同業の邂逅
「や、野犬にも衣装ってことかしらね! 上等な服だし?」
着替えと洗顔洗髪を強要してきた女――カオロがそんなことを言ってきたから、ゼクは鏡に映る自分をまじまじと見た。なるほど武官らしい姿である。貴人に仕えるにしては、腰の物に飾り気がないが。
「嬉しいなあ! ゼクさんと一緒に働けるなんて!」
「ミトゥ……喜んでばかりいないで色々と指導してよね。体裁としてはあんたと同役だけれど、こいつ、礼法も愛想もなっちゃいないんだから!」
ミトゥという男は緊張感がない。所作からして兵法者に思われるのだが、迫力は皆無で、どうにもこうにも軽薄である。
「でも、十日間だけっていうのがなあ……ずっとならいいのに」
「侍衛の吐く言葉じゃないわよ……間違っても姉さんの前で言わないでね」
「え? でも、ウィド様のためにこそ心強いんですよ?」
「心配しなくても、もう何も起こりはしないわ。色々と不幸が続いたし、身内以外にも来客が多いから、奥方様が気を揉むのもわかるけれど。本来なら衛兵だって余計なくらい」
「ええ? そうなんですか?」
「そうでもなきゃ、姉さんの侍衛をあんたになんてしないわよ。藁巻きも斬れないんでしょ?」
「う! そ、その……精進します……」
姦しさをやり過ごして、ゼクは壁向こうの音に耳を澄ませている。
美しいものが聞こえていた。
幼い笑い声がキャラキャラと咲く。優しい歌声がそれを引き出し、あやす。見えずとも浮かぶ情景は、淡く、甘く、どうしようもなく暖かだ。そして遠い。どうあっても届かぬほどに。
やっていることの内容はといえば、幼子の糞尿の始末で、ゼクは性別からの憚りでもって護衛対象から離されているのだが。
目を閉じる。閉じて、聞き入る。
だが、ゼクはすぐに眉をひそめることとなった。
前方から足音が近づいてくる。客間のある、渡り廊下の向こう側からだ。明らかに物々しい。ゼクは歩幅を測り、体格を推察した。危険な人物かもしれない。
「ウィドはどこだ? どこにいる?」
騒々しく現れたのは、鷲鼻の男だ。凶相である。着崩していても上物とわかる服装からして、貴賓か。
何にせよ兵法者だ。腰には大振りの長剣を差している。使い込まれていて、微かに臭いもする。血油が鍔元に染み込んで生ずる、馴染みのあの臭いが。
「お前は! 誰の許しを得てこっちへ来たの!」
「相変わらず口の利き方を知らんな、カオロ。お前の姉に用があるのだ。出せ」
「ここはお前のいていい場所じゃない! 出ていきなさい! すぐに!」
「もう一度だけ言うぞ。ウィドを出せ。さもなくば義理の妹になるとはいえ容赦せん」
「訳のわからないことを!」
ああ、うるさい。
いつもの冷たさが肌を刺してくるから、ゼクは鼻に皺を寄せた。
「訳を知らんのはお前ばかりだ。俺はウィドを妻とし、遺児の後見となる。そういう話になっている」
「はあ!? 気でも触れたの!?」
「正式な発表はこの後のこととなろう。面倒だが、躑躅家の家格を思えば必要なことよ」
「発表? 正式の? 何を言って……」
「馬鹿め。此度の集まりはそのためのもの。だがまあ、披露の前に少し可愛がってやろうと思ってな」
「披露? え? 可愛がるって、まさか」
「俺の女だ。軽く種を仕込んでおいても、面白かろうよ」
「よ、よ、よくもそんな恥知らずな妄想を!」
母子の身を固める物音が聞こえた。暖かさは今や遠ざかって、消えかけ、息を潜めてしまった。暴力の気配に侵されてしまった。
うつむいて、ゼクは奥歯を噛んだ。
「所詮は小娘か。時勢を知らんな。強き者が当主とならねば、家が立ち行かんのだ」
「黙れ! 傍流風情が家を語るな! 兵は! 衛兵は何をしてるの!」
「お前ら姉妹とて傍流だろうが。それが、姉の色香で本家に取り入っただけのことだ」
「なっ!」
「確かにウィドは美しい。常々、あの病弱な男には勿体ないと思っていた。何ともそそる身体をしているしな」
「な、な……」
「売女とは言うまいよ。もとよりその程度のものだ。女の処世なぞは」
「貴様! 貴様ぁっ!!」
「お前には遺児の世話役でもあてがってやるさ。どけ」
