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彼女は鉄の扉を一枚開けると、暗く細長い回廊を歩き出した。
網目状の鉄板が並んだ橋のような回廊で、両脇には心許無い手すりが伸びているだけだった。遠くのほうでゴウゴウ、ギギギ、ガチャガチャと、何か大きなものが動くような音が聞こえてきた。工場か何かの中なのかなと思ったが、何だか巨大な獣の体内にいるような気分だった。
「迦具夜、僕はどれくらい眠っていたんだ?」
「ざっと、半日以上ね――――もう直ぐ、黄昏よ」
「…………そんなに?」
「それでも、無理やり起き上がれるように荒治療を施してだから――――本来なら二、三日には眠っていても不思議じゃなかったわ」
しばらく歩いていると、視界に大きな歯車や発条のようなものが現れた。
「さっき自分の工房って言っていたけど――――ここはどこなんだ?」
工房とは、魔術師が自身の魔術の研究を行うための研究室のような場所のことを指す。
「<庭都>には、たくさんの“時計塔”があるでしょう? そのうちの一つよ」
「時計塔? どうしてそんな場所に工房をかまえているんだ」
「そうね、理由は三つかしら。一つ、まだたいした実績を出していない私に、学園が設備のいい工房を用意してくれないこと。二つ、時計塔はマナを動力としていて、そのマナを魔術の研究に流用できること。三つ、学園内では行いたくない魔術の研究ができること。たとえば――――聖人の観察とかね」
「おい、まさかマリアティアに何かしたんじゃないだろな?」
「さぁ、それはどうかしら? 自分の目で確かめてみなさい」
回廊を突き進むと、再び鉄の扉が現れ――――迦具夜がその扉を開いた。
「マリアティア?」
目の前に現れた光景に僕は戸惑った。
マリアティアは四方をコンクリートの壁で囲まれた、乱雑とした私室のような空間に仰向けになっていて、その瞳はしっかりと閉じられていた。赤い衣一枚を纏い、胸の上で手を組んでいる姿は――――やはり、供物か生贄のように見えた。
「見てみなさいって…………本当に、マリアティアは生きてるのか?」
僕は迦具夜を責めるように言った。
マリアティアは、まるで息の一つもしていないように穏やで、静かだった。
そして、その表情は見ている僕が不安になるくらい、健やかだった。
「一応、“回復”や“治癒”の効果がある魔法陣を描いておいたわよ――――」
そう言うと、迦具夜が軽く地面を踏んで見せる。彼女の足の裏に反応したように、コンクリートの床に描かれた五芒星の魔法陣が淡い緑色に輝いて、マリアティアを照らしてみせた。
「けど、私だって聖骸化しかけた聖人の手当てなんて分からないわよ。一応、こうして安静にはしているけれど…………これが正しいのか、効果があるのかは保証できない」
確かに、迦具夜の言う通りだった。彼女はすでに精一杯の手を尽くしてくれている。
この状況を、どうにかしなくちゃいけないのは――――僕のほうだ。
「私は、大丈夫です。この場所は、とても心地良いです」
僕が現れたことを知ってか、マリアティアがゆっくりと目を開いて僕を見た。
「マリアティア、起きたのか? ――――それより、身体は大丈夫なのか?」
僕は慌てて駆け寄り、少女の小さな手を取った。
それは、とても小さな手だった。
「はい。もう大丈夫です――――」
マリアティアは横になったまま静かに頷き、迦具夜今日子に赤い双眸を向けた。
「あなたも、ありがとうございます。このような格別な配慮を賜り、心より感謝申し上げます」
マリアティアは、僕の後ろに立っている迦具夜今日子に向けてお礼を言った。迦具夜は何も言わずに、この部屋を後にした。もしかしたら、気をつかってくれたのかもしれない。
「ヨハン、ご心配を、それにご迷惑をおかけして――――ほんとうに、ごめんなさい。あなたを、こんなに傷つけてしまいました」
マリアティアが苦しそうに顔を歪めた。
こんな状況でも僕の身を案じているその優しさに、僕は苛立ちを覚えていた。
「僕のことなんて、どうだっていいんだ。そもそも、マリアティアがこんな目にあったのは、僕の――――」
その先を言い淀むと、マリアティアの小さな手が僕の頬に触れた。
彼女の赤い瞳は、優しさと慈しみで満ちていた。
どうして彼女は、こんな状況で――――死を目の前にして、そんなにも穏やかな表情でいられるのだろうと戸惑った。
「いいえ、ヨハンのせいではありません。ヨハンが私の封印を解いたのも、私がヨハンを復活させたのも、そして、私が死を迎えるのも――――全ては、そうなるべくしてなったのです」
「もしかして、全部知っていて…………」
僕がマリアティアの封印を解いたせいで、彼女が魔術師に追われ、僕が封印を解いたせいで、マリアティアは自身の身に移植された奇蹟に耐えられずに死を迎えようとしていることを、そして、僕がどうして彼女を匿おうとしたのかを、マリアティアは全て知っている――――
彼女の全てを見通し、見渡し、見定めたような表情に、僕は思わずそう漏らしてしまった。
「ごめんなさい。ヨハンの優しさを無下にしたくなくて、あなたを傷つけたくなくて、知らないふりをして、あなたの部屋を後にしてしまいました」
やはり、彼女は全てを理解したうえで、全てを受け入れていた。
それも、彼女の与えられた奇蹟の――――<啓示>なんてものの、為せる業だろうか?
