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第4話

 やっぱり、この鞄は普通じゃない。

 私がそう確信したのは翌日の早朝。

 まだ妹がぐっすりと眠っているのを確認して、私は忍び足で階段を下りてキッチンへ向かう。まだ誰もいない空っぽのお店の隅を通って、引き出しの中から十徳ナイフを取り出すと、私はカウンターの上に置いてあったあのトランクケースの前に立った。


「……」


 窓の向こうから、昇ってきたばかりの朝日が店内に静かに差し込んでくる。

 こんな早い時間に、私だけで行動を起こそうとしているのは、昨日妹にああ(、、)言ってしまった手前というのが大きい。

 人様の物だから乱暴に扱ってはいけない。

 自分でそう妹にきつく窘めておきながら、私は今トランクケースを前にしてナイフを握りしめている。

 これは、ちょっとした実験。

 確かめてみたいことがある。

 ナイフの切っ先を慎重に表面に当て、ぐっ、と力を込めて押し付ける。そして、少々の躊躇を感じつつも真横に自然な力で一直線に引く。

 押さえつけられた刃は鞄の表面を貫き、そのまま一文字の切り傷が出来上がる。さて……


「ああああああ!! お姉ちゃん、何してるの!?」

「ひゃッ!?」


 傷の具合を確かめようとしたその矢先、拡声器を手に叫んだかのような巨大な妹の声が響き、自分でも恥ずかしくなるぐらいに大きく身体が跳ねる。恐る恐ると振り返ってみれば、ついさっきまで大いびきをかいていたはずの妹が、パジャマ姿のまま私に指を差している。若干ふらついた足取りで私に歩いてきて、目ヤニがいっぱいくっついたままの顔で詰め寄られ、私は思わず言葉に詰まってしまった。


「えっと、これは、その……ね?」

「お姉ちゃん、昨日私に乱暴にするなって言った癖に! 自分はそんなので……小夏さんに怒られるよ!」

「違うのよ、これは……まぁ、見てもらった方が早いか」

「……むー?」


 小さな溜息を吐いてから、私は鞄を――今しがた私が切り付けた部分を指で示した。妹は怒ってつり上がった目を何度か瞬かせ、ごしごしと擦ってからもう一度注視する。すると、寝ぼけてた顔が瞬時に覚醒してあっという間に笑顔を浮かべた。


「えぇ…………わ、わ、すごい! 何これ!? お姉ちゃん、何したの!? 鞄の傷、直ってる!?」


 妹が嬉々としてはしゃぐ目の前で、私がつけた切り傷がゆっくりと修復され、物の数秒であっという間に元の姿に戻っていく。それはまるで、逆再生されている映像を見ているかのような光景。


「そう。ちなみにね、昨日あなたが付けたハンマーの凹みも綺麗に直ってるの。……言っておくけど、私は妹が期待していそうなコトは何もしてないわよ」

「へぇ……! 不思議だね! 鞄の精霊さんの力なのかな?」

「そうじゃないかしら……?」


 類稀なる精霊の力を目の当たりにした妹の眠気はすっかり何処かに飛んで行ってしまったらしく、パジャマのまま鞄の周りを走り回って喜んでいる。


「ほら、せっかく早く起きたんだから顔を洗って、学校の支度をしなさいな。その間に私も朝ご飯作るから」

「はーい! ……あ、私ホットケーキ食べたい!」

「ん、わかったわ」


 二階に駆け上がっていく妹を見送り、十徳ナイフを畳んで引き出しに仕舞うと、私はエプロンを引っ掛けてキッチンへ向かう。冷蔵庫と戸棚をいっぺんに開いて、ホットケーキの材料をテーブルの上に揃える。喫茶店の主として、ホットケーキ如き敵ではない。手早く材料を混ぜて生地さえ作ってしまえば、後は目を瞑ってだって作れる。


