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月下の酒肴

 夜へ漕ぎ行く舟は、人にはばかる何かを乗せている。


 罪人かもしれない。死体かもしれない。何にせよ見て見ぬふりをするべきで、灯篭に青白く照らされる乗手なぞは、特に目を背けねばならない代物だ。見ればどんな災いを招くとも知れない。


 そんな、童でも知る町の道理を、ゼクは身に染みて理解した。


 舟に揺られている。船べりより見る黒い水面が、近い。


 さもあれ死体を五つも載せていて、その内の二つは狼国の間諜であり、もう三つは聖伯流の刺客である。人斬り仕事を一つ終え、身に降りかかる火の粉も払った結果だ。たまさかにも関わり合いになりたくない類だろうと、他人事のように思う。


 船頭の老人は、片足の膝より下がない。元傭兵だ。黄禍原を知ると聞く。


 やがて、舟はうら寂れた船着き場へと寄った。ゼクは剣一振りのみをたずさえ、降りた。生枯れのかやに隠れた小道を進む。灯篭はなくともいい。満月である。生まれやすく死にやすい夜だ。


 寒々しくも火の灯る小屋で、トリスタが座していた。


「遅かったじゃねえか。冷えたぜ」


 火の側に酒肴は用意されていて、まずはと一杯を注がれた。ゼクの好みの白濁の酒だ。甘く、ぬくい。竹皮包みの塩団子は、端が少し乾いていたが、噛めばやわくも瑞々しい。


「しっかし、あれだな。お前さんとの一献も、今夜ここに極まれりだな。女っ気どころか、もはや人気ひとけもねえぞ。らしいっちゃらしいんだけどよ」


 珍しいことに、トリスタは自分用の蒸留酒を持ち込んでいた。碗で飲むようだ。注ぐゼクの鼻に、強い酒精の香りが届いた。


「ん? ああ、貰いもんだ。就任祝いだとよ。いけ好かねえ奴に祝われても腹立つだけだが、ま、酒に罪はねえからな。それに、こいつをお前さんと差し向かいで飲むっつうのは、痛快なんだ。ざまあみさらせってな」


 ガブリガブリと噛むように飲む、その度にゼクは注いでやった。何も問わない。痛飲の理由は人それぞれだ。ゼクもまた飲む。ゆっくりと、飲む。


「戦の陣容、決まったぞ」


 乾きものを噛み千切りながら、トリスタが言った。


「先発はまさかの蘭家軍で、規模は二万だ。つくづくお偉方も焦ってんな。『雷公』殿にまずは勝ちの形を作らせて、その後に戦果を広げるおつもりだ。後発の国軍本隊は規模六万で、更には後詰めに二万を出すときた。何をお望みかは推して知るべし、だ」


 雑軍を数えずに十万だ。野戦で一勝して良しとする兵力ではない。攻めて、占拠して、献上する。そういう成果を大評定までに出したいのだろうと思われた。


 そんな思惑が戦機を左右し、合戦が行われ、地が血肉を吸う。そういう時世である。


「俺は、躑躅つつじ家軍一千五百卒を率いて先発に回る。赤いおべべに身を固めてな」


 その面白くもなさそうな言い方に、ゼクは少し笑った。


 傭兵団の団長であったトリスタは、今、その肩書を躑躅家軍の軍師へと替えている。仕官したのではなく、乞われて雇用されたのだ。ゼクもよく知るあのジュエイが、杖つき訪ねてくること三度に及び、困り果てたトリスタに相談もされた。


 引き受ければいい、とゼクは言った。それが最後の一押しになったようだが。


「ぶっちゃけるが、求めて戦うつもりはねえ。行って帰ってくるだけで充分ってもんだ。軍を任されて間もねえんだから」


 躑躅家の当主は二歳のエンジェであり、実質的な当主のジュエイは老齢の上に傷病の身だ。そして軍の有力部将らしき男たちはゼクが斬った。それでも出兵するとなれば、信頼のできる戦上手が必要で、なるほどトリスタならば適任である。


 あるいはレイチ老の紹介かもしれない。ありそうな話だと、ゼクは思った。


「ま、調練の一種くらいの腹積もりで丁度いいだろうよ。躑躅千本槍なんつったって、そう毎度死の物狂いを期待されちゃたまらんぜ」


 トリスタはグイと酒をあおった。注いでやって、ゼクもまた飲む。


「団は副長に任せてあるが……熟練どころを十人、躑躅家軍の将校として引き抜いた。今回の出兵は危ういってんで、有名どころの傭兵団が幾つか不参加を表明している。数合わせに、三流やら義勇兵やらが集められたっつう話もある。憲兵は、いつもの倍はいるみてえだ」


