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「ほう、やはり素晴らしいものだ。これが<ベリアルの魔眼>の力か――――」
ガラアーベント・メイザースが、恍惚と言う。
「その魔眼が映した全ての“事象”及び“現象”に、“死”を上書きする魔術――――どうやら、それが<ベリアルの魔眼>の本質のようだ」
僕を分析し解析するかのように、ガラアーベント・メイザースが学者然とした声で呟いた。
「この世界の全てを構成する元素たる“エーテル”を、“死”という概念に書き換える力。視覚で捉えたものを、<死のエーテル>で塗りつぶす。まるで、目に見える全てを黒一色に塗り替えてしまうように。恐ろしいまでの魔術だ。君は、自分の右目に宿した“悪魔”が、どれだけの神秘であり――――それと同時に、どれだけ恐ろしいものであるのかを、理解しているのか? いや、一度でも考えたことがあるのか?」
魔術師は、まるで僕の右目――――<ベリアルの魔眼>について、この場で教鞭を振るい、講釈でもはじめそうな勢いだった。
僕は、「さぁ」と曖昧に首を傾げたところで、不意打ち気味に攻勢をかけた。
昨晩、ガラアーベント・メイザースの無駄な講義に付き合っているうちに、儀式を行うための“魔法陣”を完成させられ、僕は無様に左胸を貫かれて瀕死に追い込まれた。
その轍を、二度も踏むまいとしての行動だった。
活歩で地面を滑るように飛び、一気に間合いを詰めると――――
僕は、魔術師の胸を撃つように頸の一撃――――崩拳を放つ。
肉体の“内側”と“外側”を同時に破壊する一撃を受けて、ガラアーベント・メイザースは――――――無言で僕を見下ろしていた。
それに、まるで無傷――――
「――そんなっ、」
「愚弟を相手に見せた魔術が、この私に通用するとでも?」
抑揚のない声で冷静に魔術師が言う。
「どうやら、今時の魔術学園は――――魔術の神髄にして深奥が“秘匿”にあるとは、教えていないようだ。それは何故か? 一度見た魔術に対して、魔術師はいかようにでも対策をとることが可能だからだ。それがどのように単純な<魔術式>――――<体術式>だったとしても」
僕は、反撃をせず、応戦しようとしない魔術師の重圧に後ずさりした。
そして、“耳にタコができる程聞かされた教え”を、まるで実践できていなかった自分の不甲斐無さ、不出来さを改めて思い知らされた。
今は、魔術師の隙を窺うしかないと判断し、僕は黙ってガラアーベント・メイザースの話を聞くことにした。いや、為す術がなく、それしかできることがなかった。
「“現代魔術”とは、つまるところ<エーテル素子>の発見による、<エーテル式>への変換に他ならない」
魔術師は自身の優秀さを鼻にかけた様子もなく、淡々と抗議を続けていく。
「<エーテル素子>とは、全ての“事象”及び“現象”を構成する“情報体”――――つまり、<エーテル>が、冷熱乾湿などの性質を得て、事象及び現象として形を持った状態のことを指す。宇宙を含めたこの天体、そしてこの世界の全てが<エーテル>によって存在していると仮定した時、それを<無色のエーテル>へと“分解”していく過程で“最構成”する魔術を、“現代魔術”では、<エーテル式>――――つまり、<魔術式>と呼んでいる。もちろん、古代より受け継がれる、<イドの扉>の向こうから<無色のエーテル>を取り出し、それを事象及び現象へと変換する魔術の派生であり、一体系ではあるが」
「……………………」
全く以て意味が分からず、魔術学園の授業よりも退屈だった。
「ようするに、この地面が地面であるという“事象”――――<エーテル素子>を、書き換える」
魔術師が足を踏み鳴らすと、地震が起きたかのように地面が脈動し、僕とマリアティアの背にした地面が、退路を断つように盛り上がった。
“墓標”のように突き出した大地が、十字を描いて巨大な“碑石”となった。
まるで、その下に埋葬されることを暗示するように。
「式が分かれば、公式に当てはめ解を導き出せるように――――相手に<魔術式>を晒せば、それを如何に防ぐかも容易に理解できる。しかし、君の右目のように――――<魔術式>や、<エーテル素子>を完全に把握することができない神秘、そもそも<魔術式>や<エーテル素子>などという、魔術師が考えた“概念”では理解することができない魔術も存在する。我々とは異なる“法則”や“方程式”を持つものだ。“悪魔”や“神”と呼ばれる奇蹟のような」
魔術師の凍てつく瞳が、僕とマリアティアを同時に見据えた。
そして、その氷の刃のような青い視線が、マリアティアへと収斂していく。
「“聖人”とは、つまるところ“神の法則”を降ろした“器”に過ぎない。救世を行うための器――――“救世機”とでも言えば分かりやすいだろう? そしてその器が死した後も奇蹟を残し、世界に奇蹟を齎し続ける“永久機関”だ。全く以て素晴らしいものだ。悪魔憑きの孺子が、それほどまでに惹かれるのも頷ける。そして、その魂を賭けて守りたいと思うのも無理はない。しかし、マナの枯渇したこの時代において、それがどれだけ魔術的価値のあるものなのか、それだけが分らないとは――――嘆かわしいことだ」
「マリアティアを、モノみたいに言うなッ」
僕が声を上げると、魔術師の凍てつく瞳は、僕へと――――僕の右目の悪魔へと差し向けられた。
「君の右目――――<ベリアルの魔眼>を見ていると…………私は、つい話し過ぎてしまようだ。しかし、これほど饒舌になるのも生まれてはじめてのこと。もう少しだけ、この陶酔に身を委ねるのも悪くはないだろう。自分で創りだしたとはいえ、私もこの舞台の役者なのだから――――」
魔術師は一人納得して頷くと、芝居がかった調子で続ける。
そんな姿すら、絵になるほどの美貌だった。
「一つ教えておこう。我がメイザース家と、君。そして――――その右目の悪魔との因縁を」
「…………因縁?」
「我がメイザース家も、参加していたのだよ。あの夜――――<悪夢の前夜祭>にね」
「まさか、そんな――――」
僕は信じられないと、口を開いた。
「君が驚くのも無理はない。“あの夜”に起きたことの全ては秘匿され、公には何も残されていない。私とて、君が知り得ている以上のことは知らないだろう。ただ、君の“両親”によって、引き起こされた魔術世界最悪の“悪夢”。それぐらいのものだ。そして、参加した“七つの魔術師の家”も、そのような汚点を自ら口にするような愚を犯すわけもなく、“あの夜”に関わったことなど、隠蔽したいと思うのも無理からぬ話だろう?」
僕は、迦具夜今日子のことを思い出していた。
彼女は、このことを知っていたのだろうか?
