乱戦の家門
エンジェが遊ぶ。清新な日差しを浴びて、駆けて転び、起きてまた駆け、跳ねるなどして、笑う。
ゼクは目を細めてそれを眺めていた。内庭に面した庇の間である。弓矢を警戒して外へ出られないからだが、そんな剣呑さも眩く霧消して、ここはどこよりも健やかな遊び場だ。ゼクにはそうとしか思えない。
やがて、母子の間で手遊びが始まった。その歌と拍子とを聞きながら、ゼクはジュエイの礼を受けた。
「先生。連日のご奮闘、心より御礼申し上げます」
気丈なものだ。皺の多いその頬は軟膏と布巾とで手当てされていて、首にも手首にも包帯が覗いて見えるというのに。
「先生のご加護を賜りまして、今、何もかもが解決しようとしております。私は戦場に立ったことなぞございませんが、あるいはこれが、敵中をまさに突破せんとする心地なのではないかとも思うのです」
此度の躑躅家の祭事は、まさに合戦の様相を呈していた。
ゼクがユラと対決したあの夜を最たるものとして、その後も刃傷沙汰が幾度も起こっている。奥の間への夜討ち朝駆けあり。会食中や儀式中の狼藉あり。もはや厠や厨房であっても油断できない。衛兵は門の外を向くばかりで、屋敷の側へは何をするでもない。
全て、ジュエイの思惑の内であった。
そう、ジュエイこそが、この騒動をひき起こしている。
親族らを炊きつけて欲に駆らせ、あるいは脅しつけて恐怖に駆らせる。暴発させる。軽挙に走らせる。策動をもって、事態の悪化を促しているのだ。細かな火種にも余さず風を送り、大火災を起こそうとでもいうようにして。
ゼクは思う。ジュエイは殺されるつもりなのかもしれないと。
今は、いい。エンジェの過ごす部屋にまでジュエイが出向いてきているから、何が起ころうともゼクの剣が届く。護ることができる。
しかし、これは稀なことなのだ。
ゼクの知る限り、ジュエイはエンジェと距離を置いて過ごしている。それで襲われもした。襲われることで襲った者を貶め、その利権を没収したようだ。自らの身命を餌に悪意を釣り上げ、処断するという手法だ。
そんな無茶を繰り返した先に、何か巨大な成果を出すつもりなのではあるまいか。
策の詳細はわからないにしろ、ゼクはそう思うのだ。
「寸鉄も帯びぬ身で戦を語るなど、百戦を知る先生からすれば戯言の類でしょうが……先生?」
危うさを、ゼクは感じた。
ジュエイの顔色の良さが、その饒舌さが、戦場にはそぐわないからだ。
ゼクは知る。敵勢へ攻め込む時、人は恐れると同時に滾るものだと。兵は槍を繰ることに夢中となり、士官は役割を果たすことに熱中して、指揮官は計画の実行に集中する。戦が進むほどに冷静さを欠いていく。見たいようにものを見る。
優勢であれば、尚更だ。新兵であれば、殊更だ。
そして、得つつある勝利に酔い痴れる。
それをして、予断という。
「お気に障りましたでしょうか? はしたなくも、詮無きことを申しました」
予断者の視野は狭い。見えてしかるべきものが見えず、察してしかるべきものが察せられない。だから斬りやすい。少しでも裏をかいてやればいい。それで乱戦に持ち込める。事態を把握させぬ間に、首へ、刃が届く。
つまりは、今この時なぞ、恰好の仕掛け時である。
「奥方様、やりました! ついに、親族の皆様が結論を出しました!」
駆け込んできたのはミトゥだ。
「これ以上の混乱は家門の存亡に及ぶってことで、諸権利を手放すそうです!」
「そうですか……間に合いましたか」
「ええと、まだ、おめでとうございますじゃないですね? 明日で催しも終わりですし、最後に掃除をしないとですね!」
「その通りです。一切を掃き清めて、明日を迎えなければなりません」
「つきましては、広間で合議を持ちたいとのことですけど……」
「……わかりました。行きましょう」
ジュエイがミトゥを伴い去っていく。罠であれば生還は厳しいところだ。
しかし、ゼクは止めない。
明日の日まで、ゼクはジュエイの剣である。彼女の思うように振るわれる刃である。たとえ自刃に使われるとしても、その意向にそって斬ることが役割だ。自ら動く剣など、剣士を破滅させるものでしかない。
そっと、己の剣に触れた。守捨流に最も適した拵えの一振りだ。