「きゃっ!?」
カオロを押し退けて、男が来る。舌なめずりし、股間を膨らませ、粗暴の気配を剥き出しにして何ら恥じることもなく。
だから、ゼクは男の前に立ち塞がった。
「何だ? 侍衛のごときが」
視る。剛の者だ。場数も踏んでいるようで、さりげない視線がゼクの剣をなぞってきた。得物の長さを目測されたのだ。拵えの独特さをも見て取った気配がある。武器に詳しい男か。
「……どかぬ気か」
低く言った男の肩越しに、カオロが暗器を出しあぐねている姿を見る。
さもあろうと思われた。切った張ったの大立ち回りとなっては護衛対象に危険が及ぶし、そもそも、生兵法で立ち向かえる相手ではない。組み打てない女の細腕であれば尚更だ。
さりとて、通しはしない。通すはずがない。
護衛の仕事とは、被害への対処をもって下等、悪意の遮断をもって中等、問題の根絶をもって上等と見なされる。来させてはしまった。しかしここからは。
ゼクは進む。するりと男の懐へ。左手で鞘と鍔とを握り締めて。
「む!?」
男が即座に剣を抜く。いや、抜こうとした。素早く柄に右手をかけた。練達の動きだ。まさに抜き放たんとするそこのところを――右ひじが浮くことで生じた隙を。脇腹を。
柄頭で突く。
剣を抜かぬままの一撃である。
「ぐおっ!!」
骨を砕いた手ごたえを左手に感じつつ、怯んだ男の右手を右手で掴む。柄と小指と薬指とを、諸共に握りこむ。そして捻る。指の骨を圧し折る。更に引く。前のめりにさせて。
無防備になった首筋へと、強く、柄頭を叩き付けた。
「……守捨流、角落」
男は顔から倒れ伏して、動く様子もない。半ばまで晒された白刃が、寒々しく、日の光を照り返している。
「こ、殺しちゃったの?」
ゼクは答えず、男を後ろ手に縛りあげた。そうすることの許可が依頼人より下りている。斬ることについても同様だ。判断を仰ぐ必要もないとは、少々と言わず乱暴な話だが。
「この男、一族でも有名な兵法狂いだったのに……こうも呆気なくだなんて」
「そりゃあ、ゼクさんですもん。こんなの楽勝ですよ!」
「ミトゥ! そういえば、あんたもいたんだった! 何してたの!」
「え、観戦してましたけど?」
「はあ!?」
「あ、ゼクさん、後は僕がやりますよ。蔵に押し込んどきます!」
ミトゥが男を背負い上げ、さっさと運び去っていく。ゼクはそれを見送った。仕事の補助をさせていいと聞かされていたからだ。
「は! ね、姉さん! 姉さん大丈夫!?」
カオロが戸を開けたから、ゼクはそれを追おうとした。それも仕事の内である。
しかし、足を止めた。
音がしたからだ。
パチリと鳴ったそれは、鍔を抜き差しすることで生ずるものである。一度ではない。また鳴った。きっと、振り向くまで鳴り続けるのだろうと思われた。
渡り廊下の向こう側の、左へ折れる通りの突き当りで、壁に背を預けて。
女がいる。目つきの鋭い女だ。
灰色の髪、浅黒の肌、酷薄な薄笑み、金色飾りの朱塗り鞘……そして、足には見覚えのある黒い脚絆を巻いている。また鍔鳴り。繰り返す。顎をしゃくってもくる。その意図するところは明白だ。
抜け、と言っている。
抜いてみせろ、と誘っているのだ。
ゼクは抜かない。抜かずに、女を見続ける。不快さはなかった。むしろ興味深かった。左手で牛革巻きの柄を撫でて、さすって、柄頭を手の平で包む。あるいは微笑んでもいるのかもしれない。
一目で察したからだ。あれは、同じであると。
人斬りだ。つまりは同業者だ。
きっと、人を斬らずにはおれない者の業を背負っている。ゼクと同じに。
光の差す渡り廊下は、いわば鏡だ。こちらが動けばあちらも動く。駆け寄れば駆け来るだろう。ならば斬れば斬られて相討ちか。いや、あるいは技がぶつかり合っての相抜けか。それともどちらかが砕けるか。鏡を叩けばそうなるように。
想像している内に、女は立ち去った。鞘の朱色が妙に目に残る。
ミトゥが戻ってきたのはそれからすぐだ。いま少し早く戻ったのなら、斬り結んでいたかもしれない。いや、向こうが動かなければ無理だったろうか。
護衛という仕事の窮屈さに、ゼクは武官服の首元を緩めた。