捨身の少年
寒い日だった。
だから、ゼクは眠らずに朝を迎えようとしていた。
泥の色のボサボサ髪を噛んで暴れる顎を抑え込む。腐り色の襤褸切れにくるまり、手足をこすり合わせ続ける。それで辛うじて十二歳の命を存えられる。かつて母が縫ってくれた服はもはや丈が足らず綻びだらけで、心より他に何も護ってくれやしない。
ふと、ゼクは鼻をひくつかせた。嗅ぎ慣れた木炭の匂いに何かが混じっている。剣呑な何かが。
そわそわと寝床から……朽ちかけた炭焼き小屋の端の、壊れ木箱の蓋の上から這い出でて、外へ。冬枯れの森の、未だ明けやらぬ空の下へ。
一筋の黒煙が立ち昇っていた。
灰色に淀む空から零れ落ちてきたようにも見えるそれの、繋がる先が気になった。気付けば鉈を手に走り出していた。肌を引っ掻く灌木を打ち払い、急ぐ。身を斬る冷気に抗い、急ぐ。
音が近づいてくる。
喚き声と、悲鳴と、断末魔の絶叫が。
里が燃えていた。盗賊か、それとも軍隊か。いずれにせよ略奪だ。見も知らぬ男たちが剣や槍を手に里民たちを襲っている。火事を照り返す刃がそこかしこで振るわれる。見知った者たちが倒れていく。誰も彼もが死んでいく。
村を見下ろす丘で、ゼクは、凍りついたように……動かなかった。
ただ、里の凄惨な有り様を眺めていた。
腹が痙攣し、ひきつるような声が漏れ出ていたが、泣いているわけではなかった。頬に触れてそれを確かめた。笑っていたのだ。ゼクは。
「なんだ……なあんだ」
ぺたりと尻餅をついた。そのまま倒れそうになった。
「こんなもの、だったんだ……」
布を引き裂くような声が聞こえた。
ゼクは弾かれたように走り出した。
里へ降り立ち、物陰を伝って近寄っていく。悲鳴に代わって下卑た笑い声の聞こえてくるそこへ。八歳の秋まではゼクも暮らしていた、今は父と継母と義妹の暮らしているその家へ。
腰が引けてきたのは、何を恐れてのことか。
あんなにも硬く頑なだった扉は、今はだらしなく開かれていて。
そして、尻を晒した醜い男がヘコヘコと腰を振っていた。組み伏せられているのは継母だ。継母だったものと言うべきか。もはやあの足はゼクを蹴れず、あの手はゼクを叩けない。怒鳴るどころか息を吸うこともない。
生々しさを目の当たりにしながら、ゼクは静かに納得した。父はもうどこかで殺されたのだと。
唇を噛んだ。胸に去来するものの熱さに、震えた。父としてではなしに、一人の男の生涯を思った。妻に逃げられ、子連れの後妻を取って息子を捨てた男の一生を。無残であったろう、その最期を。
何かが冷たく刺さってくる感覚に、顔を上げた。
青い瞳がゼクを見ていた。
義妹だ。六歳のセイが、生々しさの向こう側で、壁を背に力なく座っている。表情はない。乱れた薄水色の髪の奥から、井戸の底に光る水面にも似た二つ瞳が、瞬きもせずにゼクを見据えている。
僅かに口が開いたが、声は出ない。もう悲鳴を上げる気力もないらしい。
それでも閉じることなく戦慄く唇を見て……ゼクは跳んだ。
「ごわっ!?」
当たった。鉈は男の後ろ首へ命中した。何かを砕いた感触があった。しかし出血が少ない。やはり首を落とさなければ死なないのだと、鶏になぞらえてゼクは理解した。鶏を絞めて血抜きする作業は、里から課せられた仕事の内の一つだったから。
「なんっ、なにが、おわあ!?」
バタバタと動く男の背後へと回り込み続ける。首筋へと鉈を叩きつけ続ける。初めは困難な作業だったが、その内に容易くなった。痙攣するばかりとなった男の髪をつかみ、背を踏んで固定し、切断した。鉈は途中で折れていたから、最後の最後はねじ切った形だ。
左肩が痛かった。見れば服が引き千切られていて、血も流れているし、赤黒く腫れてもいる。そういえば男に掴まれたような、とゼクは曖昧に思い出した。
ああ、痛い。ゼクは懐かしい天井を見上げた。痛い。呼吸のたびに肩が揺さぶられて、何とも痛む。喉も痛い。胸も痛い。腕も、指も、何もかもが痛むばかりだ。
そして臭い。ここは空気が腐っている。こみ上げてくるものに逆らわず、その場で吐いた。湯気の中で、泥色の髪と木の皮と草の根が濡れていた。このところの食事といえばそれらだった。
立ち尽くす。
そのままにどれくらいの時を見過ごしたろうか。
