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落涙の佩剣

 落日が、地を血の色に染めてゆく。遠くも肌身に差し迫るようなその鮮烈さを、馬手めての側に眺めやって。


 パラアナら五千騎は、味方との合流を果たした。


 野戦陣地だ。帰国の道を南に背負うそこでは、華国軍五万数千と蘭家軍一万五千とがそこかしこでせわしない。物見櫓、逆茂木、木柵、落とし穴などを再設置しているようだ。下士官の号令が方々で上がる。騎馬の出入りも引っ切り無しだ。多数の斥候が放たれているに違いない。巡回の小隊も出ているか。


 兵士たちの装いは、どの一人もくたびれたものだ。怪我人も多い。陣地の損壊具合から察して、激しい戦いがあったことは明らかだが。


 勝利とは、香るものだ。


 篝火に煌々と照らされて、兵士たちの表情には笑みがある。手隙の者とて武器の手入れに余念がない。潮騒にも似て聞こえてくる語らいの中には、そら、勇壮な言葉が煌めいているではないか。


「―――見事だ。狼国の最精鋭を相手取って、随分と景気よく勝ったようだな?」


 パラアナが素直な感想を述べれば。


「多勢に無勢でありました。程々に勝つ、ということにはなりますまい」


 付き従う副将は、笑むのである。老いてなお猛々しい面構えでもって。


「確かに。しかし、兵の多さを活かすというのも、中々どうして難しいことだ」

「全軍を三つに分け、総前衛の構えにてぶつかりました」

「聞いている。随分と危うい戦い方をしたな? 向こうが全軍をもって攪乱に出ていれば、あるいは各個に撃破されたやもしれん」

「拙速の策でございました。されど、後詰めの二万が多少とも抗した様子でありましたので」

「そのようだな。さしもの精鋭軽騎兵も、戦傷者を抱えていた上に軍馬が揃っていなかったでは、鎖につながれていたようなものか」

「いかさま左様で」

「まあ、それにしたところで、赤貂市退去の判断が遅ければ対処されていたろう」

「は。全ては、閣下の御慧眼あったればこそにござる」

「うむ。序盤は味方に振り回されたが、それが却って『誘い』になった。敵を動かし、その裏を衝くための誘いにな」


 言って、パラアナは陣内を広く見回した。


 旗と幕舎を数えれば、大軍が大軍として存在していることが知れる。勝ちて驕らぬ緊張感も漂う。決戦に臨む用意が、ある。


 この軍は、戦える。


 あとは、どう勝たせるかが問題だ。


 ここへ迫り来る狼国軍は十万を楽に超える。地形を知り尽くし、補給も万全、国土を荒らした敵を生かして返さんと報復に燃えている。


 大軍として退くためには、短期的にであれ大いに勝たねばならないが。


「……勝つ条件を整えて尚、勝ちきれぬのが戦というものだ。機先を制したとて、大きな被害が出るものと考えていた」

「勝つにしても、被害を免れぬと?」

「そうだ。曲がりなりにも勝ちの形になっていれば御の字とすらな」

「そこまでに」

「そこまでの敵だろうよ。北の精鋭軽騎兵は」

 

 折しも吹いた寒風に、パラアナは北の空を睨みつけた。

 

「彼奴目らは、強い。風土に根差しているが故に、地の利を得えれば大いに勇躍する。馬だけでなく人もな。つまるところが、生き物とはそれに尽きるのかもしれん。そう在るべくして生まれた以上は、その在り様を素直に示した者が他に勝る。あるいは、そういった特長をして『才』と呼ぶのか」

「才……でございますか」

「うむ。得ようとして得られるものではないところが、天与のものである証左よな」

「天の、与えたるもの」

「人の世が人へ強いるものに比べると、何とも美しく、力強いものよ」

「人の。それは」


 パラアナは薄く笑った。佩剣の柄頭を撫で、握り込む。手の中で蘭家の家紋が硬く感触を伝えてくる。より強く握る。厚い手袋越しにも痛むほど、強く。


 いっそ身を刻んで彫り込んでしまおうか―――そんなことを、思う。


「蘭家に生まれたこの上は、蘭家に死すより他に術もなし」


 その言葉に耳朶を打たれて、パラアナは己の口を手で押さえた。意図せず心の内を漏らしたかと思ったからだ。違う。戦いに乾いた唇が、一文字に結ばれているきりだった。


「心の底から、そう思い定めておいでなのか。それで満足なのか……本当に」


 憤ろしさを語気に孕ませて、赤色甲冑の男が言う。トリスタである。


「控えろ。閣下に対して気安いぞ」

「礼を整えるにも時と場合を選ぶ」

「何じゃと? 戦地で軍人が規律を乱すとうそぶくのか」

「軍人ならば戦果は正しく語るべし。俺を嫌うのは自由だが、私心に過ぎないそれで、命を懸けた働きを蔑ろにするなど……唾棄すべき所業」

「貴様、儂に対して軍を論じるか!」


 懐かしかった。副将に睨まれ、睨み返すトリスタの様子がである。


 パラアナに仕えていた頃のトリスタは、いつも不機嫌な少年だった。利発さがかまびすしさにつながったと見えて、行儀や整理整頓などについて小言を聞かされるのが日常だった。


