第5話
「むー……ぅー……」
恨めしそうな声をこぼしながら、妹は窓際のテーブルに突っ伏しながら窓ガラスの向こうの灰色を睨んでいる。
小夏さんから鞄を預かって三日目、金曜日。
天気予報の通り、昨日の晴天は夜の内に崩れ、そして今朝からずっとこんな調子で雨が降り続けている。強くもなく、さほど弱くもない雨はジメジメと心の中にまで湿気を呼び込んでくれるから性質が悪い。そんな日にこそと私のお店で癒しや安らぎを求める人が多く、今日のお客さんは昨日や一昨日に比べれば圧倒的に多い。
「こーら。妹がそこにいたら、他のお客さんが座れなくなっちゃうでしょう?」
「ぅー……」
もう少しすれば予約してくれているお客さんが到着する予定なのに、妹は唯一空いているテーブルにへばり付いて動こうとしない。
今日の妹は、学校から帰ってきてからずっとこんな感じで、既に私は不貞腐れている大凡の理由に見当が付いていた。
カウンターの上――今日は来客が多いので隅に移動させている例のトランクケース。
一昨日は自らの力を行使して、昨日はお友達のお知恵を借りて、そして結局開かずじまい。
開けてあげたい、開けたいのに開けられないというフラストレーションが、妹の小さな心と体に溜まっていて、それを上手く吐き出せないでいる。大人でもしばしば苦労する代物を、まだ小学生の妹が易々と扱えるわけがない。
まぁ、変に八つ当たりをしたりしないだけ偉いと言えるかもしれないけど。
「お姉さん、お勘定いいかな?」
「はーい、今行きます」
お客さんが多いということは、つまりシンプルに忙しいということ。
ご機嫌斜めな妹を気にかけてあげたいのは山々だけど、こうも忙しいとそんな余裕もなかなか見つけにくい。忙しくとも、お釣りとレシートと、お見送りの笑顔も忘れてはいけない。
不意に、窓を叩く雨の音が大きくなる。
雨脚が強くなり始めて、お客さんの何人かは徐々に黒が強くなっていく空の様子を不安げに見上げたり、腕時計やスマートフォンに何度も視線を送ったりと落ち着きが少なくなりつつあった。
「……もう少し優しい雨音なら、良いBGMになってくれるのに」
自然現象に愚痴を言ってもしょうがないか。
徒歩で来たお客さんの何人かが、帰り道を危惧したらしくそわそわと身支度を始める。中にはタクシー会社に連絡をする人もいた。のんびりとしている人は自家用車で来た人だけで、私は私で外のハーブ園の様子が気になりつつあった。
「ありがとうございました。帰り道、気をつけてね?」
そこからは、とんとん拍子にお客さんが帰っていく。
一人帰ればまた一人。
誰かが立つのを見計らって、自分もと流れに便乗して立ち上がる。
ある種、日本人特有の悪癖とでも言うべきだろうか。
お勘定と、去り際に次の予約を決めてくれる人、メニューのリクエストをくれる人。
それらを見送ると、お店の中はあっという間に私と妹だけになってしまった。
「珍しく繁盛したかと思えばコレか……まぁ、楽しい時間なんてこんなモノよね」
「…………ぶぅー」
誰もいなくなったカウンター席に、何時の間に移動したのやら妹が突っ伏していた。
べっちゃりと、まるでスライムみたいに身体を密着させながら、手持無沙汰な両手で簡易メニュー表をもてあそんでいる。
「お姉ちゃあ……ん」
妹の弱々しい猫撫で声は、あからさまに助けを求める声。
「あら、あの鞄を開けると小夏さんと約束したのは妹じゃなかったっけ?」
「だってぇ……開かないんだもん……」
当初のやる気が完全に失せてしまった妹の姿は、正しく万策尽きたと言った感じで覇気に欠けている。
雨の降る中、表の看板を「closed」へとひっくり返し、私はカウンターの中へと戻ってあのトランクケースを引っ張る。ちら、と視線を動かした妹だったけど、その視線はすぐに明後日の方向に、ぷい、と向けられてしまった。
「約束の日は明日。なら、最後まで頑張らなきゃいけないでしょう。それとも、あなたは途中で約束を放り捨てるような弱虫さんかしら?」
「……虫じゃないもん」
虫、の部分しか否定しないわね……これは、相当参ってるご様子。
まぁ、戦意喪失するのも無理はない。
妹に出来得る限りの全てを以てしても、あのトランクケースはその口を開いてはくれなかった。
自分の力でも、道具を頼ってみても、友達の知恵を借りても開かないトランクケースともなれば、まだ小さい妹の限界が訪れるのも当然早い。普段から喜怒哀楽のハッキリした子だからこそ、落ち込む時もこうして目に見えるほどにハッキリと落ち込んでいる。
