戦場の剣士
身を隠すところのない丘の上だ。雨風が横殴りに吹き付ける。
寒くはない。笠の端から落ちる水滴を数え、蓑の内側にも染み来る雨水を指先に弄ぶ。そんなものでは冷え切ることのない十九歳の身命を……その熱量と輪郭とを、ゼクはしみじみと思った。
「へっ、案の定だな。馬っ鹿馬鹿しいぐらいの泥戦になってやがるぜ」
楽しげな声が聞こえてきた。傭兵隊長のトリスタだ。三十絡みの優男で、華国のそれなりに貴い家の庶子だという。
「こうもぬかるんじまったら作戦も何もあったもんじゃねえや。こちとらは金食い重装歩兵隊が働く気ねえし、あちらさんは軽騎兵隊がお怯みあそばしておいでだしで、つまるところ雑兵が無駄死にするだけなんだよなあ」
前線を見やれば、なるほど説明の通りに戦模様だ。軍旗は濡れそぼり隊伍は緩みきっていて、憲兵が叫ぼうが太鼓が鳴ろうが、両軍共にもさもさと押したり引いたりを繰り返すばかりだ。
「ま、そんなわけで、お前らよ……仕事の時間だぜい」
トリスタへと顔を向ける。ゆっくりと息を吸い、吐く。
「急襲だ。あそこの、死にたくねえって気配を隠しもしてねえ辺りへ突っ込む。んで、脅して乱して散らす。走らせる。お味方にゃ追う元気もねえだろうが、ま、そうやって曲がりなりにも勝ちの形を作りゃいいんだ。それが最低限で……」
細められた碧眼と目が合った。二百人からの隊員がいる中でのことだ。偶然ではない。
「……混乱に乗じて、それなりの首も集めとこうや。なにせ大評定が近え。戦功売りつけるお客様にゃ事欠かねえからな」
小さく頷くことでゼクは答えとした。
「さて、稼ぐか」
一斉に笠と蓑が捨てられた。現れたのはてんでバラバラの武装の戦士たちだ。
トリスタと同じく板金鎧の者もいれば、鎖帷子や革鎧の者もいる。中には厚手の服を重ね着しただけの者もいる。武器も様々だ。長剣、短剣、幅広剣、手槍、手斧、戦鎚……どれも使い込まれていることが見て取れる。
ゼクもまた己の武装を晒していた。
黒ずくめの軽装である。兜にこそ金属の補強が施されているものの、小手と胴には鉄を用いていない。それらは竹を束ねてなめし皮を貼り付けた特注品だ。身体つきにピタリ合わせてあり、軽く、身動きがしやすい。肩当もない。
雨に濡れた手をそのままに、ゼクは腰の剣を抜いた。
独特の工夫を施した代物だ。黒色拵えの片刃剣で、鍛鉄の刀身は全体にやや反っているが、牛革巻きの柄は逆反りである。柄頭は太く鍔は小さい。細身に見えて重量のある一振りだ。諸手で握りしめる。
「よっしゃ! 行くぞお!」
荒々しい喊声を浴びて泥土を蹴る。走り出す。
先頭を行くのは手槍と方盾のトリスタだが、それは部隊を当たるべき場所へと導く今だけの話だ。そら、血気盛んな輩が一人また一人と追い抜き始めた。ゼクは彼らを見知らない。生き残るかどうかも、知ったことではない。
「おう、りゃあ!!」
トリスタが槍を投じた。味方の頭上を越えたそれは敵の群れのいずこかへ消えた。続けて槍が、石が、矢が、獰猛にそれに続く。何人を傷つけ殺めたかは、さして問題ではない。
そこだ。
そこが乱戦の入口なのだ。
我先にと斬り入る。陣形も連携もなく、各々の得物の間合いのみを念頭に置いて、ただ只管に敵を襲う。侵し入る。掻き乱す。始まりにこそ全力を費やす。
ゼクは瞬く間に三人を斬った。
初老の男の顔面を深々と切り裂き、無精髭の男の臓物をこぼれさせ、紅顔の若者の胸を貫いた。容易いものだ。御借り具足を身に着け揃いの歩兵槍を握る者どもに強者は稀である。意気地というものがない。
「こ、こいつらめがっ!」
装備のいい男が来た。下士官か。既にして長剣を振りかぶっている。
それに対してゼクは左肩を前にして低く半身、切っ先は後ろへ下げていた。敵兵の間を駆け抜けんとしたためだ。形勢が悪い。
「くたばれ!」
敵が踏み込んでくるや否や、ゼクは左足を大きく引いた。逆半身になった。それでも大上段からの斬撃は首へ迫る。しかし届かない。ゼクの剣が上から押さえたからだ。刃を返しての、峰による捌きであった。
間を置かずゼクは跳ぶ。
敵の長剣に己の剣の峰を滑らせ、右肩に乗せた切っ先で狙いを定めて、ぶつかるようにして。
貫いた。
兜と胸甲の隙間を縫って、汗ばみ脈打つその喉元を。
「……守捨流、馳氷柱」
告げて手首を返す。それで頸骨を完全に破壊した。
「おうおう! ご自慢の騎兵はもう逃げちまったぞ! てめえらは時間稼ぎの捨て駒だあ!」
喧騒を越えて届くのだから、トリスタの声量は大したものだ。剣の腕はいまいちで、今も周囲を腕利きの隊員で固めているのだろうが、その存在感には堂々たるものがある。それをゼクは頼もしく思う。
声が聞こえる限り、進んでいい。
それさえわかっていれば、後はもう無心でいい。
「きゃああああっ!!」
場違いな悲鳴が上がった。
思わず目をやると、ゼクよりも小柄な味方が敵に組み伏せられていた。名も知らぬ傭兵だ。鎧の光沢から戦歴の浅さが見て取れる。察するに飛び入り参加の新参者か。大口を叩く割にはすぐに死ぬ連中だ。
やや遠い。捨て置くのが道理だ。
更に雑兵を二人ほど斬ったところで、またあの声が届いた。どうやら致命の一撃を避けたようだ。しかし必死の抵抗もそれまでだろう。手斧を受けて鉄兜が脱げてしまった。
次の一撃で頭が割られる。
まるで女のように長い髪をした、その頭が。
「へぎぇっ!?」
馬乗りになっていた男の、その後ろ首に突き立ったものがある。手の平の長さの棒手裏剣だ。ゼクの投じた暗器だ。ああも刺さればもう終いだ。
「どうしたどしたあっ! 泥塗れで死にてえってかあ!?」
トリスタの声が近い。おかしな話だ。ゼクは彼から離れるように動いていたのだから。
上がった喊声は敵方のものだ。見知った傭兵が集まりつつある。敵の槍が混んできた。前へ進めない。うすら寒い。きな臭い。
敵に増援でもあったか?
