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「ハイできた」
龍驤琴乃が、僕の左腕に新しい<魔術式>を書き込み、そして頷いた。
それまで赤く光っていた左腕の<魔術式>が、僕の体に溶け込むように消えて――――僕の肉体の一部となった。
「ありがとうございます」
「まぁ、応急処置っていうか、“傀儡”の魔術式で無理やりヨハン君の思い通りに動かしているだけだから、左腕が元通りになったなんて思わないこと。それと、肉体にかかる不可は今まで以上よ。もともと“体術式”で無理やり肉体を強化し、体術を体に刻み込んでいるだけでも相当な不可なのに、さらに別の魔術式を上書きしたとなると、その反動は想像を絶するわ」
僕は左腕を動かしてみた。
僕の思考にしっかりと反応して、僕の左腕――――その先の手や指がスムーズに動く。しかし動いているという実感や感覚はまるでなく、僕の左腕は肩の先から存在していないかのようなままだった。
「本当なら切断して、片腕で生活をしていくか、義手を取り付けるかってところだけど…………今は、腕が二本あった方がいいでしょう?」
「はい。これで盾代わりにはなりそうです」
僕は左手を握ってみたり、突き出してみたりしながら言った。
「それと、これ――――」
そう言いながら、コトノさんが大きな“黒のトランク”を開いて見せた。
「今夜の舞台に上がるための衣装――――制服一式と、特別な<魔術付与>を施した外套よ」
渡された複雑な仕立ての“黒い外套”は、絹でも布でも綿でもなく、ましてや革でも合成繊維でもない、不思議な生地で織られていた。羽のように軽いのに、銀のような重量感があり、夜の闇よりも黒いはずなのに、澄んだ水のような透明感がある。まるで星の無い夜を水晶で閉じ込めたような、そんな外套だった。
「マナの結晶である<ミスリル>を加工して織った“外套”よ。遅くなっちゃったったけれど、“入学祝い”みたいなものだと思ってちょうだい」
コトノさんは、息子の晴れ舞台を見つめるように、僕の肩にその外套を当てながら言った。
袖を通した黒の外套は、僕の体にピッタリだった。寸分たがわず――――
いつだって、コトノさんの仕立てる衣服は、僕の肌にピタリと合う。
「その聖人ちゃんにも、一応学園の制服を持ってきたから、後で着せてあげないさい――――女の子をそんな恰好のまま舞台に上げるなんてできないでしょう? 舞踏会の相棒《パートナー-》なら、なおさらにね」
黒いトランクの中から、女子の制服を取り出したコトノさんが、魔法陣の中で眠るあられのない姿のマリアティアに向かって言う――――
まるで、初めから全てを見透かしていたかのようだった。
「コトノさん…………もしかして?」
僕の言葉を伸ばした指先で塞いだコトノさんが、その先を引き取って続ける。
「ほら、新しい“眼帯”よ。…………うん、よく似合ってるわ。やっぱり、ヨハン君には、黒色が――――夜の闇が一番映える」
黒一色になった僕の姿を見て、コトさんが感慨深げに頷いて見せた。
「コトノさん、いろいろありがとうございます」
「あら、お礼ならいらないわよ。無事に帰ってきて――――今まで以上に、私のために働いてちょうだい。それじゃあ、私は行くわね。セミラもいらっしゃい。どうせ、足手まといになるだけなんだから」
「はいにゃ」
面倒くさそうに言って、龍驤琴乃は手をひらひらと振り――――その後をセミラが続く。
「ヨハン、がんばるにゃ。必ずかえって来るにゃ」」
「ああ。帰ってきたら、大トロ食べさせてやるからな。コトノさん、最後に一つだけ――――」
相棒の応援に応えた後――――コトノさんの背中に静止の言葉を投げた。
「――――悪魔と取引や契約なんてできるんですか?」
僕は、オーランド・メイザースに言われ、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「そうねぇ? 古今東西の書物に登場する悪魔たちは、気さくで愉快な性格をしている場合が多いわね。それでいて、狡猾で悪戯好き。願いを叶えるにしても、願った本人の意に添わない形――――穿った、そして捻くれた解釈をもって、より事態を悪化させるような願いを叶える場合が多い」
コトノさんが冗談めかせ続ける。
「だけど、世界最大の宗教が扱う“教典”の中で、神と呼ばれる全能者が人間を殺した数は――――二○三八三四四人。それに比べて、悪魔が人間を殺した数は――――わずか、十人よ」
「…………たったの十人?」
「ええ。そう考えれば、神なんて胡散臭いインチキの権化みたいなものよりも、悪魔の方がずっと慈悲深くて、人間味があるのかもしれないわね」
僕はその会話を胸に刻み付けた後――――魔法陣の効果が切れて目を覚ましたマリアティアと再会した。