「あー、そうだお姉ちゃーん!」

「はーい?」

「今日って、午後は忙しいー?」

「ん……ちょっと待ってー」


 来客予定のメモを摘まんで確認する。

 今日は午前中に二人、九時半過ぎにモーニングの予定がひとつ。メニューはピザトーストにしようと思っている。

 それから午後は……あら、少ない。

 常連さんの老夫婦の予定がひとつだけ、チーズケーキのセットを御所望とある。

 さて、こうやってお店の予定を聞かれるということはつまり、


「お友達なら、呼んでも問題ないわよー」

「わかったー! ありがとー!」


 ということだ。

 そうなると、お友達用のお菓子も準備しないといけないか。

 フライパンの上のホットケーキをひっくり返しながら、私はおやつに何を作ろうか考え始めた。



 ※



 本日、見上げれば見事なまでの快晴。

 恙無く午前中の予約を消化し、次の予約までの時間はお店や家の掃除に充てることにした。

 妹のお友達が来るとなれば、家を綺麗にしておくのは家主としての務め。

 ラジオを付けっ放しにしてから、まずは洗濯物を干し、次いで部屋の掃除を始める。

 私の部屋は普段から整頓を済ませているから手早く終わる。兄さんの部屋も同じく……というか、当人が滅多に使わないし掃除の必要性は薄い。個人の部屋に関してなら、残念ながら妹の部屋がいちばん厄介だろう。日頃の強過ぎる好奇心は何故か身の周りに関しては一切働かず、教科書や漫画本の類は基本的に四方八方に散らかっていて、本棚や勉強机と言った物は本来の在り方を失いつつある。

 妹の机の上には、この家で唯一と言っていい精密機器のデスクトップ型のパソコンがあるが、私は決して手を触れない。どうも私は精密機器と相性がよろしくなく、妹曰く、「お姉ちゃんが触るとまた(、、)爆発するからダメ!」とのこと。以前、ほんの少し触っただけで壊れてしまったのでそれ以来触らないことを心掛けている。

 ……さて、掃除は終了。

 あとは予定通りチーズケーキを振舞って、妹の帰りをぼんやりと待つだけ。

 お友達用のおやつの用意は既に作ってあって、今は冷蔵庫の中で眠っている。


 カラン、コロン――


 耳慣れたドアベルの音が静かに響き、顔馴染みの老夫婦が笑顔を浮かべて訪れる。

 時計を見ると、予定より少々早いご到着だ。


「いらっしゃいませ。席は……そうですね、今日はこちらで」


 軽く空調を利かせているとはいえ、窓から差し込んでくる日差しはカーテン越しでも強烈で、真夏の直射日光を浴びるのは無論身体にはよくない。私はちょうど日陰になっている端の席に案内する。今は他の来客もないのでほとんど貸し切り状態だから問題は無い。


「いやぁ、どうも。毎年こう暑いとそのうち干物になっちまいそうですわ」

「熱中症とか日射病とか、気を付けてくださいね? 水分補給もそうですけど、風通しとか。あと、家に居るからって安心しちゃだめですよ?」

「いつもお気づかいありがとうねぇ。……そういえば、天気予報だと明日は雨だって言ってたんだけど……そうとは信じられないくらい今日は良いお天気よねぇ」


 眩い陽光、真っ青な空を彩る白い入道雲。

 窓の向こうに見える空は、正しく夏を題材とした一枚の絵画のような素晴らしい天気。

 大雨の話はラジオでも小耳に挟んでいたけど、この空を見ているとそんな予報は適当なホラ話にしか聞こえない。それぐらい、本日は晴天なり。

 ケーキとお茶とを振舞ってしばらくして、何処からか慌ただしい足音が聞こえてくる。


「たっだいまー!」


 バーン! とドアを弾く音とけたたましい足音はもはや恒例行事。

 真っ先にお店に入ってきたのが妹で、それから少し遅れてから男の子と女の子と一人ずつ、おずおずといった感じで入ってくる。


「お邪魔します、お姉さん」

「あぁ、いらっしゃい。紘人くんと……あら、歩ちゃんじゃない。久しぶり」

「お久しぶりです。あ、えっと、おじゃまします」


 何処かの誰かさんと同い年とは思えないほどに落ち着いた物腰の男の子は紘人くん。

 妹とは入学した時から席は隣同士、クラスも同じという奇遇なご縁の男の子。幼い顔立ちの上に線が細く、ちょっと落ち着きが過ぎていて、小さく結わえていた髪の所為も相まって初対面の時は女の子と勘違いしてしまったほど綺麗な子だ。

