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 目を覚ました時、“七日間”が過ぎていた。


<メイザースの魔術儀礼>が失敗に終わり、幕を閉じた夜から七日間が過ぎていた――――どうやら今だに舞台ステージの上に立っているのは、僕だけのようだった。あるいは、幕の下りた舞台ステージを観客席から眺めている最後の観客――――そんな感じだろうか。


 そこで演じられたオペラ幻影おもかげを探すように。

 目を覚ましたのは、龍驤琴乃が所有する“邸宅”の天蓋付きベッドの上だった。

 

 広々とした洋室の中――――ずらりと並んだ洋服や、つくりかけの衣装、布、リボン、ボタン、ビーズ、裁縫道具などが好き勝手に散らばっていて“衣装部屋”のようだったが、ここが龍驤琴乃の“寝室”であることを僕は知っていた。


 僕が一週間掃除しなかっただけでこれだ。


「おはよう、ヨハン君―――――」

 

 館の主である龍驤琴乃は、僕がこの時間に目を覚ますことを予期していたかのように、ベッドの傍の安楽椅子サイドチェアに寄り添っていた。


「ずいぶん遅いお目覚めだけど、一先ず、おはよう。そして、おかえりなさい」


「はい。ただいまです。あと…………おはようございます」

 

 ひどく実感も現実感もない言葉だった。


「いろいろ後始末に追われていたから、静かに眠っていてくれて助かったっていうのが本音だけど、まぁ七日間もあれば世界を創ることだってできるし、大抵のことは済ませられるものよね」

 

 複雑めいた色彩を表情に浮かべて、黒い着物のようなガウンを羽織っただけの龍驤琴乃は、そう告げた。その手には創りかけの編み物が握られていた。


 カレンダーの日付は、四月三十日になっていた。

四月最後の一日だった。


「ヨハン、目が覚めたにゃー。セミラ、ヨハンは目を覚ますって信じてたにゃ。待ってたにゃ」

 

 その後で、僕の毛布の中から飛び出した小さな黒猫――――相棒のセミラが、紫水晶アメジストの双眸から涙の雨を降らせて、僕の体を舐めまわした。

 

 目を覚ました僕の体は、ほぼ無傷の状態だった。


 体中に手酷く刻まれていた傷痕や怪我は、漂白でもしたかのように綺麗さっぱりと消え去り、粉々に砕けたはずの左腕も、まるで新しい部品パーツと取り替えたかのように完治していた。

 

 そして、もちろん変わらずに僕の右目――――<ベリアルの魔眼>も、そのまま存在している。

 こいつとは、まだまだ長い付き合いになりそうだった。

 

 ただ、悪魔と契約を交わした“代償”なのか、それとも新しい“呪い”なのか――――


 僕の右目は赤い宝石(ルビー)を埋め込んだように、常時“赤”に染まったままで、“黒”かった頭髪は灰を被ったように“真っ白”だった。まるで頭髪だけが何十年の歳月を旅して、“老人”にでもなってしまったようだった。


 だんだん僕の容姿がめちゃくちゃになっていくことについて、僕は不安を禁じ得なかったが、とにかく、僕は無事に生きながらえた――――


 まぁ、死に損なったとも言えるだろう。

 

 だから、ここからは――――このくそ下らない“三問芝居オペラ”の、さらにくそ下らない“エピローグ”ってことになるのかもしれない。


“悲劇”と分かっている物語のエピローグほど、陰惨なものはなく、ページを閉じたくなるようなものもないと思うが――――それでも、僕は最後までこの悲劇と向き合わなければならなのだろう。

 

 もう、逃げることは許されない―――――

 僕は、マリアティアに生命いのちを救われたのだから。

 

 結論的なことを先に言ってしまうと、今回の件――――


<メイザースの魔術儀礼>に関する僕の御咎めは、なしということだった。


<異端審問会>に異端者や反乱者として“処刑”されるようなことも、再び“牢獄スリーピー・ホロウ”に“幽閉”され直すようなこともなく、メイザース側の復讐や報復もない。

 

 そして、このまま普段通りに<庭都魔術学園>に通うことも許された。

 