 旅の武芸者へ恋した時、真っ先に諫言してきたのはトリスタだった。子供の分際でと睨みつけると、お前こそとばかりに睨み返してきた。


 二十年の時を経て、今、パラアナは問うていた。どういうことかと。


「御承知の通り、狼国精鋭軽騎兵は三将によって率いられております。その内の一将をば、先の攻防において討ち果たしてございます」

「馬鹿者めが! あんな首級で何がわかると言う!」

「騎兵同士のぶつかり合いなれば、首が踏み砕かれるなどままあること」

「都合のいいことを! あの者らを相手に、高速戦で首級取りなどできるものか!」

「難事を成し遂げる者にこそ、二つ名はつく」

「戦中の誇大など笑止千万! 戦後の冷静を経て、初めて功名と言う!」

「かの『断騎』に重傷を負わせたという話もある」

「それこそ妄言じゃ! あれは人中の竜とでも言うべき男。剣槍のやり取りで討てる相手か!」

「老いたりと哀れむべきか。敵を崇めて味方を貶める。その性根に軍人の誇りは在りや無しや」

「き、貴様……忘恩の、逃げ出し者風情が!」

「ああ、俺は臆病者だ。卑怯者だ。だから、この期に及んでようやくと知らせに来た」

 

 不思議だった。


 武功話はパラアナの好むところのものだ。戦場で聞くとなれば尚更で、しかも戦況を有利にする内容であれば格別の響きがあろうに―――胸が騒いだ。


 トリスタは、十三年前のあの時と同じ顔をしている。


 村人として生きていたパラアナに、蘭家へ戻るよう説いてきたあの時と。


「ゼカリア様は、生きております」


 そら、何か凄まじいことを言い出した。かつては、パラアナの父と兄たちが討死したと告げてきたものだが。


「今はゼクと名乗り、この戦場にて戦っております」


 そら、凄まじいままに言い募る。かつては、手弱女たる妹が蘭家の大将として戦場へ出されると教えてきたものだが。


「若くして歴戦の強者でございます。その剣の腕前たるや、まさに万夫不当。狼国の精鋭軽騎兵であろうが、『断騎』のカリュウであろうが、何ほどのこともなし」


 その眼差しは白刃だ。その気迫は火炎だ。どちらも人を圧倒し、殺傷するものだ。取り繕ったものを破り、封じ防いだものを貫いて、逃しはしないだろう。


 そら、既にして副将は慄き呻いているではないか。


「耳にしておいででしょう。ゼクことゼカリア様の二つ名は……『飛剣士』」


 その名はパラアナにも聞こえていた。


 赤貂市攻略戦において抜群の働きをした傭兵だ。飛んで門扉の上へと上がり、舞うようにして群がる敵を斬り払ったという。蘭家領への伝令を護衛しもした。なるほど敵精鋭騎兵を迎え撃ったという。その上更に、敵有力武将を討ち、名だたる敵兵法者を斬ったというのか。


「先ほど聞こえましたる『才』という言葉をお借りするならば、かの者の才は……剣の才は……鬼気迫るという言葉ですら生温い。もはや人の域を越えております。戦えば戦うほどに、かの者を、人でない何かへと推し進めていってしまって……もう手遅れかもしれない……」


 苦渋に満ちた声を聞く。それは外から届くのか、内から湧き出ずるのか。


「『人斬る才』に呪われたあいつを、俺は、ただ見ていることしかできなかった……!」


 泣いているのは、トリスタか。それともパラアナか。


「パラアナ様」


 涙を流すトリスタを、頬を濡らしながら、パラアナは見た。


「貴女の子を止められるのは……人にしておいてやれるのは……!」


 鐘が、打ち鳴らされた。


 乱れ打ちだ。敵襲だ。追うようにして馬蹄の響きが地を揺らす。夜へと放射された殺意を感じ取れば、自身の来し方がパラアナへと命じて来るのだ。血の通った人であるよりも今は冷徹な軍人たれと。戦えと。


 パラアナは駆けた。


 熱く溢れ出るものをそのままに、吠えて、佩剣を高々と掲げた。

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