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「コトノさん、ありがとうございます。でも、僕はその言葉には従えない――――僕は、まだこの舞台に幕を下ろせない」
僕は、彼女の言葉に意を唱えた。
これが、龍驤琴乃への明確な叛逆であることは分かっていた。
「ヨハン君、何ですって? もう一度、私に聞こえるように、しっかり言ってごらんなさい」
龍驤琴乃が、表情を変えずに静かに尋ねた。
僕の心は、すでに恐れ戦いていた。
「僕は、まだ――――このクソみたいな三問芝居の舞台から降りられないって言ったんです」
「ヨハン君、あなたに何ができるのかしら――――いいえ、そんなことよりも、私に逆らう? そんなことが、許されると思っているのかしら?」
そう言うと、龍驤琴乃は右手を僕に伸ばして――――小指をくいと動かしてみせた。
その瞬間、僕の体の中で爆発が起こったかのような痛みが巻き起こり――――僕は地面に倒れ込んだ。同時に、心臓を針で貫かれるような痛みが、断続的に襲ってきた。
「“拷問”の魔術式よ。そして“服従”の魔術式」
僕の肉体は龍驤琴乃に操られ、僕の意に背いて動きだした。
そして、その場に犬のように這い蹲った。
「今まで十分に躾けられてきて――――その魂と肉体が嫌というほどわかっているでしょう?」
彼女の言う通り、僕の魂と、肉体には――――
龍驤琴乃への恐怖が、畏怖が、畏敬が、十二分に刻まれ過ぎていた。
正直、今直ぐにでも彼女に泣きついて、許しを乞いたいぐらいだった。
「ヨハン君は――――私には逆らえない。あなたは、私が靴を舐めろと言ったら、その通りに舐めるしかないの。あなたは、私の、とってもかわいい犬なのよ」
見えない糸で操られたように、僕の肉体は独りでに動いていく。四つん這いのまま龍驤琴乃の足元まで向かって。そして、彼女の伸ばした足の先――――高いヒールの黒靴の先に顔を近づけたところで、ようやく止まった。
「あなたの存在は、限りなく曖昧で――――限りなく泡沫」
コトノさん、まるで詩を歌うように続ける。
「指先でつついたら消えてしまう、小さな泡のように儚いもの。私が、この小指を少し動かしただけで――――あなたの人生は終わってしまう。そんな程度のものなのよ」
龍驤琴乃が小指をくいと動かすと――――
僕の左胸に刻印された<禁死の魔術式>が赤く浮かび上がり――――
その“死”宣告した。
「さぁ、これでも――――私に逆らってまで、叶わない夢を見続ける気かしら?」
「うるせえええ、うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
僕は、僕の体中にかせられた枷を振りほどくように、精一杯の力を振り絞って立ち上がった。背筋を伸ばし、拳を強く握り――――色の異なる二つの瞳で、真っ直ぐに龍驤琴乃を見つめた。
「――――確かに、僕の命なんてクソみたいなものだ。コトノさんや、<異端審問会>、<魔術省>の連中からしたら、浮かんでは消えるちっぽけな沫みたいなものだ」
僕は声を張り上げて続ける。
「確かに、僕は、あの“牢獄”から外の世界に出るとき、異端審問会の<執行者>になることを選んだ。コトノさんの所有物にでも、犬でも、奴隷にでもなって働くことを選らんだ。それでも――――僕は、この魂までを捧げたつもりはない」
僕の言葉に、龍驤琴乃は驚いたように、長い睫毛に縁取られた瞳を持ち上げてみせた。
「龍驤琴乃には――――二つの選択肢がある。今ここで僕を殺すなり、牢獄に戻すなりして、僕とマリアティアの二人を失うか…………それとも、僕を生かして、僕とマリアティアの両方を手元に置いておくか―――――二つに、一つだ」
「ふふふ、なかなかおもしろい提案ね。私をヨハン君の“交渉の場”――――つまり、“キル・ゾーン”に上げようっていうのね? いいわ、少しだけ付き合ってあげる」
コトノさんは、僕の話に乗って見せようと舞台に降りてきた。
「だけど、ヨハン君はそう言うけど、その“聖人”は死にかけで、今夜持つかどうかも分からない。<メイザースの魔術儀礼>を失敗させたとしても――――“聖人”が私の手元に来る保証は何もない」
コトノさんが淡々と事実を述べていく。
「そして、私は、今ここでヨハン君を“服従”させることもできる。別に、執行者の変わりはいくらでもいるのよ? ヨハン君よりも適任な魔術師や異端者は、いくらでもね。ヨハン君は執行者としては下の下もいいところ。あなたの右目だけを取り除いて――――保存したっていい」
残酷な言葉が冷たく響いた後、僕は反撃に転じた
「それができないから、僕を生身で生かしているんだろう? ベリアルの召喚の供物は僕自身だ――――僕が死ねば、ベリアルと僕を結んでいる回廊は閉ざされて、ベリアルの存在は消える。いや、それよりも、もっと性質の悪いことが起きる可能性だってある。だから、僕を幽閉している間、僕に危害を加えることはあっても――――命を奪う真似だけはしなかった」
「ふふふ、そうね。私たちは、ヨハン君の“右目の悪魔”に手出しができない。いえ、厳密には一度だけ試したことがあるみたいなんだけれど…………ヨハン君がまだ幼い頃、私が<異端審問会>の一員になる前の話よ――――」