 豪族の軍で将校を務められる者とは、実力者だ。名を馳せるに至った傭兵団とは、強兵の集団だ。彼らが欠けて、匪賊紛いや素人が数を埋める。暴力に揉まれればすぐにも正気を失いかねない者たちが、である。


 勝つにしろ、負けるにしろ、戦場の流儀が大きく乱されるかもしれない。


「最初は、いい。なにせ蘭家軍が出張るんだ。まずもって緒戦は堅えや。十万兵力の先鋒とあっちゃあ、敵さんもそう粘らんだろうしな」


 放るようにくべられた薪が、パッと火花を散らせた。


「問題は、その後の流れだ。いつ、どこで、どんな形で退けるのか……そこがわからねえ。見えてこねえ」


 焚かれた火が、トリスタの碧眼に映り込んでチラチラと燃えている。


「ゼク。万一の時は、日の沈む方角へ走れ」


 名を呼ぶ時、トリスタはゼクを見ない。強張った横顔を見せるのみだ。


「国境線をとにかくも西に行きゃ、蘭家の封土だ。『雷公』が御家に残すところの一万が、いざって時にゃ心強え。後詰めの二万は当てにすんな。凡将な上に、周りに下らねえ愚痴を漏らしてやがった。確実な功名の機会を逸して悔しいそうだぜ。馬鹿が。富くじの補欠札でも引いた気かっつうの」


 傭兵は情報を貴ぶ。当然だ。判断を一つ誤るだけで容易く死ぬ立場である。窮地に陥れば見捨てられるし、捕虜交換の名簿に名を記載されることもない。


 だから、トリスタは多くの諜報員を雇っている。複数の情報屋との契約も交わしている。他の傭兵団との互助関係もある。腕自慢が徒党を組むだけでやっていけるほど、傭兵稼業は甘くないということだ。


 遠く、風が唸り声を上げた。ざわめくような音がそれに続く。萱の原が枯れた葉と葉を擦り合わせているのだろう。


 冬が、始まろうとしている。


「そういや、言い忘れてたな。間諜の始末、お疲れさんだ」

「五人斬った」

「……予定の倍以上じゃねえか。用心棒でもいたのか?」

「聖伯流」

「そっちかよ。仕留め損ないは?」

「なし。ただ、視線は感じた」

「おいおい、そりゃ面倒な話だな……あの隻腕かもしれねえ。随分とお前さんを恨んでいるらしい」


 ゼクは肩をすくめた。常日頃、怨嗟を浴びて生きている。このところは常に増さる警戒をしていて、しばらくは家にも帰っていない。どうということもない。


「聖伯流の動きについては、ちょいと聞こえてきた話がある。三代目宗家……ほれ、お前さんが優勝を譲ったあの男だよ。皇族にも稽古をつけるそいつが、このところ北都道場に姿を見せない。どうも、武者修行の旅に出たらしい。真相はわからんが、門下生の間ではそういう噂だ」


 弁舌上手の初老の男が、ゼクの脳裏に浮かんだ。地面に膝をつく姿勢でだ。


「それだけなら、まあ、どうでもいい話なんだが……やっこさん、周囲に話してたみてえでな。自分は真の強者ではない、鬼気迫る剣士の幻に今も苦しんでいる、なんてな具合によ」


 相変わらずいいことを言う、とゼクは思った。


 共感したからだ。ゼクもまた己が真の強者でないことを知る。鬼気迫る剣士……悪鬼の幻に、今も心をさいなまれている。剣を抱かずには目を閉じられないほどに。


「要は、お前さんを倒した者が、四代目を襲名するってな話になってるわけだ。はた迷惑にも程があるが」


 トリスタが手酌を始めたから、ゼクもまた己の酒を己で注いだ。


「俺は俺で、目えつけられちまった。お前さんのとは別口の、これまた極めて面倒な相手にな。さもなきゃ、どうして俺が豪族の軍の軍師様だってんだ。クソ、したり顔が目に浮かびやがる!」


 ここに泊まるつもりだろうか、トリスタは。あまりに乱暴な飲み方だから、ゼクは笑った。


「笑い事じゃねえぞ? 俺も、お前さんも、ちいとばかし目立ち過ぎたんだ。俺は合戦稼業で儲け過ぎたし、お前さんは相も変わらず斬り過ぎだ。躑躅家に雇われるっつうのは、そういう意味じゃいい機会だったんだぞ。後ろ盾がねえとやばくなってきてんだ。だから、いっそお前さんも……おい、聞いてんのか?」


 月下茅屋げっかぼうおく、寒風に閉じ込められて。


 酒肴上々、火を前に友と杯を交わす。


 ゼクは楽しかった。今夜ばかりはと、己に楽しむことを許していた。

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