらでございます」
そこは、水底のような部屋だった。空気が重く淀んでいる。豪奢に飾り立てるものは何一つとして無く、明かり取りの窓も細く、薄暗く……何とも入り難い。
まさか水圧でもあるまいに、押し返される感触を覚えて、ゼクはその不思議の出所を目で探した。すぐにもわかった。上座の壁だ。
一振りの剣が掛かっている。
一目で、激戦を経てきたものと察せられる。騎兵用の拵えだ。質実剛健な佇まいである。
その剣へと、ジュエイは一礼した。
振り返った彼女は、先にも増して凛然たる雰囲気を身にまとっていた。背に負う形の剣が、まるで軍旗のようだ。旗を背負うからには、この人物は将である。豪族の家長とはこういうものか。
「恥を申します。当家は今、家督を巡る争いにより同族相食んでおります」
耳朶の奥へまで届く声だ。
「先の御親征の後には珍しくもない話でございます。当家の軍勢は、近衛軍の露払いを担う栄誉を賜っておりましたから……夫も、長男も次男も、誰一人として戻りませんでした。しかし陛下の御前にて存分に戦ったに違いありません。私には、そうとわかります」
ピンと伸びた背筋は、どこか打ち固められた鋼にも似て。
「その誇りをわからない者たちが、家中を荒らしているのです。恥知らずに。許されざることに」
厳として頑なな言葉を発してくる、その強靭さよ。
「三男は年若く、身体も弱く、それら奴ばらの邪に付け入る隙を与えたのかもしれません。この十年余り、年を経るごとに不審な死を遂げる者が増えに増えて……昨年の冬、三男は川に浮かんでいるところを発見されました。その惨事をもって、嫡流の男子は絶えたことになります」
そういうことか、とゼクは納得した。死も臭い立つというものだ。
人間の死とは三種がある。自分を中心とする距離で見て、自身の死と、近しい者の死と、縁遠い者の死だ。この内で強烈な死とは二番目のものがあるのみである。一番目のそれは所詮自覚すること叶わず、三番目のそれは精々が数で知るに留まるものだから。
ジュエイは、濃厚な死に塗れている。数多斬るゼクを上回るほどに。
既に親は亡かろう。その上で夫と子を……恐らくは孫をも失い続けたのだ。争いの内容が内容だから、親類もまた多く死んでいよう。
「……緋屋の主とは長い付き合いです。難事において幾度も頼って参りました」
ジュエイの視線は、一瞬とてゼクから外れない。
人物を見定められているのだろうか。それにしては胸の内を明かし過ぎている。緋屋への信頼ゆえか。いや、しかし、それにしても。
「この度、万難を排し万魔を退ける剣を求めたところ、先生を紹介していただきました。かの者は人の外の鬼をも斬らんとする刃なれば、人の内の諸妖などは訳もなかろうと。そう伺ってどれほど頼もしかったか知れません。この剣ヶ峰に立つに至って、私は遂に……!」
ああ、そういうことなのか。今またゼクは納得した。
己は、人間としてここにいるのではない。剣だ。まさに剣として雇われたのだ。目の前に座る人物が、この戦場において携えるために。大いに振るうために。敵を斬るために。
「先生にお頼みいたしたいことは、ただの一つきり……躑躅家を担うべき子を御守りください」
そら、ジュエイの眼光は兵法者のそれにひどく似る。
「他の何をおいても、です。必要とあらば誰をもお見捨てください。仮に私が命を落としたとしても、お恨み申しませんし、成功報酬は滞りなくお手元へ届く手筈となっております。そういう仕事をお願いしたいのです。非常非情の、躊躇いなき魔払いを」
捨て身だ、この人物は。そうまでして一つの命の守護を欲している。
同じではないか。それはまるで、守捨流の在り様ではないか。
「承知」
ゼクは答え、頷いていた。胸の奥で何かが震え、今、微かな熱を発している。
「有難う、ございます……」
そして互いに押し黙り、見つめ合い、どれほどの時を過ごしただろうか。
どこかで音がした。まるで陽光が跳ね返ったとでもいうような、煌めくその音。邪気を払う響き。笑い声だ。あまりにも清らかな、喜びの表れだ。
ジュエイが隣の部屋へ「これへ」と呼び掛けた。
そして姿を見せたのは、黒い長髪の女性である。装いも上から下まで真っ黒だから、頬の白さが妙に目につく。ゼクはそれを骨の色として見た。陰の深い双眸がそう思わせる。催しの内容を思えば、喪に服した姿とも知れるが。
ゼクは、予感せざるを得なかった。
ここに勝ち戦はないと。
今から己が戦うのは悲惨な撤退戦か、あるいは絶望の籠城戦か。いずれにせよ、十日間の主たるジュエイは多くを支払うことになるのだろうと思われた。レイチ老の予言が耳の奥に木霊する。怨血の吹き流す者は、どこの何某か。
構いはしない。どうあれ斬るのみだ。剣とは、そういうものだ。
ゼクが結論づけようとした、その時であった。
「あい!」
声が弾けて、小さな者が部屋に跳び込んできた。
幼女だ。
背丈は、女性の腰の高さにも届かない。真ん丸な瞳は真昼の水面に似て、キラキラと眩さを跳ね返している。血色のいい頬が、真っ白な襟元へぽてりと乗っていて、その丸みは綺麗な鞠を思わせる。瑞々しい黒髪が、一つ所に留まらない動きに合わせて、あちらへこちらへと踊る。
「当家の嫡女、エンジェです。この冬に二歳となりました」
名前が何かの合図となったものか、幼女はピタリと動きを止め、スッと片手を上げた。ニヤリとした笑みは実に得意げだ。次いで始めた楽しげな拍手は、自賛のそれであり、見る者にもそれを求めるものと思われた。
だから、ゼクは拍手した。
幼女エンジェは、満面の笑みで拍手に浴している。
「こちらは、エンジェの母親です」
「……ウィドです」
拍手を続けながら、ゼクは目礼を受けた。無礼には当たるまい。相手も気だるげな動きながら拍手をしている。そしてもう口を開くつもりもないらしい。眠たそうにエンジェを眺め、ただ手を打ち続ける。
「先生、どうか、エンジェを護り抜いてくださいませ」
見れば、ジュエイもまた控え目ながら拍手していた。
「それ以外のことは何一つ求めません。それが私の依頼の唯一にして全ての内容でございます。どうか……どうかよろしくお願い致します」
ゼクは頷いた。微笑んでいるかもしれない。
美しい光景が脳裏に甦っていた。
麗らかなその日、父は妙齢の婦人と幼子とを連れて帰宅した。どんな言葉を交わしたかは覚えていない。それでも真っ直ぐにゼクを見上げた円らな瞳は……そこに輝いていた春の空の色は、今も鮮やかに思い出される。
出会った時、セイもまた二歳だった。
その時は、セイもまだ笑っていた。
遠く暖かな、思い出であった。