「開かずの鞄のまま、小夏さんに返す?」
「それは……いやー」
「じゃあ、頑張りなさいな」
「…………ぅぅ」
何とかしたいけど、何ともならないから困ってる。
手も足も出さなくなった妹の様子を見て、私は「しょうがないな」と思う。
そっとカウンターから離れ、突っ伏したまんまの妹の背後にゆっくりと回り込む。妹の視線がほんの少しばかり私の方へ向かうも突き刺さるほど強くはなく、やがて目を閉じてしまった。
大いに、スキだらけ。
背後で指先をわにゃわにゃと動かしながら、私は無防備な脇を視界に捉える。
「そぉー……れ!」
「……ひゃ!? にゃ!? おねえちゃ、なに、すん、きゃっははははは!!」
姉である私が妹の弱点を知らないわけがない。
無防備な身体を指でくすぐってやると、妹はびくりと身体を震わせ、ただでさえ大きな声をさらに張り上げながら身を捩る。
妹は、くすぐられることに“超”がつくほど弱い。
それはもう、脇だろうが足の裏だろうが首筋だろうが、ほんの少し指でなぞると過剰に反応し、そこで指を動かそうものなら。
「ひゃはははは! すと、ストップ! なで、なんでひゃははははははは!!」
「相変わらず弱いわねぇ。ほらほら」
「キャハハハハハハハハハハ!!」
くんずほぐれずの大乱闘を繰り広げて、妹の目尻に涙が浮かんできたところで私のくすぐり攻撃は終了。少々やり過ぎてしまったか、妹は肩でヒューヒューと息をしている。
「も、もう……! なん、なの……さ……」
すっかり息も絶え絶えに。
私を睨みつけるその眦にはうっすらと涙が浮かんでいる。流石にやりすぎたかなぁ、と思わず口から乾いた笑い声が漏れる。
「わ、笑いごとじゃ」
「ゴメンゴメン。あんまりにも落ち込んでるから、ちょっと元気づけてあげようかと思って」
「元気、出ないよ……なんか、疲れた」
「でも、さっきよりは良い顔してるわよ?」
「……わかんないよ、そんなの」
調子こそまだまだ不機嫌なものの、妹の表情はさっきよりかは陰りが少ない。無理やりにでも笑わせた甲斐があった。乱れた髪を手で優しくほぐしてやってから、私はキッチンに向かって二人分のアイスココアを用意する。
「ひとつ、私からアドバイスをあげましょうか」
「アドバイス……? もしかして、“おまじない”してくれるの?」
「だからしないって……あ」
パッと笑顔が浮かんだかと思えば、一瞬でフッと顔を曇らせる。
それはまるで打ち上げ花火によく似ていて、こういう時、ハッキリと言ってしまう性分は少々損だなと思う。
「“おまじない”はしないけど、まぁ、ヒントみたいなモノよ。いい? 妹がくすぐられるのと同じように、誰にだって“弱点”ってあると思うの」
「じゃく……てん?」
「あなたの好きなゲームにもあるでしょう? 強い怪物でもお酒に弱いとか、大魔王も伝説の武器に弱いとか、そういうの」
「……黄金の○陽かな」
そこは別にゲームの名前を出さなくてもいいのだけど。
「えー……じゃあ、この鞄にも、弱点があるの?」
「えぇ、きっと」
「……私、“おまじない”も何も使えないよ?」
「そんな大袈裟なことは必要じゃないかもしれないわよ?」
「…………お姉ちゃん、知ってるの?」
妹の訝しむ視線がチクチクと刺さってくる。
突然にくすぐられ、そして突然の助言。
あまりにも絶妙なタイミングでの助け船は、勘の鋭い妹から見たらずいぶんと怪しく聞こえたのかもしれない。「なんでもっと早くに言ってくれないの?」と、既に半目になっている妹の視線からひしひしと感じる。
「どうかしらね。さて、どうするの? もう諦めちゃう? それとも、最後まで頑張ってみる?」
「む……」
マグカップを握る指先に小さく力がこもる。
不貞腐れていた妹の表情はすっかり切り替わってくれたようで、唇をキュッと締めて真剣な面持ちでカップの縁を見つめていた。
「…………明日、小夏さんの前で絶対開けるもん」
「その意気よ……って、明日なのね」
「今日はもう疲れちゃったー。晩ごはんなーに?」
「んー……エビが余ってたから、水餃子とかどう?」
「やった! 水餃子だいすき!」
「じゃあ、餃子の皮作るの手伝ってちょうだいね」
献立も決まったし準備をするべくキッチンへと向かう。
やる気を取り戻したらしい妹は夕飯のメニューで頭がいっぱいになって頬っぺたを落としそうな表情を浮かべていた。
「……鞄の弱点……って、何だろ? 水? 火? ……くすぐったら……開くのかな……?」
そんな妹の独り言が聞こえたような気がして、私は口元をほころばせた。