 そんな普段通りの生活を確約し――――龍驤琴乃のもとで<異端審問会>の<執行者>として活動し、<庭都魔術学園>の生徒として過ごすことができるように手を回し、計らってくれたのは、意外な人物だった。


「――――――――――――――――“オーギュスト・バアル・メイザース卿”?」

 

 その意外過ぎる人物の名前を聞いた時、僕は思わず上ずった声で聞き返してしまった。

 

 メイザース家の当主であり、この魔術都市で<魔術儀礼>を行ったガラアーベント・メイザースの師父だったのだから、僕が驚くのも無理はないだろう。


「まぁ、ヨハン君に届いたこの文に全て書いてあるから、とにかく読んでみなさい――――」

 

 そう言って、コトノさんは面倒くさそうに手紙を僕に渡した。


 メイザース家の蝋印が押された封筒の中には、高そうな便箋が数枚入っていて、その中に認められた流麗な文字に、僕は目を落した。

 

 手紙には、文頭も、社交辞令も、向けた相手の名前さえなく始まっていた。



『我が愚息たちが大変迷惑をかけたようだ。メイザース家の当主であるオーギュスト・バアル・メイザースが、君への非礼を直々に詫びたい。全ては、私が留守の間の、私の預かり知らぬこととはいえ、ガラアーベントとオーランドが行った<魔術儀礼>に巻き込んでしまったことは、私の不徳としか言いようがないだろう。今回の件でメイザース家は、君への償いと、メイザース家の信頼回復のために、君の“後見人”になることを決定した。そして、その旨を<魔術省>に申請し正式に受理されたことを、まずはここに記しておきたい。何かと、“若き悪魔憑き君”と因縁浅からぬ我がメイザース家だ、まさか君も断るなんてことはあるまい?』


 僕は、手紙に書かれた内容の強引さというか、傲慢さに目を丸くして、コトノさんを見た。


「…………全く、食えないジジイよね?」

 

 コトノさんは両手を広げて続ける。


「メイザース家がヨハン君の“後見人”になることで、周囲にこの<魔術儀礼>に幕を引いたと、重圧プレッシャーをあたえているのよ。そしてメイザース卿の預かり知らないことだったと一線を引くことで、メイザースへのこれ以上の糾弾を防いでいる。さすが新興の魔術卿の家だけあって、政治が上手いじゃない」


「…………断ってもいいんですか?」


「かまわないけれど、断らないほうが、ヨハン君には何かと都合がいいわよ」


「売れない<魔術儀礼オペラ>の招待券チケット無料タダでもらえるって特典ですか? それとも舞台ステージに上がって三問芝居を演じられる配役の権利ですか? ……どっちもごめんですけどね」

 

 僕の皮肉に、コトノさんは一本取られたような顔で笑った。


「以前、魔術世界ではどれだけの後ろ盾を得られるかが重要だと教えたでしょう?」


「そういえば…………そんなことを?」


「<魔術卿>の家がヨハン君の後見人――――つまり後ろ盾となれば、私が所属する<異端審問会>も迂闊に手は出せないし、メイザース家も後見人となった以上、その責任は果たさなければならない。これでヨハン君自身が、安全だと安心しきらなければ、なかなか居心地のいい木漏れ日の中だと思うわよ。メイザース家ほどの“大樹”なら、そうそう切り倒されるってこともないでしょうし」

 

 僕は、その回答を一時保留にして――――文の続きを読んだ。



『今後の学園生活及び、魔術世界での生活は、もちろん我が家の名において保障する。そしてメイザース家から一人、“魔術師”をそちらに送ることも重ねて決定した。これは若き悪魔憑き君のためだけというわけではなく、<庭都魔術学園>へ、私からの細やかな“贈り物(プレゼント)”だ。我が家の末席ではあるが、私がメイザースを名乗ることを許した魔術師だ。<庭都魔術学園>の魔術の発展に役立つと同時に、我がメイザース家の魔術を多くの生徒が学ぶ機会にもなり得るだろう。私としては、我が家から送る“ノエル・メイザース”を、君の“許嫁フィアンセ”にと思っているのだが、気に入らなければ“侍女メイド”と扱い、傍に置いてくれたまえ――――』



「…………このジジイは、手紙の中でずいぶん勝手に話を進めているんですけど?」

 