剣は、人を斬るための道具である。しかし同時に、器でもあるとゼクは思う。剣士の血と汗、技術、信念、来歴、生命……そんな一切合財を宿した、分身のごときものであると。
さもなくば、ただの一振りで、人一人の全てを断ち切れるものか。
「それが、そんなに大事ですか?」
問われた。ウィドだ。眠るエンジェを抱きかかえて座している。
「上手に殺せると、楽しいのですか?」
答えない。ゼクはウィドを見もしない。きっとウィドからも見られていない。
「殺して、殺されて、嬉しいのですか? 死んで……死なないでいる人を残して、それで満足するのですか?」
答えることは、できた。しかし答える必要がなかった。
晩秋の風は、透明でいて、首元の暖かなところを冷やりと撫でる。吹かねば気づかぬ寂寞を、じわり近づく不可避の枯凋を、人に思い煩わせて空ばかりが青い。
「この子を護ること。あの人の願いを叶えること。家の誇りを受け継ぐこと。どの一つにも剣が要るという、この人の世は……」
耳には、敷地を囲う壁の向こう側で、不穏な声が上がるのを聞く。
鼻には、屋敷の内側から流れ来る、木材の焼け焦げる臭いを嗅ぐ。
「何て……何で……浅ましいのでしょうか」
怒声が響いた。それこそは、この世に満ち満ちるものの一つである。
厨房から火が出たようだ。裏山から賊徒が襲い来たようだ。蜂の巣をつついたような騒ぎの中から音を拾って、ゼクは判断した。
事、危急に至れり。
ウィドを促す。移動する。目指すのは敷地東端の蔵だ。そこは火災時の避難所であり、堅牢で、出入り口が鉄扉一つのみとなっている。籠城するのに適した場所だ。
内庭を横切らんとするところで、前方に男が現れた。手には抜き身の剣あり。見覚えもあり。いつかの鷲鼻の男だ。
「逃すか! この俺をおいて他にひっ!?」
抜き打ちで右肘を、返す剣で首を、それぞれに切断した。血飛沫を避けて、先へ。
蔵の扉を開ける。鍵は、ジュエイからこの事あるを見越して預けられていた。中を確かめる。物陰という物陰に剣を差し込む。誰もいない。ウィドに頷いて見せ、外へ。
施錠し、鍵を胸元へしまい、振り返って。
戦場を見渡した。
火炎が黒煙を呼ぶ。戦火だ。闘争が喧騒を生む。合戦だ。乱世の在り様そのものだ。
だから、そら、賊が来る。暴力でもって平穏を喰い散らかす者たちが、荒廃を体現するかのような身なりで、吠えて嗤って踊り来る。十人より多く二十人よりは少ない。
「おい、さっき、黒髪の女がいたぞ。ガキも抱えてた。あいつが金になるやつだ」
「ババアはどこだ? そいつが一番に金になるって話だぞ」
「面白えのはこっちだろ。ババアが欲しけりゃ、欲しいやつらが行けよ」
ただ、斬るべし。
「うわ、何だ、何だこいつは!」
「たった一人じゃねえか、囲んで……ぎゃあ!!」
「畜生、何で矢が当たらねえ!」
速く、斬るべし。早く、斬るべし。
「腕、腕があっ!? ああああああっ!!」
「ひい、ひいいい……こぼれちまう、こぼれちまうよおっ」
「たす、助けて、助けてってばあああ! おごおっ!?」
ゼクは斬る。迷いも躊躇いもない。さりとて喜びも楽しみもない。無心だ。斬ることで得られるものなど何もなく、斬ることで失うものとてもはやない。それだけの人数を斬ってきた。
それでもなお、見えてこない。わからない。
斬り果てとは。はたして、斬り果てとは。
死んだ者と死につつある者とを周囲に散らかして、血塗れのゼクは、独りである。躑躅家を騒がせた者たちが遠巻きにゼクを囲んでいるも、ゼクはといえば独りきりである。誰も傍には寄って来ない。
屋敷の一部が崩れた。火勢はいよいよ猛々しい。
ゼクは、父の最期を思い出していた。憤怒と怨嗟と絶望とに彩られた、その凄惨な死に様を。止めを刺しにも近寄れなかった、鬼気迫る終わりを。
あれが果ての姿ならば、なるほど、浅ましいものだ。
ゼクはそんなことを思いながら、静かに、そこで護り続けていた。
門外から新たな集団がやって来たが、蔵の側へは近づいてこなかったから、無視した。その集団が行う消火も、捕縛も、救助も、号令も、全てを余所の事として佇んでいた。