ゼクは味方の援護に回った。
剣槍閃き血肉弾ける暴力の渦中で、身を屈め頭を低くし、小刻みに剣を振る。自分を、味方を狙う者の指を落とす。手首を断つ。腿を裂く。足首を貫く。
殺す必要はないのだ。むしろ大いに叫ばせなければならない。
俄に勢いづいた敵を、その士気を、挫かねばならない。
「押し立てえい! いざ押し立てえい!」
太鼓のように響き聞こえてくるそれは、敵士官の声だ。
「恐れるな! 敵は装備も揃わぬ輩! 小暴れされたところで何するものぞ! 押し潰してしまえい! 所詮は卑しき野犬どもだ!」
敵の奥に、見る。馬上で大剣を掲げるその男を。鉄兜の毛飾りも派手派手しく、重甲冑に家紋飾りを誇らしげなその男を。
「獲れ!」
トリスタの指令だ。
ゼクは走ることで答えた。
先行した味方の盾持ちが複数名、体当たりを敢行した。少ないが矢と石も飛んだ。僅かでもその箇所の敵が動揺した。隙が生じた。
斬り込む。
限界まで身を低くし、見かける脚の甲を数えもせずに切り裂く。立ち塞がる者の顔面へ棒手裏剣を投ずる。掴みかかってくる手という手を指足らずにする。
そして、跳んだ。
「我が前へ躍り出るとは、野犬にしては芸のある……うおおっ!?」
最後の棒手裏剣は狙い違わず馬の目に突き刺さった。馬は棹立ちになった。足場の悪さも手伝って、そのままに転倒だ。盾持ちらしき従者が下敷きになった。槍持ちらしき方は慄いたままだ。
「よくも、かかる卑怯なことを!」
重甲冑の男は上手く受け身を取ったようだ。実力のある男らしい。肝も据わっている。周囲が馬の狂乱に泡を食う中、大剣を構えて揺るぎもしない。
「かくなる上は、我が剣をもって成敗してくれるわ! 参れ!」
言われるまでもなくゼクは跳び込んだ。迎え撃つようにして左方より横薙ぎが来た。退く余地はない。上へ跳べば切り返された刃が来よう。この男にはそれだけの技量がある。
だから、ゼクもまた横から薙いだ。
ただし峰による打撃だ。狙いは敵の大剣だ。ぶつかり合い、力が拮抗したのは刹那の間でしかない。押し切られる。それだけの腕力と重量の差がある。
今こそゼクは上へ跳んだ。
押される力を利用し、独楽回りになって、重甲冑の足元へと着地したのだ。その思惑は一つ当たり一つ外れた。跳び込めたことはよし。しかし脚甲が重厚だ。これでは足を斬れない。
「ぬおっ!!」
男は大剣を振りかぶりつつ半歩退いた。そして振り下ろしが来た。大剣の破壊力を発揮できる技だ。恐らくはその斬り方をこそ最も練習したのだろう。咄嗟に出る技とはそういうものだ。
つまりは、ゼクの予想通りである。
左へ身を転じながら切り上げた。峰に右肘を添えての一撃だ。狙いは男の右腕である。振り下ろされる力と、それを受けて切り上げる力とが合わさって。
断ち切った。板金の籠手ごとにだ。肘から先がガシャリと落ちた。
勢いのままに行き違い、男の背に回り、動揺を隠せないその首筋を斬った。鎖帷子の欠片と血肉とが飛び散った。重甲冑の倒れ伏す轟音は、それから二呼吸ほど後に響き渡った。
「守捨流、旋風……および……炎昇剣」
妙に物音の止んだその場へ、ゼクはぽそりと呟いた。
トリスタらの上げた喊声がすぐ近くから聞こえていた。