因縁の家門
ゼクを襲った男たちが駆け込んだ先は、代官屋敷に近い高級宿であった。
その報告を受けてトリスタは舌うちしたものである。身元の怪しい者が立ち寄れる場所ではない。つまりは背景のある襲撃であったということだ。
捨て置けば次の戦に影響が出るかもしれない。
さりとて警邏兵が多く監視の難しい地区でもある。
ならばとトリスタは自ら宿の様子を窺うことにした。過去には社交界にも顔を出していた生い立ちである。剣槍をもってする渡世で多少ならず荒くれてはいても、身なりを凝らせばまだまだ上流社会にも通じる。そういう自負があったが。
人通りの多い昼下がりを狙ったその日、トリスタはすぐにも後悔した。
折しも代官屋敷から出てきた騎馬の一団があって、その中に厄介な人物が交じっていたのだ。
外套の襟を立て、帽子を目深にかぶり、通りに背を向ける。数騎の立てる蹄鉄の音を聞く。やり過ごせるか。いや、止まった。馬の嘶きが一つ鳴った。すぐにも退かねば。
「そこの者、待て」
馬上から声が降ってきて、下馬した足音がツカツカと寄ってくる。
「ほう、やはり。トリスタではないか」
名を呼ばれてしまってはこれまでだ。
背筋を伸ばして振り返れば、はたして笑顔の彼女がいた。
迫力のある美女だ。赤銅色の髪は男のように短く刈っていてなお艶めき、若々しい眼差しには見る者を圧倒するところがある。齢四十のはずだがまるでそうは見えず、下手をすればトリスタの方が年上に見られかねない。
男装を男装と感じさせない凛々しさにかつてにはなかった凄みすらが加わっているが、その理由は明らかだ。腰に佩く剣と、従える男たち……どちらも歴戦の雰囲気を漂わせている。
愛想笑いをペタリと張り付け、地に膝をつけて、トリスタは挨拶をした。
「お久しゅうございます。パラアナ様」
パラアナ。それは華国随一の武門・蘭家の軍務を取り仕切る者の名だ。
その類稀な用兵から「雷公」の異名でも知られ、対狼国戦争において知らぬ者とていない常勝将軍である。個人としての武技もトリスタの敵うところではない。
かつてトリスタはこの女将軍に仕えていた。
思うところあって出奔したのは、八年ほど前のことである。
「本当に久しいな。しかしお前の噂は耳にしていたぞ。軍才を活かしているようだ」
「は。不肖の身ながら戦陣の端にて働かせていただいております」
「謙遜するな。お前は、いずれは大隊を任せられると目していた男だぞ」
「お褒めの言葉、ありがたく。しかしその器にございません」
「戻って来ないか?」
「御戯れを」
「ふむ。立ち話で持ちかける話でもないか。付き合え。一席設けよう」
パラアナは供回りの男たちへ何事か指示し、振り向くこともなく歩き出した。その後ろ姿のなんと自信に満ち満ちていることか。トリスタがついてこないなどとは微塵も思っていまい。
「丁度、美味い店を紹介されたところでな。いい巡り合わせだ」
チラと振り向き、嬉しそうにそんなことを言う。旧交を温められるだけでもいいのだ、などと笑う。隙だらけの背中を晒したまま構えるところもない。
「さあ、ここだ。お前の知っている店だったりするのかな? だが、今日は私が先導するぞ。持て成す側というのもいいものだ。訳知り顔で差配するのは何とも面白い」
座敷の場所も知らないくせにそんなことを言い、結局は店の者に全てを任せておきながら、どうしてか得意げだ。品格のある立ち居振る舞いであるにも関わらず、上座も何もお構いなしに窓際へ陣取って満足げだ。
肩の力が抜けそうになるのを、トリスタはギリギリのところで持ちこたえていた。努めて笑みの形を保つ。愛想のいい己を演じる。これは意地だ。絆されてなるものかという。
わかっていはいた。こういう人物であってくれるから、素晴らしい将軍なのだろうと。
そして、こういう人物であってしまうからこそ、トリスタは彼女を許せないのだ。
「まずは、食べよう。食べられる時には食べる。これは兵家の常というものだからな」
