37
「よお、僕の右目のクソッタレの“悪魔”――――聞こえてるか? お前に話がある」
暗闇の中に波紋が広がっていくのを感じた。
僕の言葉が、魂の奥、扉の向こう側にある暗闇を震わせている。
「話って言うよりも――――“契約”だ」
魂がざわめくの感じる。
牙を剥き、爪を鳴らし、舌をなめずるような、そんな気配がした。
右目の鼓動は、より一層は強く、そして早くなった。
「ベリアル、お前に僕の魂をくれてやる。その変わりマリアティアを助ける力を僕によこせ」
僕は、僕の中――――魂の奥に広がり、開いた扉の奥に住まう“悪魔”に向かって、対話を続ける。
「僕の魂なんてたいしたもんでもんじゃないし、特に価値もない…………そんなことは分かってる。それでも、今日まで僕の体を“間借り”させてやったんだ。家賃代だと思って最後に僕の頼みを聞けよ。お前だって、そろそろこんな“ボロ家”から出て行きたいだろ? だから、お前の力を、僕によこせ」
暗闇の奥、幾重にも折り重なった常闇の奥から――――
禍々しく、それでいて美しい“赤い瞳”が、僕を見つめていた。
その瞬間、この契約がなったことを、僕は本能的に悟った。
約は交わされた。
再び目を開いた時、僕の右目が見る世界は――――
死の視る世界じゃなく、死を撃える世界だった。
僕は、自分の右目が新しい心臓を宿したような感覚、右目に新しい魂が重なったような感覚に呑み込まれた。
熱く鼓動し、脈動し、胎動する、赤い瞳が――――恐怖と、血と、死を欲している。
その黒い潮流に呑まれてしまいそうだった。
「これが、悪魔の力?」
僕は若干の戸惑いと共に頷いた。
「――――これで、あのクソッタレの魔術師を、ぶん殴れる」
僕は、貫かれた右手を槍ごと地面から引っこ抜いて掲げた。
そして血で濡れた右手を、鼓動する右目――――<ベリアルの魔眼>で視つめる。
すると、この“右腕”が、灼熱で焼かれ“消し炭”にでもなったかのように、黒く染まった。
僕は、その“黒い右腕”で体を深々と貫いている槍に触れた――――すると、“偽聖人殺しの槍”は、まるで腐敗して崩れ去るように粉々になった。土に帰っていくように。
灰は灰、塵は塵に――――
僕はボロボロの体でゆっくりと立ち上がる――――十字架に張り付けにされた少女の前に立っていた魔術師が振り返り、信じられないと目を見開いた。
その美貌にはじめて、“驚愕”の二文字が浮かんだ。
「――――貴様、何をした?」
そして、静かに尋ねた。
「悪魔とすることと言ったら、一つしかないんだろう? ――――契約だ」
「契約?」
「ああ、そうだ。悪魔と――――ベリアルと契約をした。あんたをブッ飛ばすための契約だ」
「まさか、召喚の際の契約が不履行のままだったとでも? それよりも、“瞳”だけの部分召喚だと思っていたが、悪魔の意思と――――“回廊”が繋がっているというのか? そして、約はなったと」
魔術師は訳の分からないことを一頻り口にすると、僕を見て満足そうにうなずいた。
「くくっ、くふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
そして、不意に愉快そうに笑いだした。
「おもしろい、おもしろすぎるぞ、悪魔憑きの孺子――――どうやら、今夜の私は運がいい。どれだけの長い年月を魔術に注ごうが、“聖人”と“悪魔憑き”、そして本物の“悪魔”を垣間見ることなど、そうそうできることではあるまい? これが、我が姉が――――ベアトリス・メイザースが手に入れようとした“奇蹟”か」
額に手を突き、黒い大樹が体を揺らして笑っている。
僕は目の前の大樹を睨みつけた。
「いいや、あんたはついてなんかないさ。それどころか、とびっきりの不運|だぜ? あんたは、これから最悪の“ユメ”に落ちる。見せてやるよ――――走馬灯っていう“悪夢”を」
「ならば、その“儚い夢”を見せてみるがいい――――」
再び、僕の足元から天を穿つような槍の束が突き出したが、僕はもうその槍を避ける必要もなかった。左目を右手で覆い隠し、右目で世界を視つめる。
