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「セミラ、ただいま」
「ヨハン、どうしたにゃ?」
ボロボロの状態で尞の部屋に帰宅すると、驚いたセミラが慌てて近寄ってきた。
四畳半程度の手狭な尞の一室は、閑散としていた。備え付けのベッドにクローゼット、段ボールを裏返したテーブルと、申し訳程度の食器類、読み終わった週刊漫画雑誌、脱ぎっぱなしの衣類が散らばっていた。
「こんにゃにボロボロににゃって…………それに怪我もしてるにゃ。にゃにがあったにゃ? さっきまでセミラとの“回廊”が切れていたから心配してたにゃ」
「ちょっと頭のおかしな女に絡まれてさ。まぁ、新手の“新入生歓迎会”みたいなものだよ。それより…………どうして“人型”になっているんだよ」
「猫の体は窮屈にゃ」
セミラは寝転がっていたベッドの上から、するりと四足歩行で這い寄る。
人の姿のセミラは、紫がかった長い銀髪に、紫水晶の双眸、白い艶やかな肌をしていて、どこからどう見ても“人間”と変わらない。猫の面影を残す“猫耳”と“尻尾”は隠すこともできるらしいが、面倒くさいからという理由で隠していない。身長はかなり小柄で、小学生程の体躯ではあるが、なぜか無性に発育が良い。率直に言って胸が大きい。
「ヨハンに、セミラとコトノ以外のおんにゃの匂いがついてるにゃ。この匂いのおんにゃが、ヨハンをこんにゃめに。こにょ、こにょ――――よくもやってくれたにゃ」
セミラが僕にすり寄ったまま、くんくんと体中の匂いを嗅ぐ――――
セミラは猫だからなのか衣類を纏うという習慣がなく、僕と出会った最初の頃は、よく真っ裸でそこらへんをうろちょろしていた。しかし僕の調教の甲斐あってか、今ではワイシャツを一枚着るようになっていた。つまり、裸ワイシャツである。
セミラは、僕の両親が残した唯一の遺産であり、形見のような<使い魔>である。しかし、当のセミラには僕の両親の記憶どころか、僕と出会う以前の記憶すらない。<魔術省>の宝物庫に閉じ込められていたのを、僕が外の世界に出る際に引き取ったのだ――――
「ヨハンは相変わらずの“にょにゃんのそう”が憑いてるにゃ」
「“女難の相”ね。確かに言えてるよ」
僕は両親の形見であるセミラの姿を眺めて言った。
「早く裸になってベッドに横になるにゃ。セミラが治療するにゃ」
立ち上がったセミラが、鼻先をくいくいと僕の胸のあたりに当てて、ベッドを指した。僕は言われるままにボクサーパンツ一枚になって、ベッドに横になった。
「セミラ、頼むから猫の姿になってくれ。僕の危険な衝動が抑えられそうにない」
裸ワイシャツのまま僕に馬乗りになろうとするセミラに、僕は不本意ながらそう言った。
「しょうがにゃいにゃ」
セミラは仕方なさそうに言って、猫の姿に戻る――――紫の光に包まれて縮んでいくと、愛くるしく賢そうな手のひらサイズの“黒猫”になった。
「それじゃあ、はじめるにゃ」
「ああ、たのむよ」
セミラが、僕の傷痕を小さな舌でぺろぺろと舐めだした。この行為は、セミラの“魔力”で僕の傷の治りを早くしているらしい。くすぐったく、こそばゆくもあるが、なかなか気持ちが良い行為でもある。しかし、相変わらず変態的である。
「そう言えば…………セミラって僕の魔力で活動してるのか?」
「にゃんでにゃ?」
「今日、少しだけ聞いたんだ。“使い魔”を使役する魔術って」
「セミラは意思のある自律型の“使い魔”にゃから、ヨハンの魔力はあまり必要にゃいにゃ」
「…………そうなのか」
「一般的な“使い魔”は、“動物”とか“魔術生物”に自分の魔力を与えて操作する場合が多いにゃ。でも、セミラは意思があって、自律自活できるから必要にゃいんだにゃ。でもでも、ヨハンがたくさんの魔力をセミラにくれたら、もっとすごいことができるにゃ」
「そうなのか? すごいことって、どんなことができるんだ」
「勇気百倍、百万パワーにゃ」
「……………………」
セミラが体の治療を終えて首元まで上ってきたので、僕は眼帯を外して右目を開いた。
「ぐううう」
その瞬間、右目に杭を突き刺したような猛烈な痛みが襲い掛かり、再び血が流れ出した。
「ヨハン、ひどいにゃ。もしかして、右目を使ったのかにゃ?」
セミラが僕の右目に寄って、責めるように僕の頬を肉球でぺちぺちと叩く。
「…………いや、少し右目で視ただけだよ。詠唱もしてないし、力自体は使ってない」
「無茶ばかりしすぎにゃ。昨夜、魔眼を使ったばかりにゃ。一週間ぐらいは、眼帯を外したらダメにゃ。セミラとの約束にゃ」
