朱鞘の妖剣
女の正直さに鼻白む。それが男という生物だ。
「おい、ユラ。どこに行っていた」
「糞をひり出すところ」
「な……!」
それきり依頼人を無視して、ユラは広間の日当たりのいい場所に座り込んだ。
スルスルと周囲の人間が避けていく。朱鞘の愛剣をこれみよがしに抱えてやれば、なお避ける。それでいて、晒した太ももへはチラチラと視線を寄越すのだから滑稽なものだ。
華国北部にその清廉さでもって聞こえた豪族・躑躅家の血族らをして、これである。ユラは思うのだ。およそ股ぐらに一物をぶら下げる輩とは、多くの場合は性根のところが馬鹿やら阿呆やらであり、品よく生きることができないのだと。
事実、男は上品な女を下品に貶めることをこの上なく好む。そういう男を数多見てきた。
なぜなら、ユラは遊里の育ちである。五歳で廓に売られ、高級遊女の付き人として十二歳までの歳月を過ごした。愛憎渦巻き悲喜逆巻く、男女の見栄と本音とに囲まれて生きてきた。
そして、人を殺した。
ある冬の日、心中の介添えを頼まれた。死んで一緒になろうという、その素っ頓狂な幻想には白けたものだ。しかし世話になった相手であるから、ユラは密かに短剣を用意し、事後に場を整える約束もしたのである。恐怖心はなかった。そんなものは、廓私刑の後始末をさせられた際に、失くした。
ところが、土壇場で男が怖気づいた。女を刺して逃げようとするのだから、呆れた。ユラは義憤から男を刺し殺し、同情から女に止めを刺した。
血塗れの部屋で、多くを悟らされたものだ。
所詮は、と冠すればいい。世の中は万事つまらないし、ままならない。
どうせ、と唱えればいい。人の心は結局、どこまでも卑しく浅ましい。
法度も、慣習も、倫理も道徳も、何もかもが馬鹿馬鹿しくなって……廓の主人を滅多刺しにした。金を奪い、逃げた。殺せるだけ殺し、逃げられるだけ逃げて、どこかで死ぬつもりだった。それでよかった。どうでもよかった、ともいう。
しかし、生き残った。
ユラには才があったのだ。延々と逃げられる逃走の才と、散々に殺せる闘争の才だ。男の考えを察することにも長けていた。女を武器にする手練手管にも詳しかった。
なるほど、とユラは呆れ果てた。所詮は、つまらない戦争などに明け暮れる兵隊たちだ。弱い。どうせ、意気地なしの男たちだ。弱い。弱過ぎて、殺されることすら馬鹿馬鹿しくなった頃、一振りの剣に出会った。
それは、祭殿に奉納されていた剣である。
新品ではなく、誰ぞの使い古しで、幾重にも札やら縄やらで包み隠されていた。両刃で細身の直剣で、どうも元は槍の穂先だったようだが。
白木の箱に記された銘は、鬼哭剣。
鞘の朱色の艶やかさに惹かれて、それを盗んだ。刃の息を呑む鋭さに魅せられて、人を殺した。手に馴染むどころの騒ぎではなかった。身体が、心が、剣の一部となっていった。そう錯覚するほどに魅入られた。
気づけば、ユラは裏稼業の剣士となっていた。
非合法ながらも、追手のかからない、人を斬るのに適した仕事だった。
人を斬るために仕事を請け負い、人を斬るたびに闘争の才が磨かれた。剣をより速く、正確に、美しく振るえるようになった。そこには震えるほどの充実があった。廓で覚えたいかなる芸能よりも、楽しかった。
今も、仕事中である。
豪族の当主を斬れるという話だったので、引き受けた。依頼人は老いて益々淫欲を滾らせた類の狒々爺で、廓の主人を彷彿とさせたが、金払いがよく悪事に慣れている点は好ましかった。腕試しにと人一人を殺させるのだから、相当なものだ。俄然、仕事への期待が高まったが。
期待以上、であった。
標的の当主が代理の上に老婆であったのには落胆したし、内通者を追えと言われた時にはもういっそ狒々爺を殺して終いにしようかとも思ったが……『そいつ』が、いた。
