第1話
「ご来店、ありがとうございました」
本日最後のお客様を軒先まで見送ると、私は玄関に引っかかっていた看板を「open」から「closed」へとひっくり返す。
今日も一日、お疲れさまでした。そんな気持ちを込めながら。
一度、うーん、と大きく伸びをして軽く身体をほぐしてから、私は用意しておいた掃除用具を手に取り掃除を始める。
暦も既に七月半ば。
四方八方の瑞々しい木々から聞こえてくるやかましい蝉の声も相まって季節はすっかり夏模様。
陽の落ちる時間もずいぶん遅くなって、西に落ちていく夕焼けは色濃い黄金色のまま、未だ眩しく強烈で、軽く箒で掃いているだけなのに額から汗が流れて落ちてくる。
「……夕飯は素麺にしようかなぁ」
戸棚と冷蔵庫の中身を頭の中で思い描きながら通りに面した窓を拭き、後はお店の中を――と、思ったところで、綺麗に磨き上がった窓ガラスにおばあさんの姿が映り込んで、ふと私は振り返る。
おばあさんは落ち着いた紫色の和服を着ていて、お店の正面に伸びる緩やかな坂道を静かに歩いていた。左手には白い日傘を、そして右手にはやや大きめのトランクケースを持っている。この先は自然公園と小さな霊園があるから、散歩か、もしくはお墓参りの帰り道といったところだろうか。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
歩みこそゆっくりだけど、淀みなく背筋を伸ばして歩いている様はまるで桔梗の花のように凛々しい。
しかし私は、失礼ながらおばあさんの出で立ちよりも、手にしているトランクケースの方に強く惹かれていた。
トランクケースというのものは、専ら旅行鞄として用いられているものだから、当然だけど大きくてたくさん物が入るようになっている。
とはいえ、こんな暑い日におばあさんがたった一人で旅行しているとは思えないし、かと言えば散歩に持ち込むような物でもないはず。
端的に言ってしまえば、アンバランスだ。
「……? こんにちは」
無意識のうちに熱の入った視線を送っていたせいか、おばあさんの視線が上がり私の視線とぶつかる。向こうから挨拶をしてくれたのだけれど、凝視していた私としては何となく気まずく、そして若干申し訳ないような気持ちになってしまって慌てて会釈を返す。おばあさんも会釈と、それから朗らかな笑顔を返してくれた。
「こ、こんにちは。……あの、よかったら……どうでしょうか?」
自分でもやや不躾なお誘い方だと思ったけど、おばあさんは朗らかな笑みを崩さず、小さく頷いてくれた。
※
玄関を開けると同時、私お気に入りのドアベルが頭上で響く。
それと同時に、キッチンの方から、トトトトンッ、と軽快な足音が聞こえたかと思えば、私のエプロンを付けた妹がにぱっとした笑顔で出迎え、かと思えば「あッ!」と言う間に表情をころりと変化させる。
「えッ、わ、えっと……いらっしゃい、ませ?」
「まぁ可愛らしい店員さんね。あなたの……?」
「はい、妹です。それじゃ席は……そうですね、こちらへどうぞ」
ちょうど店仕舞いを終えたばかりで、まだお皿が残ってしまっている席もある。
恥を忍びつつ、私は一番手前側で、かつ比較的綺麗なテーブルへとご案内する。妹は十秒ほどその場であたふたしてから、まるで私の懸念を読み取ってくれたかのように、いそいそと他のテーブルの食器を片付け始めてくれた。偉いぞ、妹。
「今、お茶を出しますから」
あくまで誘ったのは私であり、ここでおばあさんから“注文”を取るという行動は相応しくないと判断。私はカウンターの奥へと向かい、夏にピッタリのミントティーを準備する。
さて、一般に『ミント』と聞くと人はまず最初に想像するのは板ガムの味だろうか。
一口に『ミント』といっても様々あり、それぞれに共通しているのは、恐らくガムのパッケージなどで一度は目にするであろう『メントール』という成分。
これは一種のアルコール成分であり、皮膚に触れればスーッとした冷感を引き起こし、筋肉痛や捻挫を緩和したり、喉の痛みなどを軽減する効果もある。日本でも大昔から存在が認知されている歴史の深いものであり、漢方薬、健康食品として用途の幅広い代物だ。
