第3話
小夏さんから、不思議な声の聞こえる鞄を預かった一日目。
本日は水曜日。
私は普段通りに目を覚まし、朝食を作りながら予約用のケーキの下ごしらえを済ませ、寝ぼすけな妹を起こし、小夏さんの鞄を開けたいから学校休みたいという生意気を指で弾いてから、本日の営業を始める。
とはいえ、午前中から盛況という日は珍しいわけで、少々の暇が出来る度に私は件の鞄に視線を送っていた。私とて“声”の聞こえる鞄ともなれば興味が湧くのである。
そして肝心の“声”なのだけど……何故か、今はほとんど聞こえない。
試しに指で突っついてみてもこれといった反応は無し。
昨日聞こえた声は、実は私の気のせいだったんじゃないかと心配になるぐらいに音沙汰が無かった。
「たーだーいー、まあッ!」
バッシーン! と勢いよく開け放たれるドアの勢いに、相も変わらずベルの音色は完全敗北。
そんな怒涛の勢いを維持したまま、妹はランドセルをカウンターに放り投げ、一目散に洗面所へ走り、手洗いうがいを適当に済ませて例の鞄へとまっしぐら。他にお客さんがいたら大迷惑だと、私は眉根を寄せる。
「気持ちは分からないでもないけど、もう少し落ち着きなさいな。不思議な“声”こそ聞こえたけれど、別にこの鞄は逃げたりはしないでしょう?」
「そんなの分かんないじゃん! 急に足が生えて逃げ出すかもしれないし!」
それだと完全にホラーね。
「それに、開けるって小夏さんと約束したのは私だもん。だから私がやるの!」
「もう……変なところで責任感はあるのよねぇ……」
良いような……悪いような?
さて、その責任感を以てして、妹はこの開かずの鞄にどう立ち向かっていくのだろうか。
嬉々としながら鞄に向かう妹を、私はカウンターから頬杖をついて見守ってみる。
「それで? この開かずの鞄をどうやって開けるのかしら? 小夏さんも言ってたけど、高校で体育の先生をやっているような人でも開けられなかったのよ?」
「私がやったら開くかもしれないじゃん!」
昨日やって開かなかったでしょうに……と、言うよりも早く妹の手がトランクケースの取っ手を掴み、最初の時と同じようにラッチ錠に指を伸ばす。昨日壊れていたものが直してもいないのに直るわけもなく壊れたまま。それを再確認しつつ、妹は鞄に掴みかかり力を込めた。
「ふぅ……ん……ッ!」
小さな顔を真っ赤に染めながら、指先に込めた微弱な力でこじ開けようとするもトランクケースは一ミリも隙間を開けず微動だにしない。何度か繰り返して、その合間に息を整えつつ、もう一度気合を入れ直し再挑戦。爪を挟んでも、持ち方を変えてみても、ひっくり返しても、途中で手を洗ってやり直しても飲み物を飲んで英気を養っても、トランクケースは、やっぱりどうしても開かずじまいだった。
「……大丈夫?」
「全然……大丈夫……」
丸テーブルの上でひっくり返る行儀の悪さに目を瞑りつつ、妹だけにやらすのもどうかと思い立ち私も腰を上げる。いくら妹より年上とはいえ、私とて一般的な女性であるからして、恐らく単純な力だけでトランクケースを開くのは無理だろう。が、敢えて最初はシンプルに力だけを行使してみる。
「うッ……ん……くッ……ぅ」
人前じゃ恥ずかしくて出せないような声を漏らしつつも結果は変わらず。トランクケースの口は、まるで接着剤で固められているかのようにピクリとも動いてくれなかった。そのくせ、妹でも持ち上がるほどには軽い。本当に、何か中身が入っているのだろうか。
物は試しとトランクケースを振って見る。
かたん、かたん……
とても小さな物音が私の耳朶を打つ。
中身が鞄の中で動いてぶつかっている証拠だ。
「……何が入ってるのかしら」
「こーなったら、武力介入だ!」
歳に不相応な物騒な言葉と同時に、ガバッ、と跳ねるように起きたかと思えば、妹はカウンターの奥へと突っ走って行くと、何かを物色するような物音を立ててから戻ってきた。その手には箒と金槌とが握りしめられている。
興奮気味な妹を、私は素早く手で制す。
「ストップ。……まさかとは思うけど、叩いたら鞄が開くとでも思ってない?」
「私見たもん! 漫画とかアニメだと、叩いたら色々直るんだよ! だから鞄だって叩けば開くかも!」
「……あのねぇ」
それはテレビの話であって、鞄を叩いて直ったなどという話は漫画でもアニメでも聞いたことがないし見たこともない。しかし、妹の瞳には確固たる自信が無駄にメラメラと燃え上がっていて、私の言葉を素直に聞いてくれそうな様子は無い。開けるのに必死になって、色々と大事な思考が欠落してしまっているらしい。
「人様のモノなんだから、そんな乱暴にしちゃダメでしょう? 早く仕舞ってきなさい」
