第6話
「はい、お電話ありがとうございます。……あぁ、小夏さん。その節はどうも」
「むぶ……ッ」
私が小夏さんの名前を口にした瞬間、昼食のナポリタンを頬張っていた妹の顔がピタリと硬直する。口の周りをトマトソースでめちゃめちゃにしながら、コマ送りみたいに私の方へカチコチと顔を向けてくる。そんな調子で真剣な顔しなさいな。思わず吹き出しそうになっちゃったじゃないの。
今日は土曜日、小学校の授業が半日で終わる日。
降水確率六十パーセントの鼠色の空だけど、少なくとも今すぐに降り出しそうな気配は感じられない。降りそうで降らない、そんな調子で今日一日はこんな曇り空だろう。前日と相変わらずジメジメとした湿気が多いのが難点か。
「ご予約ですね。メニューは……はい、以前のお茶を。それを……えぇ、はい。お菓子は……いえ、そんな……でも……はい、かしこまりました」
ざっとボールペンを奔らせ、素早くメモにまとめて受話器を置く。
小夏さんからリクエストされたものは、以前に振舞ったアップルミントのハーブティー。ずいぶんと気に入ってくれたらしく、お土産用に詰めてほしいとのご注文もいただいた。あと、お茶菓子は小夏さん自らが何か持ってきてくれるらしい。これも、以前のお礼との事。私は遠慮したが、こういうご厚意と言うものは遠慮しすぎるとかえって失礼だと思いを改め受け取ることにした。
「小夏さん、来るの?」
「二時半頃ですって。飛行機の時間に余裕を持たせて、ここでしばらくのんびりしたいって」
「……ごくり」
今、自分の口で言ったわよこの子。
「それで? 鞄を開ける弱点は見つかったのかしら?」
テーブルに戻って、ナポリタンをフォークでくるくる巻き取りながら私は妹に尋ねる。少々強ばった面持ちでパスタを呑みこみ、ティッシュで口の周りをごしごし拭いてから妹が答える。
「……たぶん」
「そっか。私も、あなたが開けるのを楽しみにしてるわ」
「ぷ、プレッシャーとかやめてよ……!」
たまにはそういうプレッシャーを感じる時が必要なのよ。
二人で食事を終え、食器を片づけお店を掃除してと雑多な仕事をこなしているうちに、玄関の方に一台の黒い車が停車するのが私の目に留まった。
カラン、コロン――
「こんにちは」
「あぁ小夏さん、いらっしゃいませ」
来客を告げるベルの音と共に、アサガオの意匠が目を引く和服姿の小夏さんがやってきた。自然と着物を着こなせる女性というものは淑やかで美しい。さりげないお化粧ときちんと整えられた白髪も相まって気品にあふれる出で立ち。同じ女性として、少々羨ましくもある。
挨拶もそこそこに席へ案内しようとしたところで、妹がカウンターの影からそっと姿を現し、例のトランクケースを抱えて私の側に並んだ。
「こ、こんにちはゃ!」
裏返った声が飛び出した。
妹はしっかり緊張している。
「えぇ、こんにちは。その鞄のことも気になるところだけど、今日はお菓子を持ってきたのよ。一緒にどうかしら?」
「はいよろこんで!」
別に間違っちゃいないんだけど、このタイミングで畏まった言葉を発する妹に思わず私は苦笑してしまう。それがまぎれもない本心なのもポイントだ。
しかし、お菓子を持ってきたと小夏さんは言うものの、その手には小さな巾着袋を持っているだけで他の荷物は見当たらない。巾着の中に収まりそうなお菓子ということかしら。妹も、ついつい私も小夏さんの持ってきたというお菓子に興味津々だった。小夏さんは巾着袋にゆっくりと手を突っ込んだ。
「私の個人的な大好物で申し訳ないんだけど、この前のハーブティーにもよく合うんじゃないかと思って……」
「あ! 私それ見たことある!」
「わ、たまごボーロ……懐かしい」
巾着袋から出てきたのは、ビニール袋に包まれたたまごボーロ。
きちんと三人分の小袋テーブルに広げると、小夏さんはちょっと照れたように口元を袖で隠した。