その瞬間、突き出した槍の全てが、塵芥となって消滅した。
灰は灰に、塵は塵に――――
「“生命”のみならず、“物質”や“魔術”の持つ<エーテル素子>にも、<死のエーテル>を上書きしたというのか? ますます、素晴らしい」
魔術師は、青い瞳を見開いて言う――――
僕は、黒い闇で覆われた右腕を勢いよく振るった。すると僕の拳が空間を切り裂いたかのように、魔術空間という衣を剥いだ現実の世界が垣間見えた。
どうやら、この右腕は世界にも死を齎すみたいだった。
「どうする、ガラアーベント・メイザース? このまま僕をほおっておくと、この魔術空間はぶっ壊れるぞ?」
「死を齎す右目のみならず、死を撃える右手か? しかし、今さらこの魔術空間―――― <軌跡の終点>が壊されたところで、私の魔術儀式には何の影響もない」
「何だと?」
「見るがいい――――」
そう言って、魔術師は背にしたマリアティアの十字架を指した。
マリアティアの周りを取り囲む“十の円”は黄金の光で満たされ、金色の果実を実らせている。そして大樹のような“魔法陣”自体は、翼を広げたように大きく肥大していた。
まるで、マリアティア自身に翼が生えたように――――その身に神を宿したようだった。
「<赤柩の聖人>が宿した“九つの奇蹟”は、すでに<生命樹の果実>によって保管し終えている。これで、当初の目的自体は達したことになるが――――この“九つの奇蹟”をもって、貴様の中の“悪魔”を戴こう。これで、我がメイザース家の悲願は達成される」
ガラアーベント・メイザースは、突如ローブを脱ぎ捨てた。
黒と銀で装飾されたローブの中から、黒いボディスーツに包まれた肉体が露わになる。
それは、樹齢何千年を超す大樹を連想させる、鍛え抜かれた見事な肉体だった。
「おいおい、魔術師って言うよりも…………武人の肉体だろ?」
「健全な魂は、健全な肉体にこそ宿る。それは魔術とて同じこと。最近の魔術師は、魔術に頼り切った軟弱な者が多くて嘆かわしい限りだ。魔術師たる者、自らの肉体は常に鍛え上げなければならない」
「…………」
まるで魔術師らしくない発言だったが、その言葉通り魔術師が、僕に向かってゆっくりと歩みを始めた。
そして、腰から下げた細剣を抜き、間合いを詰めると同時に剣先を突き出す――――
「――――ッ」
僕は黒い右腕を前に突出し、細剣の剣先を手のひらで受け止める――――
すると細剣は、黒い虚無の中に呑みこまれていくように消え去った。
死のエーテルを上書きされて、消滅している。
しかし、刺突の攻撃を防ぎ、僕が攻撃に転じようとしたところで、不意の衝撃が僕の右頬に走った。脳髄に雷が落ちたような体の芯に響く衝撃に、目の前が真っ白になった。
「ぐ―――――――――、は」
僕が突き出した右腕の隙間を縫うようにして襲ったのは、魔術師の左拳だった。
魔術師は細剣を囮にして、このクロスカウンター気味の左拳を狙っていた。
「こんなものか? ここは貴様の舞台――――体術式の間合いだろう?」
続けざまに右のストレート、左のボディが入り、深々と僕の臓器に拳が突き刺さる。
「ハッ――――――――」
肋骨が数本持っていかれ、砕けた骨が臓器に突き刺さる。
僕は体中の臓物を吐き出してしまいそうになり、息をすることも叶わないまま体をくの字に折り曲げた。その瞬間を狙って、再び魔術師の左拳が振り抜かれた――――顎を救い上げる、業火のようなアッパーが僕の顎を粉砕する。痛みというよりも、肉体と精神が切り離されたような浮遊感に包まれながら、視界が爆ぜる――――
微睡みの衣に身を委ねそうになりかけたが、僕は魂の奥に響く声に耳を傾けた。
それは、赤い衣となって僕を覆っている。
『私の愛が、あなたを守ります』
僕は脳裏に焼き付いている女の子の笑顔を、首に巻いた暖かな赤い衣を、彼女を守ると誓い、約束した言葉を、その全てを思い出して――――
ただ目の前に向けて、ただ右目が捉えた魂に向かって、ただ思いきりに拳を振るった。
