土漠の毒草
ゼクは緋屋の書庫にいた。仕事だ。シハの子守りを言いつかっている。
「鳥はね、お空を飛ぶのよ? なんで飛べるかっていうとね、色んなものを捨てたから。お手々で遊べないし、歯で噛んで美味しいねってできないの」
白い童女は鳥の絵図を何枚も並べて、ご満悦といった様子だ。鮮やかに彩色されたそれらは、皇室所蔵品の写本で、一枚一枚が相当の値打ち物だという。
「お空にはね、なんにもないの。だから素敵なのよ? なんにもないって、お空にしかないんだもの」
格子窓に刻まれた青空を見た。冬の先触れに吹き清められてか、透き通るようである。鳥はいない。雲もない。ただ、遠い。
ゼクは瞬きした。書庫の薄暗がりにいるのだ。眺め過ぎれば目も眩む。手の届くところにあった綴りを取り、開いた。植物の絵図だ。どんなにか精緻に描かれ彩られていようとも、決して本物には及ばない、優しく易しいそれらを見る。つらつらと、つらつらと……そして止まった。
野花が描かれている。
歪な根で、茎に瘤を持ち、葉と変わらない色のいじけた花を咲かせている。
春にも雪融けない山地で見られるこれは、葬草という。瘤のところに毒がある。強力な幻覚作用のある毒だ。生きたまま鳥に腸を啄ませている山羊がいたなら、それはこの草を食したことを意味する。山羊は眠たげに死んでいくだろう。
ゼクがこの毒草の存在を知ったのは、十七歳の春のことだった。
その当時、ゼクは狼国側の山地奥深くにいた。雪と砂と風とに晒されるそこでは、岩とて摩耗し、人も獣も風に背を向け蹲るより他に為す術もない。死後の骨とて揉まれ、小石のごとくされ、やがては風に散らされる。そして灰茶色の荒涼が広がるばかりだ。
悪鬼による修練は、そんな場所で佳境を迎えた。
「剣術には三技法がある。高等な順に天、理、野である」
身体を研磨する寒風の中、紫顔の化け物は語る。手には抜き身の剣がある。
「これまでにお主が習得あるいは自得した技の多くは、野の技法だ。即ち鳥獣の挙動や自然の現象に心奪われ、それらから着想を得て工夫した技である。たとえば、それ」
無造作な斬り上げが、身を隠していた土ネズミを高く飛ばした。二つの肉となって宙にあるそれへ、狙っていたものか空より猛禽が飛来するも、軽々と斬り下ろされて地に落ちた。
「今の技は『飛爪剣』という。とある流派においては秘剣とされるものだ。見ての通り切っ先の返し様に術理はあるものの、何のことはない、獣の一芸を再現するのが精々の技である。人の餌食に成り果てるものを有り難がったところで、それで目指せる何があろうか」
凄まじき技の冴えを、まるで気にもせず肩などすくめて。
「しかし、下等な邪法とて技は技。己が剣に通しておくにしくはなし」
言って手招く悪鬼へと、ゼクは襲いかかった。
下段から攻める。地に触れるかという角度からの斬り上げは、僅かに悪鬼の外套をかすめただけだ。手首を返す。切っ先がくるりと戻る。斬り下ろす。初撃の勢いを活かした次撃は、しかし退いた悪鬼へは届かなかった。空振りだ。
「まずまずの習得。ただし送り足に難ありだ。いま少し跳ばねば、このようにネズミを上回る程度の動きで避けられる」
更なる手招きへ、ゼクは全力をもって応じた。左足をより素早くして、今一度の飛爪剣である。
斬り上げるその下から剣を合わされ、あわや剣を投げ出しそうになった。何とか切り返すも、今度は上から合わされたのだから堪らない。剣は手を離れ、地に落ちた。鋭い切っ先が喉元へ突きつけられている。
「理の技法の一例である。即ち、大自然の諸力を制するがごとき術理のことだな。何も応じ技をのみ指しての話ではないぞ。攻め掛けても、そら」
右耳を削ぐような打ち込みが来たから、ゼクは剣で受けようとした。しかし衝撃はなく、ただ左耳の付け根に刃の冷ややかさを感じるのみだ。それは、瞬く間に転位した、悪鬼の切っ先であった。
「天地は陰陽をもって成る。剣もまたしかり。その真理を悟らば、表裏無拍子の一撃を編み出せてしかるべきであろうが」
編み出せなければ、死ね―――そういう意味の言葉だ。