 あまりの展開に僕が驚いて言うと、コトノさんは意地が悪そうに笑っていた。


「あら、そのよわいで婚約者が見つかるなんて、ヨハン君は果報者ね? メイザースは美貌の家系だから、これは期待できるわよ」


「期待なんかしませんよ。それに、僕は許嫁も侍女もいりません。追い返してください」

 

 僕は、ノエル・メイザースが今回の<魔術儀礼>に参加していたことを思い出した。


「そうもできないのよ」


「できないってどうしてですか?」


「手紙に書いてあるでしょう? これはヨハン君だけに向けた決定じゃないって」


「どういうことですか?」


「メイザース家は、今回の<魔術儀礼>を失敗したことで、信頼回復を計らなければならない。だからメイザースの魔術師を、この<庭都魔術学園>に送り込んで、その魔術の伎倆うでを見せつける。それと同時に、<魔術儀礼>を失敗させた仇敵であるヨハン君を、表向きだけでもメイザース家に迎え入れることで、対外的にもメイザース家の器量の大きさを示すことができる。これも、一種の駆け引き、そして政治なのよ」


「僕には全く関係ないじゃないですか」

 

 僕は憤慨して見せると、コトノさんは駄々っ子を見るような顔で話を続けた。


「そうは言うけどね、たった一人、<魔術儀礼>失敗の汚名を背負ってこの<庭都>にやってくる少女のことも考えてもみなさい」


「…………ノエル・メイザースの?」


「彼女は、ヨハン君より一歳年下なだけの女の子なのよ?」

 

 ということは、僕より一学年下のクラスに所属することになるのだろう。


「そんなまだ年端もいかぬ少女が、この<庭都魔術学園>で“客員講師”を務めてメイザース家の汚名を灌ぐために奮闘しなければいけないなんて、涙ぐましいじゃない」


「“客員講師”って…………ノエル・メイザースが生徒に魔術を教えるんですか?」


「いちおう、“生徒”として、五月からの編入予定だけど、手紙にも書かれていた通り、メイザースの魔術を生徒が学ぶ機会として、メイザース直伝にして秘伝の“アブラメリン”の講義を受け持つことになっているのよ」

 

 僕よりも一つ下の女の子が、自分の授業を持って生徒に魔術を教えるなんて――――それはとんでもないようなことに思えた。やはりメイザース家というのは、ものすごい家系なのだろう。


「それなりに研鑽を積み、魔術世界に精通している生徒なら、メイザース家の<魔術儀礼>の失敗は知っているはずだから、多くの生徒が悪意ある眼差しで彼女を見るでしょう。その上で、メイザースの魔術を盗んでやろうと、彼女に狡猾にすり寄るものも多くいるでしょう。危害を加えられることもあるでしょう。彼女の孤立と孤独は――――すでに決定づけられている」


「……………………考えただけで胃が痛くなりそうですね? 僕なら不登校を選びますよ」


「その上、ヨハン君までがノエル・メイザースを必要ないと冷たくあしらったら、この学園での彼女の居場所はどこにもなくなってしまうでしょう?」


「…………確かに。それじゃあ“許嫁”を受けろって言うんですか? それとも“侍女”として傍に置けって――――どっちも無理ですよ」

 

 僕は両手を上げて悲鳴を上げた。


「別に、その“形式”にこだわる必要はないわ。齢の近い男女が近い距離、傍にいれば、それは時間を伴って適切な形に落ち着くものよ。まぁ、メイザース家側から、ヨハン君への監視の意味も含めていいるでしょうから…………親しくなるにしても、憎しみ合うにしてもね。ただ、初めから門を閉ざすようなことはしないほうがいいと言っているだけよ」


「…………わかりました」

 

 僕はしぶしぶ頷き、またしても回答を保留にして――――文の最後に目を落した。



『私としては、今回の件で最大級の尽力をしたと思っているが、至らぬところや気に食わぬところがあれば申し出て欲しい。若き悪魔憑き君の助けになることが、私の喜びとなることを切に願っている。最後になってしまったが、いつか英国の魔術都市<ガーデン>の“グランストラエ領”に、我がメイザースの家に遊びに来るといい。私としては、私自身が描いた舞台オペラの上で、君の中の悪魔と踊ることを楽しみにしている――――オーギュスト・バアル・メイザース』