開けっ放しの扉がコツコツと叩かれた。いや、何度も叩かれていたのかもしれない。頭痛と耳鳴りとが酷く、ゼクには判断がつかなかった。気怠さに憑りつかれたまま、のっそりと音の方を見やって……全身が粟立った。
悪鬼が、そこにいた。
角や牙があるわけではない。血染め血塗れながらも外套を羽織っているからには人間並の身体なのだろうし、抜身の長剣を手にぶら下げているからには人間的な指と爪なのだろうが。
顔が、凄まじい。凶相という域を超えている。毛髪はなく、鼻もなく、耳もない。頭蓋骨に青紫色の皮が張り付いているだけだ。しかもその表面には地虫にも似た血管が脈打っている。そんなおぞましさの中で、歯並びばかりは白く冴え冴えと輝いている。赤い舌がぬるりと動いた。
喰われる。
本能とでもいうべきものが狂おしく警鐘を打ち鳴らした。死が、明確な形でもってそこに在ると。逃げろ、逃げろ、死に物狂いで脇の窓へ跳べと。動かせない視界の端には明かり取りの木窓が映っている。
しかし、背には。
背には、今も真直ぐに突き刺さっているのだ。青く切実な、小さき者の視線が。
ゼクは瞬時に悟っていた。
一つだと。一つきりだと。
ここで拾えるかもしれない命の数は、ただの一つきりなのだと。
ゼクは奥歯を噛み締めた。
悪鬼から目を離さず、息もせず、そろりそろりと膝を屈めた。床に手を伸ばし、探って、一振りの剣を掴み取った。ゼクが殺めた男の剣である。
重い。まともに振れそうもない。
だからゼクは剣を振りかぶっておこうと考えた。振り下ろすだけならば、重さはむしろ助けになるはずだ。しかし振りかぶれない。左肩が耐え難く痛む。どうやっても左肘が肩より上がらない。ならばとゼクは工夫した。剣を握る両の拳を右頬につける。右肘をグイと上げ、切っ先を天井へ向ける。
出来うる精一杯を用意して、ゼクは、悪鬼と対峙したのである。
バクリバクリと鳴るのは鼓動か。胸が裂けそうだ。キャラキャラと鳴ったのは悪鬼の嗤い声か。身がすくむ。目の端に涙が溜まる。鼻水も垂れる。腿から膝へと伝っていく液体もある。
さもあれ、ゼクは既に己の命を見切ってしまった。悪鬼の強さを察知し、己とそれと引き比べて、敵うわけがないと理解してしまった。
ああ、もう、どうあっても死ぬ。
されど、どうあったとしても、悪鬼を打ち払わねばならぬ。
そら、悪鬼が動き出した。その右手には長剣が……もう間もなくゼクの身体を切り裂くものが、赤く染まってなお鋭さを閃かせている。切っ先は床へ向いたままだ。
好機だ。
たとえ死が早まろうとも。
判断するなりゼクは跳びかかった。わずかでも意表をつくのだ。構えられる前に襲うのだ。それでもなお先に斬られたとて、あの位置からならば背で腕を庇える。腕が残りさえすれば、必ず斬る。斬ってみせる。
十二歳の身命を、残すところなく、この一撃に乗せきって。
「ぅおおおああああっ!!」
耳をつんざく破裂音が轟いた。
ゼクは床へ倒れ伏していた。
息は吸える。血を流してもいない。しかし起き上がれない。両腕が激しく痛み、痺れていて、まるで役に立たない。剣が目の前に落ちている。刀身が半ばで折れて……いや、切断されているのか。何がどうしてこうなったのか。焦ったところで身が転げるばかりだ。それで気づいた。
おお、天井に刺さっているあれは、剣のもう半分ではないか!
「見事。実に見事」
言葉が落ちてきた。三度四度と弾けた音は柏手か。
「そして僥倖。まさに僥倖。阿呆と下郎の跋扈する巷で、まさか、かくも豪壮な剣風の芽吹きに出くわすとは……わからないものだ」
悪鬼だ。凄まじき青紫色がゼクを見下ろしている。そして白い歯を晒して語る。
「ふむ。里滅び野盗亡びて、身も世も捨てた一剣の起こる……いや、護る者の剣でもあるからして……さながら『守捨流』といったところか。どうだ? お主の在り様を表す良き号であろうが」
その声はどうしてか身に沁みる。耳に心地よくすらあって、ゼクは身悶えを止めていた。
「儂と来るがいい」
手が差し出された。分厚く大きな手だ。指の数が欠けている。
「共に、斬り果ての原に遊ぼうぞ」
思うように動かない手を、それでも伸ばして。
祈るように縋るように、伸ばして。
ゼクは、悪鬼の手を取った。
冷たく、乾ききった手だった。