9
赤い柩の表面が、僕の血がこぼれた箇所を中心に波打った。
まるで、水の上で波紋を広げるように。
その瞬間、赤い柩が形を変えた。
氷が溶けだし、縫い合わされていた糸の全てが解けていくように――――その隙間からは、眩すぎる黄金の光がこぼれだし、部屋の中を“暁”に変える。
渦を巻くように溢れ出した膨大な光の洪水――――
「何だこれ…………おい、セミラどうなってるんだ?」
「わからないにゃ。猫はコタツで丸くなるにゃ――――――――――――――――――」
セミラは光に怯えたようにベッドの下に逃げ込んでしまった。
肝心な時に、ご主人様を盾にして逃げ出す癖がある相棒だった。
「おいおい。なんだか…………ヤバそうだぞ」
「にゃにゃにゃ?」
一瞬、太陽が空に上ったような輝きを齎した後、直ぐに光は消え去った。
そして、その光の中心だった場所には――――
「……………………?」
曰く――――――――――――――――――――小さな女の子だった。
「いったい――――――――――――――――――これは、何んなんだ?」
先ほどまで赤い柩だったそれは――――
長い、長すぎる金色の髪の毛をもった、小さな少女へと変わてしまった。
少女は赤い布の上に横たわり、静かに瞳を閉じている――――その姿は、羽を失った天使のようにも、祭壇に捧げられた供物のようにも見えた。
少女は生まれたままの姿で、白く透き通る大理石のような肌を惜しげもなく晒していて、そしてずいぶんと華奢な体つきをしていた。背丈は人型のセミラと変わらないぐらいだが、発育は著しく良くなく、発展途上未満といった感じだった。
「ヨハン、いつまで助平にゃ目つきで眺めている気にゃ」
「―――――――――――――、ちっ、ちがっ」
ベッドの下から現れたセミラに言われて、僕はびくりと体を震わせた。
完全に見入っていた。
いや、見入ってしまうほどに、眠りにつく少女の姿が完成されていた。まるで一枚の絵画を眺めているようだった。神の手と黄金律をもちいて創られた彫刻のように、完璧な少女だと思った。
「…………とっ、とにかく……何か羽織るものでも探さなきゃ。こっ、これでいいか?」
僕は自分が纏っていた黒の制服を少女の上にかぶせた。
「ゴホン、さて、仕切り直して――――この女の子はいったい何だ?」
僕は喉を鳴らして、赤い衣の上に横たわる少女を見つめた。
「――――んっ、ううん?」
すると、少女が小さく体を揺らして、長い睫毛に縁取られた瞼をゆっくりと開いた。
――――――――赤い双眸だった。
その“あか”は、“赤”でもなく、“紅”でもなく、“朱”でもなく、“灼”でもなく、 “赫”でもない。熟れた林檎よりも、なお赤く、咲いた薔薇の花よりも、なお紅く、西に傾く太陽よりも、なお朱く、燃え盛る炎よりも、なお灼く、流れ出る血よりも、なお赫い――――
人の想像の中にしか存在しない原初の赤色のように、その赤は到底人には創り出すことのできない赤をしていた。
「ここは、いったい? あなたは――――」
金髪赤眼の少女が静かに尋ねる。
少女はゆっくりと起き上がり、僕を真っ直ぐに見つめる。
まるで初めて世界に触れるように、雛鳥が親鳥を認識するように。
「ええっと…………僕は、その、何から説明すればいいのかな?」
僕は咄嗟のことで慌てていた。
まさか、箱の中から女の子が出てくるとは思っていなかったから、当然だ。
竹を切ったら女の子が出てくる、そんな話を思い出した。
「ここは、ずいぶんと神秘が濃い場所ですね。しかし土地には歪みを感じます」
少女は首を傾げながら不思議そうに部屋の中を見渡した。
そんな仕草の一つが、とても可愛らしかった。
「ええと…………たぶん魔術世界だからかな? 土地全体に色々な結界が張ってあるって言うし、この尞全体にも、何かの結界が張ってあるって言っていたような気が…………」
「…………結界? いえ、あなた自身にも歪みを感じます。よくないものが憑いているような」
少女はあどけない表情のまま身を乗り出して、僕の右目を赤い瞳でじいっと覗き込んだ。
その時、僕は自分が何を見ているのか―――――まるで分からなかった。
――――――――――――ナンダコレハ? ナンダコレハ? ナンダコレハ?
「ぐうああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
僕の右目――――<ベリアルの魔眼>が、突然爆ぜたように痛みだした。
僕は床に倒れ込んでのた打ち回った。
僕の苦悶を聞いてセミラがベッドの下から現れたが、それよりも早く動いたのは、今目覚めたばかりの金髪の少女だった。
「いけません――――」
少女は、素早く僕を引き寄せて太腿の上に乗せると、そのまま僕の暴走する右目を覗き込んだ。爆ぜたような熱を持ち、繰りぬかれたような痛みを起こす僕の右目から、大量の血が零れ続けているのが、かろうじてわかった。
「じっとしていてください。痛みは直ぐに治まります。恐怖は静かに癒いていきます。だいじょうぶ。安心して私に身を委ねてください。聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉―――――――」
金髪の少女は“聖詠”を呟きながら、膝に乗せた僕の顔に自らの顔を近づける。
少女の長い髪の毛がこぼれ、僕は黄金の稲穂の中にいるみたいだった。
なぜか、ものすごい安心感を覚えていた。
そして、この世のものとは思えない赤の瞳が近づき――――
その赤い瞳と同じ、赤色の小さな唇が、僕の右目に当てられた。
「――――――――ナンダ、コレ?」
その瞬間、全ての痛みは、そして恐怖は――――波が引くように消えて行った。
不思議な温かさ―――――安息とも言っていい温もりに包まれた僕は、そのまま真っ白で静かな世界に消えて行った。
まるで揺り籠に揺られ、母親に子守唄を聞かされたように。
――――つまるところ、気を失った。