「…………最後のこれ、何ですか?」


「つまるところ、手の込んだ美辞麗句レトリックをふんだんに使った、<ベリアルの魔眼>に対する予約の取り付けと、ヨハン君への宣戦布告――――ってところでしょうね」


「つまるところ、喧嘩を売られたってことですね」

 

 その分かり切った答えに、僕は重たすぎる溜息を落した。

 その重さで、僕の蚤の心臓が潰れてしまいそうだった。


「さて、これで事後の報告は全てよ」

 

 龍驤琴乃は手を叩き、つまらないエピローグを終えるように言った。


「ヨハン君、あなたは聖人の奇蹟に命を救われた」


「――――――――」


「聖人が死に至る際に起こす<聖骸化>の奇蹟をもって、ベリアルに捧げるはずだった“魂”を、あなたは捧げずにすんだ。ヨハン君としては、まぁ不本意だったでしょうけどね――――どうかしら、“長い夢”から覚めた気分は?」


「分かりません。僕は、まだ悪夢ユメの中にいるのかもしれないし、手の届かない夢を追っているのかもしれない」

 

 僕は弱々しく言った後に、これから先の言葉の重みに耐えるように力強く拳を握り、声に覇気を纏わせた。しっかりしろと、自分に言い聞かせた。


「だけど、これから先の僕の人生…………あとどれだけ生きれるか分からないけど――――僕は死にむかって歩むんじゃなくて、生きるために精一杯…………踊ろうと思います。下手くそな踊りでも、足を止めずに踊り続けようと」

 

 これが、今の僕の全てということになるだろう。

 

 僕は、この悪夢かも、絶望かもしれない“人生”という“舞台”の上で演じ続け、踊り続け、生き続ける――――――――

 

 事切れる、最後の瞬間まで。


「もう、心配ないわね」

 

 僕の言葉に満足したように、龍驤琴乃は頷いて踵を返した。


「私は、まだ仕事が残っているからもう行くわ。セミラもいらっしゃい。これから男の子が運命の出会いを果たすんだから、そこにいては野暮ってものよ」


「わかったにゃ」

 

 セミラは素直に従って、ベッドの上から去って行った。


「ヨハン君、せっかく女の子と会うんだから、少しでも身だしなみを整えておきなさいね。あと、気の効いた言葉の一つや、二つ、考えておくのよ?」


「……………………」

 

 楽しげに言葉を弾ませて、龍驤琴乃は部屋から去って行った。


 取り残された僕は、急に世界中から見放された迷子のような心細さを覚えた。

迷える子羊にでもなってしまったみたいに。

 

 これから、ノエル・メイザースがこの部屋に来る――――

 

 僕の“許嫁”として、そして“監視役”として、この<庭都>に送り込まれた魔術師との、出会いを果たす――――


 しかし、僕はベッド脇の飾り窓に視線を向けて、外の景色を眺めた。

そして、もう我慢ができないと、拳を強く握り――――おもいきり拳をベッドに叩きつけた。


「ちくしょう…………ちくしょう、ちくしょう……」

 

 分かっていても、理解していても、納得はできない、割り切れない気持ちが溢れ出してきた。その気持ちを自分の魂のどこかに落ち着けるには、もう少しだけ時間がかかりそうだった。


 僕一人だけが生き残り、マリアティアは僕を助けるためにその身を犠牲にして――――死んでしまった。

 僕は、自分情けなさを、不甲斐無さを、この弱さを律するためにも、今だけはそのことを心から悔いた。


 二度と同じことを繰り返さないと、魂に刻み付けるように。

 

 摩天楼が遠くに見える<庭都>の中心を眺めていると、不意に一羽の烏が窓辺に現れた。

 賢そうな翡翠の双眸の烏が、こちらをじっと見つめている。


「……………………」

 

 しばらくすると、烏は頷いて蒼穹へと飛び立っていった。烏に頷くということがあるのなら。


 僕は“お節介な同級生”の不機嫌そうな顔を思い出した。

まずは、迦具夜今日子のお礼を言いに行こう――――そう思った。


 これから先、マリアティアに救われたこの生命いのちで何ができるのか、それを考えて行こうと思った。

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