だから、予め僕にメイザース家のことを忠告していたのだろうか?
「“儀式魔術”を極めた我がメイザース家からは、我が姉――――ベアトリス・メイザースが参加した。我が姉は、メイザースの大器、“青の結晶”とまで呼ばれた魔術師だった。通常、一つの“セフィラ”を完全に理解し、体得するのに、並の魔術師ならば十の齢が必要だと言われている。しかし我が姉は十に満たない齢で、十のセフィラの全てを理解し、体得した。私がその域に至れたのは、それよりも五つ齢を重ねなければならなかった」
ベアトリス・メイザース――――彼女も、僕の両親の犠牲者なのだろうか?
「しかし、いずれメイザースを継ぐと誰しもが疑わなかった魔術師が、君の右目の悪魔を降ろすための、たかが供物になり下がったと知った時の、私の動揺や衝撃は――――理解できまい?」
「…………」
「私が、全ての脚本を書き換えてまで――――君の右目の悪魔を欲したとしても、無理はないだろう? しかし、勘違いしてほしくはない。私は憎悪や復讐なんていう、チープな感情で動いているわけではない。私は、ただ知りたいのだ。我が姉すらを供物に変える程の、想像を絶するほどの神秘を…………私は、ただ得たいのだ。我が姉すら手にすることができなかった、悪魔を――――」
箍が外れた調子で、ガラアーベント・メイザースが、僕を――――僕の右目の悪魔を見つめる。その姿は、彼の弟であるオーラン・ドメイザースによく似ていた。
僕には、こんな右目に――――<ベリアルの魔眼>に、それほどの価値があるのかなんて分らなかった。
こんなもの――――
「これが、この右目が――――いったいどれほどのものだっていうんだ?」
僕は、訳が分からないと叫んだ。
「先ほど、君の右目――――<ベリアルの魔眼>が、どれだけの神秘であり、そしてどれほど危険であるか理解しているのかと尋ねたのは、君の右目は“視覚で捉えたモノ”の<エーテル素子>を、無条件に“死”へと書き換えるからだと言っただろう?」
「エーテル素子を無条件に死へと書き換える?」
右目がひどく痛んだ。
流れ出る血が増したように。
「君と対峙している、この私――――ガラアーベント・メイザースという<エーテル素子>とて、この瞬間も着実に死へと近づいている。そう、まるで暗い地下室の階段を下っているように。ゆっくりとだが、確実に――――」
この右目に映したものを、無条件で死へと書き換える――――そんな身に余る力を、そんな恐るべき悪魔を、僕は望んで手に入れたわけじゃない。
こんな右目、無くなってしまえばいいと何度も思った。
だけど、それでも、今この瞬間だけは、この右目が――――この死を齎す赤い瞳が、僕の右目だったことに、僕は心から感謝した。
今夜だけは、この右目が――――最高の“聖夜の贈り物”だった。
「この<ベリアルの魔眼>が、僕の右目でよかったよ」
「――――ほう?」
僕の言葉に、魔術師が目を細めて眉を顰める。
「こんなクソみたいな右目、ずっといらないと思ってた。こんなもの、ずっと何の役にも立たないって思ってた。何度、この右目を潰そうとしたか分からない。だけど、今夜だけは、違う。僕のクソみたいな両親に感謝したいぐらいだ」
僕は拳を強く握って構える。
半身になって左手を前に突出し、手のひらを相手に向けて牽制する。伸ばした左腕は発射台――――腰よりも少しだけ高い位置に置いた右拳を放つための回廊だ。
僕は血を流しながら赤く輝く瞳で、魔術師を見据える。
魔術師の魂は“青玉”のように美しく、それでいて強大で荒々しい。
そして、その魂を纏う肉体は、天に向かって聳える“大樹”のように逞しかった。
その魂を“死”で書き換えるように、僕は“死の視線”で魔術師を射抜く。
「この右目のおかげで――――僕は今夜、あんたをブッ飛ばせる」
目の前の魔術師に、どれだけの因縁があったとしても、僕は一歩も引くことはできない。
僕が決意の声を上げると、ガラアーベント・メイザースが目を見開いた。
「悪魔憑きの孺子が、自惚れるのも大概にしておけ。貴様は、ただの器に過ぎない。悪魔を降ろした器如きが、百年を超えるメイザースの魔術体系に抗おうなどと――――いや、いいだろう。そろそろ、私もこの因縁に幕を下ろそう」
言いながら、ガラアーベント・メイザースが拍手を打つように両手を合わせた。