そして、命を削ぎ減らすような修行が始まるのだ。斬り込み、斬り込まれ、生と死の境界に立って倒れる先を試され続けるような時間が。
夕暮れて日沈みきったとて剣の応酬は終わらず、気を失ったとて蹴り起こされ、血と汗の区別はおろか前後左右を把握できなくなるまでそれは続けられる。這いずるようにして帰り着く寝床は、粗末な幕舎だ。岩窟を利用し、まだしも風雪を凌ぎやすくして、身命を憩わせる空間だ。
僅かでも火がある。石を組んで作った竈には、鍋もかかっている。
セイも、いる。毛布と毛皮とに包まって、風の音を聞いている。
ゼクは話さず、セイも話さず、二人静かに時を過ごす。
それでいいと思っていた。それしかないのだと。
鍋がかき混ぜられないから、首を傾げた。
もう食べたのかとセイの椀を見た。
そこには緑色の瘤が幾粒も。
ゼクはセイに触れた。
ゼクは叫んだ。
しかし。
「存外、もたなかったな」
幕舎の外、岩陰にて身を休めていた悪鬼は、ゼクを見もせずそう言った。
「葬草を食らわば生ける屍と化す。感覚が閉じて己の夢に籠ることになる。もう見ず、聞かず、話さず、感じぬ。傍からはそう見える。放っておけば死ぬだろう」
どうして、とゼクは言った。
どうして悪鬼はそれを知っていて、どうしてセイはそれを得て、どうしてセイはそれを食べたのか。そんな諸々を込めての、問いだった。
「儂が教えた。どういうもので、どこにあり、どのように食うものかを」
味もな、などと悪鬼は言った。
「自死の手段もない者を、どうしてこの薄命の地に置いておけようか。お主はいい。その剣がある。だがあの娘には何もなかろう? 風に病むも雪に眠るも酷な死に方ぞ? それともお主のために死なずにいろとでも言うのか? 死にたくとも死ねぬなぞ、つまりは拷問であるのだが」
ゼクは剣を抜き打った。鞘で弾かれ、間合いができた。
「駄々を捏ねた一撃……駄剣とでも名付けるか? お主が連れていくと言い、娘がついて行くと言った。その結果を認められんとは」
斬り掛かる。スルリと避けられ背後に回られた。宙返って股からの両断を狙うも空振った。
「逆猿か」
着地するなり脇へ跳ぶ。追撃は来なかった。身を翻す。右肩を前に低く走る。剣を左肩へ乗せ、即、打ち込む。悪鬼の右腕を狙うが。
「急鼠か」
柄で打ち払われた。悪鬼は未だ抜剣していない。ならば今こそ飛爪剣。斬り上げんとする剣は、しかし、止まった。地に押さえつけられた。鍔元を踏まれたのだ。恐るべきは悪鬼の踏み込みの高速と精妙。
「剣を練って五年……お主、弱くなったのう」
激した心をゾワリと冷やす、それは。
「もう、斬るか?」
それは、殺意。
いや、殺意と呼ぶには余りにも無機質で理不尽で絶望的な、亡びの気配だ。
死ぬ。
死んで、終わる。
この瞬間にも、剣を手離せば。
「うああああああっ!!」
ゼクは無理矢理に柄を持ち上げた。悪鬼は軽業をもって退いたようだ。追う。追って跳ぶ。跳んで、着地を待たずに攻める。
「ほう、ここで血嵐か」
斬れない。斬られてもいない。全て躱され、防がれている。しかし剣を止めない。止められない。視界が刺々しく狭まっていく。それでも斬り続ける。そうしなければ―――殺される。
衝撃。腹が破れたかのような。
浮遊感が、天地乱れる回転が、全身が砕けたような激痛が、ゼクを砂上へ横たえた。
突かれたのだ。剣を抜かぬままの、鞘の末端を用いた剛撃である。
ゼクは咳き込み、嘔吐した。のた打ち回った。
そして、泣いた。泣き喚いた。
「これまでだ」
星明かりに歯を白く光らせて、悪鬼は告げた。
「次に会うのは五年後か、十年後か、もそっと先か……いつにせよ、いずれ斬り果てにて」
キャラキャラという笑い声が、夜と風とに消えていって、それきりである。
翌朝、ゼクはセイを背負って華国へ向かった。それからは、困難の全てを一剣をもって切り抜けてきた。セイを死なせずに、ゼクも死なずに、生きてきたのだ。
あの土漠の夜より、二年と半年あまりが経った。また、寒い季節が近づいている。
ゼクは絵図を閉じて、剣の鞘を撫でた。
まだ、悪鬼を斬れそうもない。
セイの夢も、覚めない。
斬り果ての何たるかも、ゼクは、わからないままでいる。