「ああ約束するよ」
「本当にゃ?」
「ああ、本当だ」
セミラは僕の目から流れる血を、まるでミルクにありついた子猫のようにぺろぺろと舐めていく。
「なぁ、僕の血っておいしいのか?」
「おいしいにゃ。契約を結んだ使い魔にとって、ご主人様の魔力は最高のご褒美にゃ。ヨハンは魔力の量が極端にすくにゃいから、セミラはヨハンの魔力にはありつけにゃいにゃ。でも、ヨハンの血にはヨハンの魔力がちゃんと宿っているから、セミラにはご褒美にゃんだにゃ」
「そうか、不甲斐無いご主人様でごめんな」
僕は、猫に右目から流れる血を舐められるという、情けなくもシュールな姿のまま謝罪した。
そう言えば、コトノさんも今日の授業で魔術師の血には魔力が宿るって言っていたな。あと、精液にも……………………と、いうことは、僕の精液をセミラに――――
「――――ハッ? 何を考えてるんだ…………僕はッ――――」
僕は自分のとんでもない発想に頭を大きく振るった。いくらなんでも、猫の使い魔に、そして人間の姿になったとはいえ、小学生のような体躯のセミラに――――僕のバカやろう。
「ヨハン、どうしたにゃ? 顔が真っ赤にゃ」
「なっ、何でもないよ。それより…………僕の右目はどうだ?」
「かにゃり悪魔に侵されいるにゃ。壊死したみたいに白濁とした眼球のにゃかに、どす黒く渦を巻いたにゃにかが浮かんでいるにゃ。キモいにゃ」
「…………キモいか。しばらくは誰にもみせられそうにもないな」
琴乃さん曰く、僕の右目は悪魔の部分召喚という項目にあたるらしく、つまるところ僕の右目だけが悪魔ということになるらしい。
僕は、正確には“悪魔憑き”と言われる類の“異端者”だ――――
さらに正確には、悪魔が憑いているのではなく、僕の右目の奥に悪魔の目が重なっている状態だということだが、僕にはそのことを上手く理解する頭脳は持ち合わせていなかった。今は限定的に悪魔の目を、僕の右目に留めてはいるが、悪魔のような高次の存在をいつまでも定着させておく術はなく、いつこの右目――――<ベリアルの魔眼>が、暴走をしてもおかしくはない状態らしいと、説明を受けていた。
まぁ、右目に極大の“爆弾”を抱えたまま生活をしているようなものだろう。
「爆弾といえば…………セミラ、昨夜回収したあれは、どうだ?」
「とくににゃんともにゃいし、うんともすんともいわにゃかったにゃ」
僕は思い出したように言って立ち上がった。
すると、僕の肩のあたりに乗っていたセミラがベッドの上を転がった。
「うにゃ?」
僕はクローゼットの中から、昨夜回収した“赤い長方形の物体”を取り出して、床に置いた。
「…………いったい、これは何だろうな?」
「わからにゃいにゃ。ひっかいても、かみついても、魔力を流しても、にゃんともにゃいにゃ」
セミラが“赤い筐体”の上に飛び乗って猫パンチを加えた。
昨夜、<異端指定>を受けた魔術師たちがこの<庭都>に持ち込んだ、“赤い長方形の物体”――――まるで“赤い柩”のようなそれは、セミラの言った通り、蹴っても、叩いても、刃物で切り付けても、バールで殴っても、一切の傷を与えることもできず、ダイヤモンドでできたような頑丈さを誇っていた。僕のなけなしの魔力を流しても見てもダメだったことから、この赤い柩のようなそれは、完全に“封印”されているみたいだった。
「…………うーん、ここまで持ってきたはいいものの……どうすれば? “封印解除”の魔術なんて、僕には使えないしな。そもそも、これは魔術的な何かなのか?」
「さぁ、わからにゃいにゃ? でも、これがバレたらたいへんにゃことににゃらにゃいかにゃ?」
「…………なるだろうね。良くて僕は“幽閉生活”に逆戻り。これを<魔術省>への重大な叛逆と見なされれば、最悪“処刑”だよ。まぁ、今から報告しても同じことだから、僕はこの右目に続いて二つ目の爆弾を抱え込んだことになるけど…………後悔しても仕方ない」
「…………ヨハン、好奇心は猫を殺すにゃ」
セミラが不平を漏らすように言った。
僕は、聞こえなかったふりをして“赤い柩”の表面を撫で、その艶やかで鏡のような表面に自らの顔を顔を映しこんだ。
紅玉の原石で拵えたような美しい柩――――
そこに映る僕の顔は、幼かった。怯えた少女のように。
「うーん、もう少し覇気がある顔というか、勇ましければいいんだけどな?」
そうボヤキながら、赤い柩の表面に映る僕の顔を眺め続けていると、眼帯を着け忘れた右目がじくと疼き、赤い血が一滴こぼれた。
赤い柩の上にこぼれた僕の血は、“赤”と“赤”が交わって溶け込んだように消えていった。
「――――なんだ?」