「僕が幼い頃に? なにを――――」
「さぁ? その結果、<忘却の牢獄>の地下階層は、壊滅状態になったって話だし――――」
「あの“監獄”が…………壊滅状態?」
「だから、正直なところ、<魔術省>も、ヨハン君をいつまでも<忘却の牢獄>|に収監しておきたくなかった。それで、ヨハン君に<執行者>の役を与えて“魔術世界”に送り出したって経緯があるの」
「…………つまり、僕は研究対象にもならないから、お払い箱だったってことですか?」
「<魔術省>の見解としては、ヨハン君を魔術世界という舞台に上げて、魔術世界全体の“魔術体系”の発展の一助になれば、と言ったぐらいのものかしらね? まぁ、ヨハン君を<執行官>として魔術世界に送り出すこと自体が――――一つの<魔術儀礼>みたいなものなのよ」
「僕の人生が――――一つの<魔術儀礼>? 魔術世界って、本当にクソみたいな世界なんですね」
迦具夜今日子が、この世界をぶち壊してメチャクチャにしてやりと思うのも無理はないと思った。
「魔術世界の第一原理――――魔術の発展のためには、ありとあらゆる犠牲が肯定される。これこそが、魔術世界の“一にして全。全にして一よ”」
「…………そのクソみたいな原理の先に、何があるっていうんですか?」
僕は拳を握ったまま続ける。
「そんな冷たい世界で、そんな残酷な世界で――――小さな女の子を喜んで犠牲にするような世界で、魔術師はいったい何を求めているって言うんだよ?」
僕が声を荒げると、龍驤琴乃の貌から表情というものが消えた。
「何も―――――――――――――――――――」
「何もって――――いったいどういうことだよ?」
「言ったままの意味よ。何もない。ただ魔術には先があり、これ以上先に進むことが、発展することができる――――それだけの理由よ」
「…………たった、それだけの理由で?」
「そんな理由? いいえ、それこそが全てよ」
コトノさんの言葉が真実に肉薄し、その黒い瞳の混沌が渦を巻いた。
まるで、その瞳の奥に無限に続く夜が広がっているみたいだった。
「何故、星が回っているのか? 何故、時計の針が進むのか? 何故、生きとし生けるものは遺伝子を残すのか? 何故、人は死を迎えると知っていてなお、人生を歩むのか――――そんなことに意味や理由がいるのかしら?」
「――――――――?」
「個々の“事象”に対して、こじつけや、あてつけ、または魔術的や、科学的な、そして論理的な意味づけや、理由づけはできるでしょう。だけど、そんなものは些細で無意味なものよ。そんなことをして自分を納得させ、慰めるなんてことは、ただ虚しいだけ。ヨハン君、あなたのようにね」
龍驤琴乃は、僕を憐れむように見つめた。
確かに、僕は自分の人生を歩むのに―――――“夢”を見るという理由を、意味を与えた。そうしなければ前に進めなかった。
「ただ、前に進むことができる。進むべき道を見つけることができる。まだ発展していくことができる。この先に可能性がある。至る場所がある。それを知っていながら、先を目指さない、可能性を追い求めない、そんな愚行や、冒涜や、過ちを、魔術師は犯さない――――それが、真に魔術師と呼ばれるものたちよ」
「真に魔術師と呼ばれるものたち」
「これで分かったでしょう? この魔術世界で生き抜くには、あなたは未熟で無知すぎる。私の庇護下に置かれていなければ、生きていけない“雛鳥”も同然なの」
彼女は両手を広げて優しく言う――――
まるで、龍驤琴乃という“巣”の中に帰って来なさいと言わんばかりに。
僕は一瞬、何もかも全て忘れ去って、その暖かな巣の中に帰りたいと思った。
だけど、その暖かさは、優しさは、僕を殺す罠であり――――“甘い毒”だ。
「確かに、僕は無知で未熟な雛鳥だ――――――――」
僕は天井を仰いだ後、龍驤琴乃に向き合った。
「だけど、翼を広げられない訳じゃない」
僕は右手で左目を覆い、この右目――――<ベリアルの魔眼>で、龍驤琴乃を見つめた。
彼女の魂は、とても美しく躍動的だった。手を伸ばしたくなるような輝きを放っていた。
「選べよ――――ここで全てを終わりにするか、僕に賭けるかッ」
そう叫んだ瞬間、僕の体は地面に貼り付けにされた。
五感の全てを封じられ、意識だけが肉体からき離反したようだった
そして、僕は――――ただ僕自身を俯瞰しているだけの存在となった。
指の一本も、わずかな声も出ない。
自分が息をしているのか、心臓が動いているのかすら、分からなかった。
「ヨハン君、あなたを殺さずに生かしたままにしておくことなんてこと、私には造作もない。意識だけを別の場所に――――例えば“暗い箱”の中に封じて、生きた肉体だけをホルマリン漬けにしておくことだって、私には容易い。あなたを、今ここで殺してしまうことだってね」
ソファーから立ち上がったコトノさんが、黒真珠の双眸で僕を見下ろす。
その光景を、僕はただ肉体の外側から眺めていることしかできなかった。
「ヨハン君、残念よ。あなたは、もう少しお利口で、上手く立ち回れる子だと思っていたけれど――――――――私の見込み違いだったみたいね」
龍驤琴乃は、僕に小指の先を伸ばして、くいと動かしてみせた。死を宣告するように。
その瞬間、僕は暗闇に包まれて――――――――全てが終わった。
そう、思った。