「ちょ、ちょっとなら大丈夫!」
「じゃあ、あなたの言う“ちょっと”って?」
「い……い、一回か二回!」
いくら多少手荒く扱っても構わないと小夏さんに言伝を貰っているとはいえ際どいライン。
両手に武器を構えた妹はじりじりと間合いを確かめるように私と一定の距離を開けつつ、頑なな意思を宿した瞳で上目遣いしてくる。
……きっかり、一分ほど睨み合ってから、私は溜息を吐いて折れた。
「いい? 本当に、一回か二回よ? それ以上叩いたら私も怒るわよ。いいわね?」
「うッ……う、うん……」
珍しく私自らが“怒る”というキーワードを出した所為か、妹の表情に曇りと緊張が同時に訪れる。その発言自体、私としても本意ではないにしろ、仮にもこの鞄は小夏さんの大事な物であり預かり物だ。彼女はこの鞄が開くことを願っているけど、それと壊してしまうことをイコールで繋げてしまうのは何とも粗暴だと私は思う。
少々きつめに窘められ、妹はそれまでの威勢が半減してしまったかのようにのろりのろりと鞄の前へすり寄るようにして歩いていく。そしていざ対面してみれば、ごくり、と音が聞こえるほど大きく唾を飲み込んだ。
「じゃ、じゃあ……や、やるよ?」
「……えぇ、どうぞ」
真横からの監視下、妹は握りしめていたまず最初に箒を持ち上げた。棒の部分をぎゅうっと握りしめ、振り上げ、毛先をトランクケースの側面に、ぼふん、と叩きつける。
・ ・ ・ ・ ・ ・
二人して黙りこくって数秒ほど。
箒に叩かれた鞄がプルプルと震えだし、壊れたラッチ錠はみるみるうちに修復され、そして独りでにガチャリと音を立てて鞄が開く――なあんてワケもなく。
奇妙な沈黙に片足を突っ込みつつ、私は冷静に告げる。
「……あと一回よ?」
「えう……あう……」
油の切れたくるみ割り人形のような動きで横を向き、足元に箒を置いて、そして今度は金槌を手にもう一度鞄と向き直る。ぎこちない動きの原因は私に見られながらだということもあるけど、本人のやりたいことと、実際にやったこととのギャップが生じている所為だと思われる。あの勢いのまま妹に許可を出したならば、きっと箒でも金槌でもドカスカと連打したに違いない。万が一、本当に壊れて使い物にならなくなってしまったらどう詫びたらいいのやら。
「……一回よ?」
「そ、そんな何回も言わなくてもわかってるもん」
妹は両手で、ぎゅっ、と金槌を握りしめ、緊張の面持ちのまま大きく振りかぶる。
先の箒のように躊躇しながら叩くのか。
それとも、思い切って勢いを付けて本気で叩くのか。
どちらを選ぶかによって、妹の晩御飯のおかずがひとつ減るかもしれない。
「……え、えぇえええい!!」
やぶれかぶれと叫び、妹は金槌の先端を全身全霊を以てして叩きつける。革張りのトランクケースの表面に、バコン! と衝撃がテーブルを揺らし激しい音が響く。シールの上から新しい凹みが出来あがり、私も妹も何を言うでもなくしばし沈黙し、ややあってから妹の首がゆっくりとこちらを向いてきた。
「……」
それで二回目も終わりよ?
というか、箒の時もそうだけど、金具の部分ならともかくどうして表面を狙ったの?
それと、今日の晩御飯のおかずがひとつ減りそうだけどどうする?
私は無言の視線に、言葉にすればそれだけの情報量と威圧感を滲ませてみた。
「……あ、開い…………た?」
「そんなワケないでしょう……」
叩いただけで鞄が開けば、小夏さんはとっくにこの鞄を開いていて、このお店に来ることも無かっただろう。念のためにと妹と二人で確認をしてみても、結果は言わずもがな。
変な緊張の所為か、妹は両手で金槌を抱いたままその場でぺたりと崩れてしまった。
「……む、むぅ……」
「今日はそれぐらいにしておきなさいな。まだ明日と明後日と、時間はあるでしょう?」
「えー、でも……うぅ……」
まだ何か出来る、何かやれるかもしれない。
相手が精霊かもしれないという好奇心も相まって、諦めの悪い妹の胸中でもやもやと不完全燃焼を起こしているのがよく見える。
「もう少ししたらお客さんも来るし、この鞄の続きはまた明日。いいわね?」
「……はぁーい」
不承不承とこっくり頷き、妹はランドセルを拾い上げて二階へと向かっていった。晩御飯の時間になればケロッとした顔で戻ってくるだろう。
「さてと、鞄を片付けないと……」
クックック……プフ……ッ
不意に、あの声がハッキリと私の耳朶を打ち、ハッとなって視線をトランクケースへと走らせる。
私は目を見開いて、その場で固まってしまった。
「……嘘」
ほんの少し目を離した隙に、トランクケースに出来上がったばかりの凹みは、まるで何事も無かったかのように綺麗さっぱり直っていた。