男だ。年の頃はユラと同じくらいで、当主代理の側に雇われた剣士である。
強い。『そいつ』は。
男のくせに、欲など無縁とばかりに超然としていて、恐らくはたった一つの物差しでもって世の中を睥睨している。とても共感できるから、ユラにはそれとわかる。
即ち、斬るか斬られるか―――人を見ればまず斬り方を考えるという、血塗れの生き方。
『そいつ』を殺したい。
ユラは身悶えした。殺して、踏みにじって、叫びたかった。久しく忘れていた激情が、胸を焦がし、腹を熱した。殺しにくいに違いない『そいつ』をこそ、渾身の力で刺し貫いて、殺してしまいたいのだ。
剣もまた、それを欲しているように思われた。今はまだとわかっているのに、つい鯉口を切ってしまう。納めても納めても、斬らせてくれろと鍔が鳴る。そんな不思議が起こる、それほどの邂逅なのだとユラは理解した。
「ふふ……もうすぐ、もうすぐ」
ユラは鞘を撫でる。手の潤いを擦り込むように。朱の色を汲みだすように。
先程の対峙は、言わば約束のようなものだった。斬り合いの約束だ。今か、後か、それだけを確認するだけでよかった。その気がなくとも逃しはしないが、あちらもその気であったから、気分がいい。
だから、無視しようと思ってはいるのだが。
「女が剣を持つ。嘆かわしいことだな!」
「全くです。どこの誰が招き入れたのやら……ああ、好き者がいましたな。確か」
「祖父上、父上、聞こえますよ? まあ、確かにその通りではありますが」
聞こえよがしにユラを揶揄してくる男たちがいる。似たような顔つきの三人だ。
「近頃は、常勝将軍などと煽てられてその気になっている女もいる。忌々しいわ!」
「ああ、あの勇ましさだけが取り得の家ですか。あそこも、この頃は迷走しておりますな」
「戦場とは、男と男がぶつかり合うところだ! お飾りの分際で調子に乗りおって!」
「全く同感でありますが、ま、一時的なことです。『黄禍原』がありましたからな」
「戦えば、消耗する。そんなことは当たり前だ! 惰弱はいちいちに騒ぎ立てる!」
「然り。しかし、かく言う我らが家門の長もまた、女ではありませんか。仮で、代理で、お飾りではありますが」
「ふん! 女のごときに、大事がわかるものか!」
「父上も祖父上も……声が大きいですよ? それに女を悪く言い過ぎです。私は女が好きなのですが」
「おお、そうか? いや、そうであったな! ふはは! 儂とて立場を弁えた女は認めておる。何しろ、多くを産ませねばならん」
「ふふ、わかっているとも。しかしお前も役得だな。ウィドはいい女だ。いっそ私が貰ってもよかったが」
「母上が機嫌を悪くしますよ、父上」
何とも馬鹿馬鹿しい空間だった。
三人の大笑いに、広間の半数近くは追従するのだから騒々しい。もう半数近くはといえば、冷笑を貼り付けてこそこそとするばかりだ。ユラの依頼人はその中心人物である。どちらにも属さない者たちは、それぞれに居心地の悪さを誤魔化していて、その様は廓でキョドキョドとする客にそっくりだ。
ユラは嗤った。所詮こんなものは縄張り争いでしかなく、つまりは欲の張り合いで、どうせ全てが碌でもない。要は、馬鹿が馬鹿をやっているだけのことだ。
だから、きっと、悲惨なことになる。そんな予感がユラにはある。
故人を悼む場で争う、汚醜が。剣が自ずから鍔鳴る、奇怪が。人斬り同士が出会う、剣呑が。どれ一つとっても不幸を招くに違いないそれらが、三つ合わさって、この屋敷は大層おぞましく仕上がった。
一体、何人が死ぬのやら。
ユラは男たちの顔を一つ一つ観察し、死相の有無を確かめる遊びを始めた。