健啖家でもある彼女と共に食事をすると、気づけば食べ過ぎているということが何度もあった。何とも嬉しそうに食べるのだ、この女性は。気を抜けば頬が緩んでしまう。
「先の合戦でも見事な働きだったようだな」
「いえ、特にこれという戦功もなく」
「商家からの成り上がりが見合わぬ首級を誇っていた。お前の仕事だろうよ」
「敵味方入り乱れる中、ただ必死に生き残っただけにございます」
「乱戦という状況を作り、首を獲る……か。何とも恐ろしい話だ」
「パラアナ様には恐れるものなどありますまい」
「恐れを知らずに戦えるものか。この世は恐ろしいものばかりさ。だから剣も槍も磨かれる」
そういうことを、言う。そして憂いの横顔を見せるのだ。空を見上げているのか、それとも街並みを行く人々を見下ろしているのか。いや、どちらにも興味はあるまい。想いを馳せる先は知れているが。
「……闘争はいいな、トリスタ」
そら、そんな言葉を続けるのだ。この女性は。トリスタは拳を握りしめた。
「とかく面倒事の多い世の中だが、戦っているその時だけは清々しいものだ。闘争の栄光の下では、あらゆるものが浄化される。輝けるものとなる」
眩しそうに目を細めて、また食べる。実に美味そうに食べる。
「……赤根を茹でたものは、お嫌いだったように記憶していましたが」
「何も知らなかった、昔はな。今は美味い。何でも美味いぞ」
「そう……ですか。よいことかと」
「ああ、まったくな。幸せなことだ。食べられるということは」
かける言葉も思いつかず、トリスタもまた食べた。美味いものもあれば不味いものもある。味わえばわかることだ。それをしないパレアナが、美味い美味いと笑い、多くを食べている。
「今、何人を率いている?」
「常には六十人ほどを。後は必要に応じて、もう六十人ほどを」
「少ないな。それでは何もできまい」
「直接雇用している数です。戦場では複数の傭兵団が組んで一部隊となりますので」
「それでも千は超えんのだろう? お前の将器を活かせる兵数ではないぞ」
「……買い被り、かと」
「何故怒る。本当のことだ。そして良将が立場を得ぬことは国の損失であると知れ」
「国、ですか」
「国の大事を思って初めて武力と言う。そうでないものは全て暴力でしかない」
「傭兵は、金が全てです」
「お前が狼国に雇われたのなら、そうと信じてもいいぞ」
「無茶なことを言われます。昔から」
「ああ、よく迷惑をかけたものだ。昔は」
食後の茶をすすり、トリスタは息を吐いた。
窓の形に切り取られた空を見る。今も昔も綺麗なものだ。これからも美しく在り続けるのだろうと思われた。卓の下で震える拳の存在すら、思いもよるまい。街並みの陰で凍える剣の存在など、想像も及ぶまい。
「……私はもう、随分と汚れました」
パラアナの顔も見ずに、言う。
「この上は、汚泥の中で死にたく思っております」
「……それは」
「見届けなければならんのですよ……せめて、俺は」
「おい、何を」
「もうよろしいでしょう。馳走をいただきました」
トリスタは席を立った。礼を失しても仕方がないと判断した。この場に留まればなお一層の無礼を働くに違いないからだ。
「待て! 一つだけ、言わせてくれ!」
立ち止まりはした。しかし、聞いてくれとは言われなかったから、トリスタは振り向くことをしなかった。
「待っている。蘭家は、お前をいつでも迎え入れるだろう」
肩越しに会釈し、退席した。廊下にはやはりか護衛の男たちがいた。鋭い視線を浴びるも意に介さず通り過ぎる。精々不快に思えばいい、と思った。気持ちよく兵士などをやっている、その心情が気に食わなかった。
行儀のいい清潔な通りを踏んでいく。踏みながら襟を開き、髪をかき上げ、空を睨みつけた。
「あんたは、そうやって、前だけ見てりゃいい。そのまま母であったことも忘れ果てていけ」
警邏兵の目を盗み、通りへ唾を吐いた。
「ゼクは俺が看る。あんたにゃ、やらん」
胸にわだかまる苦々しさを持て余しながら、トリスタは通りを立ち去った。