「ガッ――――」
くぐもった声が聞こえ、魔術師の表情は苦悶を描いている。
僕の拳が魔術師の心臓を深々と撃っている。
間違いなく効いていた。
僕の右目は、魔術師の魂が慄くのを見て取った。
そして、続けざまに、二撃め、三撃目となる打撃を与える。
「はッ――――」
「ダッ――――」
お互いの苦痛が漏れながら、僕と魔術師は拳を交え続ける。
魔術師の攻撃は的確に急所を突き、僕を痛めつける。
骨が軋む悲鳴と共に、鮮血の雨が降り注ぐ。
逆に、僕の攻撃は要領を得ない不確実なものが多かったが、それでも悪魔の一撃は重く、魔術師を苦しめ続けた。そして仮に攻撃を掠め、外したとしても――――
魔術空間を切り裂く一撃に世界が振るえた。
「うおおおおおお」
「はああああああ」
魔術に右拳と、僕の左拳がぶつかり――――いくばくかの静止の後、僕の左拳は弾け飛んだ。何かがぐしゃぐしゃになる音が聞こえ、白い棘のようなものが腕から突き出した。
「ぐああ」
砕けた腕の骨だった。
そして、拳を砕かれた際に魔術式ごと破壊されたのか、僕の左腕と左拳は完全に沈黙した。
しかし、僕は左拳が破壊されたことでできた僅かな時間で、右足を踏み込み、それと同時に右拳を魔術師の体に突き出した。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
これが、最後の崩拳―――――――――
悪魔の右腕が、魔術師の鳩尾に深々と突き刺さった。
「――――」
「――――」
静寂の世界で、僕と魔術師は見つめ合ったまま静止している。
これ以上は、体が動きそうもなかった。
限界は、とうに超えていた。
痛みも、苦しみも、どこかに置き去りにしていた。
視界すら定まらず、見えるものは<ベリアルの魔眼>が目ざとく嗅ぎ付ける――――魂の匂いだけだった。それ以外のものは、全てが白く爆ぜている。視界が壊れ去り、その他の五感も全て異常を期している。満身創痍という言葉ですら、安すぎる僕の肉体に鞭を打ち――――
僕は必至に立ち続け、魔術師を見つめた。
魔術師の凍てつくような青の双眸が、僕を見下ろしている。
「…………」
「…………ごふっ、」
途端、魔術師の青みがかった黒髪を纏めている三つ編みが解け、長い髪が青い葉を散らすように揺れた。
「こんな孺子に……この私が…………メイザースの魔術体系が敗れるとは…………いや、悪魔を従えるほどの器とセンス、そして少女を守ると決めた決意に――――拍手を贈るべきだろう」
魔術師の声が響いた。
「もはや、この肉体は限界だ。魔術を維持することは愚か…………魔力を練ることすら叶わない。またしても、悲願の達成には程遠かったということか? 我が姉を越えるという、悪魔の誘惑に乗った私が……愚かだったのか? まぁ、いい。貴様の勝ちだ――――悪魔憑き孺子」
そう言った魔術師の貌は、どことなく笑っているように見えた。
ようやく僕は、この魔術師の魔力が空だったことに――――僕と対峙した時にはすでに、魔術師の魔力が切れていたことに気がついた。
昨夜と今夜の魔術儀式で、魔力の全てを使い果たしていたのだろう。
だから、この“魔術戦”において、単純な魔術しか使うことがなかった。
それでも最後までそうと悟らせずに、メイザース家の名に相応しい戦いと格を見せつけたことに、この魔術師の恐ろしさを垣間見た気がした。
ガラアーベント・メイザースは、魔術師としても、役者としても、脚本家としても、演出家としても、間違いなく一流だった。しかし悪魔なんて不確定な要素を劇に組み込むには、この魔術師の力では足りなかったのだろう。いや、そもそも悪魔なんてものを舞台で上手に踊らせることができる魔術師なんて、いないのかもしれない。
それとも、聖人を手に入れるための信心が足りなかったのか―――――
どちらにしても、もう関係のないことだった。
僕が魔術師の脇を通り抜けると、魔術師は崩れた。
青い葉を散らした、美しい“大樹”が倒れる音が――――僕の背中に響いた。




