第2話
夕明かりが斜めに差し込むお店の中。
小夏さんは、私たちに絵本を読み聞かせるような優しい口調で、トランクケースにまつわる昔話をしてくれた。
最初は、持ち主である旦那さんとの馴れ初め。
親しい間柄になったかと思えば戦争に赴いて、そして幸運に恵まれ無事に帰ってきてくれて、雪の降る季節に挙式。
旦那さんには少々難儀な放浪癖があり、趣味は無計画の海外旅行。
性格は人一倍優しい癖に変なところで頑固で、滅多に人前で笑わない、今際の際まで仏頂面だったということ。
それでも、とても楽しそうに語る小夏さんの横顔に悲哀の色は薄く、過ぎ去った思い出一つ一つを決して忘れず、大切にしているということが津々と伝わってくる。
「……それでね、終戦を迎えて情勢がひと段落して、海外旅行が自由に出来るようになった頃から、あの人は趣味で国外に出かける事が多くなったの。軍人として国外に出たら他の国も見たくなった、なんて呑気な理由でね。
そんな折、この“鞄”を持ち帰ってきたのよ。
自分用の旅行鞄を持って出かけたのに、帰ってきたらもう一つ鞄を抱えてたの。
その時はちょっと可笑しなお話ね、なんて笑ってたのだけど、何故か旦那さんはそれきり海外旅行に行かなくなったのよ」
そんな年季の入ったトランクケースの表面は、色あせた異国の文字がプリントされたシールが貼り付いていたり、所々凹みやキズだらけになっている。今の話を聞く限り、旦那さんが使い古して出来あがったモノではなく最初から付いていたモノらしい。
「旦那さんはこの鞄をとても大事に……うぅん、大事なんてものじゃないわ。それこそ“厳重”に扱うようになったのよ。家の中なのに肌身離さず持ち歩くし、中に何が入ってるのかと尋ねても、私にだって、息子や孫にだって誰一人決して教えてくれなかったの。
……そんな不思議な鞄を残して亡くなったものだから、葬儀の時にちょっとした騒ぎになったのよ。鞄の中には遺産に関わる何か重要な物が入ってるんじゃないか~ってね」
「……遺産?」
予想以上に、なかなか穏やかな話じゃなくなってきた。
と、私が眉間にしわを寄せていると小夏さんに「そんな物騒な話にはなりませんでしたよ」と笑われてしまった。
「ご心配なく。あの人の遺産はちゃんと平等に分配されたので。
だけど、それがハッキリするまではこの開かない鞄に何かあるんじゃないかって色んな人が開けようとしたのよ。身内に、高校で体育教師をやってる人がいたのだけれど、顔を真っ赤にするだけで全然ダメだったわ」
クスクス…………クックック……
まただ、あの声が聞こえてくる。
しかし妹と小夏さんの耳に届いた様子は無い。
妹は足をパタパタさせながら、小夏さんと親しい友達のような距離間で話を続けている。
「え、じゃあ、小夏さんは何が入ってるのかわからないのに持ってるの?」
「えぇ。遺産相続が終わった後、みんなはこの鞄から興味を失せてしまったけど、私は今でも中身が気になりますもの。大事な人が残した、大事な何か。この目で見たいでしょう?」
「……見たい!」
「まぁ、今日の今日まで私も色々試してみましたけど、結局開けられそうにないのよねぇ……」
「うーん……」
ちらり、ちらり。
ふと、妹が意味あり気な視線をこちらに放ってくる。
その顔は、それはもう何か企んでいますよと全力でアピールしていて、私にその許可を求めている表情だった。
肩をすくめて、私は頷いた。
「じゃあじゃあ、私が鞄を開けたげる!」
「まあ」
小夏さんはけらけらと愉快に笑い、そして私は驚いて開いた口を塞げなかった。
「ちょっと、今の小夏さんのお話聞いてたの? 他のどんな人でも開けられなかった鞄を、あなたが開けられるわけないでしょう?」
「でも、でもでもさ! 私とお姉ちゃんがやったら、開くかも知れないじゃん!」
これまた堂々と巻き込んでくれた。
妹の向う見ずな姿勢に少々呆れつつ、しかし、私としてもこのトランクケースに興味があることは事実。
とはいえ、色んな人が挑戦して開けられなかった代物である。
私たちで何が出来るというのだろうか。
「じゃあ、こういうのはどうでしょう」
間に割って入ってきた小夏さんは人差し指を立て、私たちにこんな申し出をしてきた。
「私、もう少ししたら飛行機で実家の方に帰りますの。だから、それまでの三日間、この鞄をあなた達に預かってもらうというのは?」
「それは……でも、いいんですか? 大切な物じゃ……」
「えぇ、普通の人相手になら決してお貸ししませんが……今日少し話して見て、十分信用に足る人たちだと分かりましたので。
まぁ……一種の賭けみたいなものですよ。
開いてくれればそれで良し、開かなければ、それはそれで諦めがつくというものです」
小夏さんのやや不穏な言い回しに、私は一瞬だけ躊躇しかけたが、妹はその言葉を受け取り満面の笑みを浮かべて答えた。
「わかった! 絶対絶対開けたげる! 楽しみにしてて!」
「ふふッ、本当に元気で優しい妹さんね。それじゃあ楽しみにしてるわ」
そう言うと、小夏さんはグラスに残っていたミントティーを綺麗に飲み干しゆっくりと立ち上がる。
お勘定と、それからお店の電話番号とを聞かれ、今回は私の個人的なサービスだからと料金は頂かず、電話番号は素早くメモして小夏さんに手渡した。
「預けている間、この鞄は多少手荒に扱ってくださっても結構ですので。
……では、またここに来る時には連絡をしますから」
「まかせてよ!」
どーんと胸を張る妹に小夏さんは手を振ってから行ってしまった。
私たちの他に誰もいなくなったお店の中に、ドアベルの音色が響いて消えていく。
「……それで? 妹には何か妙案があるのかしら? まさか鞄を開ける“おまじない”だなんて言い出さないわよね?」
「それよりさ、お姉ちゃん! ひとつ聞いてもいい?」
「何? いいわよ」
新しい玩具に心奪われたような――いや、新しい友達との出会いに幸福感を抱いているような、今日の夕焼けより眩しい笑みを浮かべる妹に、私は微笑を以て頷く。
「さっきからお姉ちゃん、時々不思議な顔してた。もしかして何か“声”が聞こえたの? この鞄は、もしかして精霊さん?」
気づかれていたらしく、妹の鋭い指摘に私は少々面食らう。
相変わらず、色々とよく見ている子だ。
「……えぇ、その通りよ。“声”が聞こえていたわ。この鞄か、もしくは中に……“精霊”さんがいるようね?」
私のその言葉に、妹は嬉々として飛び跳ねる。
テーブルの上に置かれたトランクケースからは、からかうような、それはまるで「開けられるものなら開けてみな?」と私たちを挑発するような笑い声が今も微かに聞こえていた。