 そして歩ちゃんは、以前に夢を捕まえてほしいと相談された女の子。

 初めて会った時はもっとオドオドとしていたけど、あれ以来妹とも仲良くしてくれていて、今では時々お母さんと一緒にお店にも遊びに来てくれるお得意さん。

 つくづく、喫茶店とは人とのご縁あってこその場所だなぁと痛感する。


「二人ともゆっくりしていってね。チョコプリン作ってあるから、後で上に持って行くわ」

「チョコプリン! やったやった! 紘人くんも歩ちゃんも先に私の部屋行ってて!」

「うん、わかった」


 下駄箱に靴を仕舞うと、紘人くんと歩ちゃんの二人は上の階へと向かっていく。そして、何故か妹の視線が私の方に飛んでくる。私が首を傾ぐと、今度はその視線が例のトランクケースの方へと伸びた。


「……もしかして、鞄を開けるためにお友達を呼んだの?」

「今日学校で先生から聞いたんだよ! 三人寄ればもんじゃの知恵って! 紘人くん頭良いし、歩ちゃんも優しいから、もしかしたら何とかなると思う!」


 それを言うなら、『もんじゃ』の知恵じゃなくて『文殊』の知恵でしょうに。

 『文殊』って言うのはお釈迦様の隣にいる優れた知恵を持つ菩薩様で……まぁ、人数は合ってるし、何だか妹も得意げだからこれ以上言うのは野暮かも。

 ……頭の良さはともかく、優しさで鞄って開くのかしらね?

 言うが早いか、妹はトランクケースを両手で抱え、ガニ股で階段を上っていく。そんなシュールな後ろ姿は、少々滑稽であり思わず苦笑してしまう。


「いつも元気な妹さんですねぇ」

「いつも元気過ぎて困ってる……って、程ではないですけど、私としてはもう少し落ち着いて、宿題とかもちゃんとやってくれると嬉しいんですけどね」


 御覧の通り、妹は私と違って活発で明るくて好奇心旺盛。

 そして誰とでも――これは誇張でも何でもなく、平等かつ優しく接するタイプで、学校内外を問わず親しくしてくれる人が多い。

 今ご一緒してる老夫婦の方々も、このお店に遊びに来てくれるお客さんも、そして、時折見つけてくる精霊たちも。

 声が聞こえない、けれど、その姿は瞳に映る。

 言葉が通じなくとも、妹は友達と同じように接して、困っている様子と見れば躊躇いなく手を差し伸べていく。


「友達……か」


 今の私には、少し遠い言葉のように思える。

 友人。

 パッと頭の中で思い浮かべて数えようとすれば、片手間で数え終わってしまう程度の存在。

 そもそも私は妹と違って特別社交的というわけでもないし……


「あらあら、お姉さん。電話が鳴っていますよ」

「へ? あ……あぁ、すぐ出なきゃ」


 変なコトを考えていたせいで、おばあさんに言われるまで鳴り響く電話のベルの音に気付けなかった。

 慌てて電話へと駆け寄り、一拍置いて呼吸を整えてから受話器を掴む。

 その瞬間、ふわっ、と微かな雨水の匂いが鼻孔をつついた。


「……」


 受話器を掴んで固まる私を見て、老夫婦の二人が顔を見合わせる。


「……もしもし?」

「あ、せんぱーい! お久しぶりでっす。未雨でーす。覚えてますー?」

「やっぱり……」


 突然聞こえてきた、懐かしい声に、ずいぶんと懐かしい呼称。

 受話器を片手に、私は壁にもたれ掛かって窓の向こうを見やる。

 遠い、昔を思い出すように。


「いやぁ、今度お仕事の都合でそっちの近く通るもんで、ついでに顔出そうと思って電話してみたんですけどね。お元気してます?」

「えぇ、変わりないわよ。アンタも……こほん、あなたも元気そうね?」

「あぇ? んん……? はい、元気ですよ?」


 どこか違和感を覚えたらしい後輩の小さな唸り声が受話器越しに聞こえる。

 声も態度も、あまり変化がない。

 小憎たらしい猫目で私の後ろを良く付いてきた後輩の姿が頭の中に勝手に湧いてくる。

 そして、ふと、脳裏にあのトランクケースが過ぎった。

 彼女(、、)なら何か知っているかもしれない。


「……良いタイミングで電話してくれたわね。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……あなたなら何か知ってるんじゃないかしら? 確か、今は古物の行商人やってるのよね?」

「はーいー、そーですよ。そんで? 先輩が聞きたいことってなーんでしょ?」

「実はね……」

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