「小さいころからこのお菓子が好きで、よく持ち歩いてるの。この前来た時は、公園で食べちゃったのよ」
「これ、クッキーだよね? 食べると、口の中で溶けちゃうの!」
「えぇ、私もそれが好きなの」
駄菓子の定番ともいえるたまごボーロ。
厳密に言えば、焼き菓子ではあるが妹の言うクッキーとはまた少し違う。
たまごボーロの主材料は一般的な焼き菓子の材料である小麦粉ではなくジャガイモの澱粉。だから、口の中に含むと唾液に含まれている消化酵素で分解されて優しい甘みが広がっていく。
「昔はねぇ、こんな風な小さな袋じゃなくて、大きな缶に入って駄菓子屋さんに来たのよ。すぐに湿気ちゃうのが嫌だったけど、時代が進むとこうやって……ね? 便利なものよね」
「大きな缶に、たまごボーロ……」
こぼれかけたよだれを右手で拭って妹は首を振る。
頭の中で、一斗缶に詰まった大量のたまごボーロの姿を想像した証拠だ。
「私も、久しぶりに食べました……どっちかっていうと、お菓子と言うより離乳食のイメージがあるんですよね」
歯の無い赤ちゃんでも、先述の消化酵素のおかげで安心して食べさせることが出来る、駄菓子としては破格の汎用性。今も昔も愛されている伝統ある一品。
そんなたまごボーロとミントティーとを囲みながらしばし雑談。
飛行機の時間、小夏さんの地元、たまごボーロで熱弁されたりと、前回以上に気楽で穏やかな時間。
お菓子を楽しむ妹だけど、その横顔はほんの少し、私にしか分からない程度にそわそわとしていた。素直に楽しんでいる反面、件の話題がいつ飛び出すのかと気が気じゃないのかもしれない。
「それで……あぁ、そうだ。すっかり忘れそうだったわ。この鞄、どうなりました?」
来た。
私は横目で妹に視線を送る。
ハーブティーに伸ばしかけていた手がピクッと止まるのが見えた。
「えぇ、とっても不思議な鞄で……なかなか苦戦してましたけど」
「まぁ……ということは?」
「にぇ!? あ、あぅ……」
パチンと手を打ち、小夏さんは期待の眼差しを妹に送る。
対して、妹は蛇に睨まれた蛙のように硬直。そのまま器用に瞳だけ私の方へ動かし、やや恨みのこもった視線が飛んでくる。私は知らん顔して、空になった食器を集めてカウンターの方へとすたこらさっさ。
「中に、何が入っていたのかしら?」
「え、えっと、えっとね……」
しどろもどろする妹が面白くて、可愛らしくて、私はそのままカウンターの後ろに食器を置いて、ここから頬杖をついて見守ることにした。
「い、今から開けてあげる! ちょっと、ちょっと待ってて!」
ティータイムの邪魔になると足元に置いておいた例のトランクケースを持ち上げ、妹は片付いたテーブルの上に移動させる。
「こ、この鞄はね! えと、その……」
「やっぱり……ダメだったかしら?」
「ちちち、違うよ! 開けられるもん! この鞄はね、弱点が、あって、ね……?」
「まぁ……この鞄に、弱点?」
妹へ向かって小夏さんが身を乗り出す。
期待の光でいっぱいになっている瞳に見つめられて、妹は「うッ」と小さくのけ反る。さぁて、ここからどう切り出すのかしら。
「そんなものがあるだなんて知らなかったわ。でも、弱点って……何かしら?」
「そ、それは……」
追い詰められた妹の顔が強ばり、震え、そして――ハッと顔を上げた。
何かを思い付いた、或いは、何かに気づいたらしい半信半疑の横顔は私に一瞥寄こすでもなく、妹は意を決して口を開く。
「こ、この鞄はね、く、くすぐると開くんだよ!」
「くすぐ……る……? じゃあ、この鞄はくすぐられるのに弱いということ?」
「うん……!」
言うが否や、妹はトランクケースを前に指先をわにゃわにゃと動かして構える。小夏さんは今にも首を傾げてしまいそうなほど不思議そうな顔を浮かべているけど、そのまま何を言うでもなく妹へとまっすぐ瞳を向けている。