私が今千切っているのは、数あるミントの中でもオーソドックス、かつメントールの刺激が比較的少ないアップルミントと呼ばれているもの。丈夫で厳しい寒さも耐え抜ける、誰でも気軽に育てる事の出来るハーブの一種であり、その名の通り、葉からはメントールとリンゴの甘酸っぱい香りが混ざりあったような爽やかな風味が楽しめる一品。
千切り終えたミントの葉をティーポットに入れ、あらかじめ沸かしておいた熱湯を少々注ぐ。やや濃い目に出来上がったミントティーを、氷を多めに注いだグラスの中へゆっくりと注いでかき混ぜれば完成。暮れ時とはいえまだ日差しも強い。ここはやっぱりアイスティーにするのが妥当だろう。
「お待たせしました」
「まぁありがとう。……うぅん、いい香り。でも私、ミントティーを飲むの初めてなの」
「大丈夫ですよ。アップルミントのお茶は刺激も少なくて、何方でも飲みやすいと思います」
遠慮がちにはにかみつつ、おばあさんは私が作ったミントティーに口を付ける。小さく喉を鳴らし、小さく息を吐き、そしてうっとりとした様子で「美味しい」と言ってくれた。今、私はきっといい笑顔をしているに違いない。
「本当に、飲み口がさっぱりしてて……しかも上品で、とても美味しいわ」
「ありがとうございます」
ちなみに、メントールの刺激が強いペパーミントなどでミントティーを作ると、それはそれは強烈な味がするので、ミントが苦手な人は私の作ったアップルミントか、もしくはスペアミントのミントティーから挑戦することをお勧めします。刺激が強ければ強いほど二日酔いには効くけど、決してお子様向けの味はいたしません。
それからは、取り留めもない世間話。
何て事の無い今日の天気の話、世間様のニュースの話、それから、片づけを終えた妹が顔を出してきたので、簡単な自己紹介を交えつつ三人でクッキーを囲みながらごく小さな談笑を広げる。
「ねぇねぇ、小夏さん! ひとつ聞いてもいーい?」
「えぇ、いいですよ」
小夏と名乗ってくれたおばあさんは、威勢の良い妹に、まるで孫娘に接するような柔らかな表情で返してくれた。快諾を得た妹はぴょんぴょんと跳ねながら、小夏さんの持っていたトランクケースを指差した。
「それ! その、おっきいかばん! 何が入ってるの?」
「ふふふ、何かしらねぇ。よかったら開けてみて頂戴な」
「いーの? がってん!」
まーた知らない間におかしな言葉使いを覚えていらっしゃる。
妹が小夏さんの足元に置いてあったトランクケースを「よっこいしょ!」と元気良く引っ張りだし、そのままの勢いで隣のテーブルの上に置く。人様の物だから乱暴に扱うなと私が叱った後、妹はまるで誕生日プレゼントの包装紙を破るような勢いで錠前を摘まんだ。
ふと、妹は首を傾ぐ。
何事かと横から覗いてみると、鍵は掛かっていない……というより、ラッチ錠の金具がひしゃげて使い物にならなくなっている。ということは、つまり、今は鍵が開いている状態という事。
「……れ? ん? んん?? ふん! ……んにゅう!?」
既に鍵が開いている鞄を開けられない道理は無いはず。
それなのに、何故か妹はトランクケースに掴みかかったまま唸り声をあげたり、叫んだり、顔を真っ赤にして踏ん張ってみたり、挙句は肩で息をしながらギブアップしてしまった。
「ちょっと、どうしたの……?」
クスクス……クックク、クスクス……
妹の身体に手を伸ばしたその時だった。
不意に、誰かの笑い声が私の耳に届いた。
その声は小さな男の子の声で、軽やかな悪意と侮辱の混じったようなその笑い声は、鞄を開けられなかった妹を嘲笑うような調子だった。
目だけを動かして周囲を見回すが、小夏さんがそれっぽく笑ったワケもなく、もちろん私たち以外の人間はお店にいない。
「小夏さぁん……このかばん、開かないよ……壊れてるんじゃないのぉ?」
「そうねぇ……もしかしたら、もう壊れてしまっているのかも知れないわね。でも、とっても大事な鞄なの」
「開かないのに、とっても大事……?」
「ふふ、そうね。素敵なお茶のお礼にひとつお話しましょうか」
小夏さんは微笑む。
テーブルの上に乗せられたトランクケースを指でなぞりながら、口を開いた。
「この鞄はね、私の旦那さんの遺品なの」