さて、当の妹だけどその動きは少々ぎこちない。
ああもハッキリと「くすぐると開く」と言い出してしまった手前、既に引くことも出来ず、しかし鞄の何処をくすぐればいいのか悩んでいる。
妹の視線は鞄の各部位に流れて、また別の場所へ、別の場所へと繰り返している。
鞄の表面なのか。
側面なのか、はたまた縁やグリップなのか。
手当たり次第に指先を動かしても、鞄はビクともしない。
しかし、私には聞こえていた。
ある一か所だけ、妹の指が触れると、
――ヒ、ヒヒッ……
必死に笑いを堪えるような声が。
「…………!」
ふと、妹の指がピタリと止まる。
確信を得た表情のその先には、既に壊れて誰も触れないであろうラッチ錠が見えている。
トランクケースを起こし、小夏さんの正面からしっかりと見えるようにしてから、妹は大きく息を吸い込んだ。
「ここだーッ!!」
狙いをラッチ錠の金具に定め、妹の小さな指先が壊れた錠の上ででたらめに暴れる。
例えばあれが人の身体の、足の裏だったり腋だったりすれば大の大人でも堪え切れずに笑い転げてしまう――私でさえちょっと末恐ろしく感じるほどの指先。
傍から見たら、何の事情も聞かされていないまま見たら、気でも狂ってるんじゃないかと思われない妹の奇行を、しかし小夏さんは黙って、いや、やっぱりちょっとだけ不審そうに眉を寄せながら見つめる。
……ヒッ、プフ……クッ、ヒッ、ヒャハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!
盛大な笑い声が、お店に響いたその瞬間。
……ガチャン!
使い物にならなくなっていたはずのラッチ錠が外れ、トランクケースの口が開く。
「…………」
「…………」
その声は、二人にも聞こえていたらしい。
小夏さんは目をビー玉みたいに真ん丸くしながら、妹はくすぐった勢いで万歳のポーズをしたまま目をパチパチとさせながら。私は、それをカウンターから見物しながら。
「い、今ッ……?」
「え……え、えぇ。笑い声……が……? お、お姉さんも?」
「えぇ。それより……鞄の中身は?」
不必要に“声”に意識させないように、私はおざなりな返事で話題転化を図る。
そもそもの本題は鞄を開ける方法でも開かなかった原因でもなく、肝心要は鞄の中身の方。
小夏さんは半開きになったトランクケースを自分の方へと向きを直し、キィ、と微かに軋む音を立てながらゆっくりと開いていく。
小夏さんの瞳が、大きく見開かれていく。
微かに震える指先で中から取り出したのは――古ぼけた一枚の写真だった。
「これ……」
「え、見せて見せて! ……? これ、小夏さん? と、誰?」
セピア色に染まった写真には二人の男女が映っている。
一人は小夏さん、今の私と同い年くらいだろうか。
何処かの家の前、和服を纏ってうっすらと笑みを湛えている。正しく古式ゆかしい大和撫子と言ったような美しい佇まい。
そして、隣にはもう一人。
「……これは、旦那さんの」
美しく佇む小夏さんの横で、軍服姿の男性が映っている。
小夏さんよりも背が高く、堅苦しそうな軍服の上からでも分かるガッシリとした体躯。恐らくは、戦争に赴く直前に撮られたであろう写真だが、とても愛嬌のある一枚だと私は感じた。
「あの人ったら……失くしたとか言って、ちゃんと持ってるじゃないの」
静かに震える声と、それに混じる嗚咽と微笑。
「最初に、あの人が滅多に笑わない人だって……言いましたよね? 実は一回だけ、笑って映った写真があったんですよ。でも、旅行の時に失くしたって言って、その時は結構な喧嘩をしたんですけど……」
「……恥ずかしかった、とか?」
「変なとこで、頑固だったから……ふふふ」
思い出の写真に映る旦那さんの、太陽のような眩い笑顔を見て、小夏さんは目尻の涙を指で拭って、負けじと大輪の笑顔を咲かせた。