「じゃあ、マリアティアは自分から――――メイザースの魔術師の所へ?」
「はい」
彼女は、全てを受け入れたかのような表情で頷いた。その表情はどこまでも清廉で、精悍で、清新だった。美しくし、気高かった。僕自身の醜さを見せつけられるほどに。
「頼む――――そんなふうに達観したみたいに、ぜんぶ分かったみたいに言うのはやめてくれ」
僕は叫びながら続けた。
「頼むから、そんな死んでもいいみたいな、何てことないみたいな態度をとるのはやめてくれ」
「ごめんなさい。私には死を恐れる気持ちがないんです。私は、与えられた“道標”に添って、困り苦しむ人々に手を差し伸べる、ただそのためだけに存在する――――主の子羊です」
「そんな機械みたいなことしなくていいんだ――――そんなの、ぜんぶ嘘っぱちだったんだ」
マリアティアの言葉を聞いた瞬間、僕の我慢や忍耐はあっけなく破局を迎えた。
「マリアティアは偽物の聖人で、マリアティアの肉体には、九つの“不朽体”や“聖遺物”が無理やりに埋め込まれていて、それは…………ぜんぶ魔術師のせいだったんだ。マリアティアの“洗礼名”だって、きっとその聖人たちから取ったものなんだ。ぜんぶ、偽りで、嘘っぱちなんだよ」
僕はマリアティアを説得しようと、大声でまくしたてた。
それが少女にとって、どれほど非情で悲惨な真実かも考えぬままに――――
少女は「多くの方に祝福された証です」と、笑顔で言った。
その笑顔を打ち砕くような、少女の全てを否定してしまうようなことを――――
僕は、僕のエゴで口にしてしまった。
僕は、最低だ。
「…………マリアティア、ごめん。その……そんなつもりじゃ――――」
僕が顔を歪めると、マリアティアは微笑を浮かべて首を横に振った。
「いいんです。あなたの優しさは伝わっています。確かに、ヨハンの言う通り――――私は偽物の聖人で、私の奇蹟は、魔術師の手によって与えられたものかもしれません。しかし、それは、私にとって何の関係もないのです? とるにたらない事実です」
マリアティアは、僕の顔を真っ直ぐに見つめて言った。
穢れの一つも、嘘も、偽りもない、まっさらな表情で続ける。
「そして、私はそのことを知り――――今、喜びに溢れています」
僕には、少女の言葉の意味がまるで分からなかった。
まるで、違う物語のページを読んでいるみたいだった。
「私は今、試されているのです。私の全てを否定されるような真実を前に――――私の思いが破れ、私の信仰が崩れ去り、私の道標が揺らぎ、私の魂が猜疑心を抱き、与えられたものを否定することがないようにと、試練を与えられいるのです。そして、そのような困難を前に――――私の思いは、私の信仰は、私の道標は、一切揺らいでいません。私は、そのことがとても嬉しいんです」
「どうして、どうしてそんなふうに言えるんだよ? ぜんぶが嘘で、偽りかもしれないんだぞ」
「嘘や、偽りがあったとしても――――私のこの“想い”は本物です。ならば、私は、その想いと共に歩いて行ける」
「想いって、何だよ――――マリアティアの、その想いって、何なんだ」
僕の言葉に、マリアティアは零れるような笑みを浮かべた。
どうしてだか、まるで手を差し伸べられたみたいだった。
「私の想いは、あなたを救うことです。私は、ヨハンを救いたい」
「…………僕を救う?」
「はい。ここで目を覚ました時に、私はようやく悟ったんです。私がこの世界に産み落とされ、この時代に目を覚ました意味を――――私は、あなたを救うために目を覚ましたんです」
「…………僕を救うために、マリアティアが目を覚ました?」
「私の“奇蹟”で、ヨハンに憑いた“悪魔”を祓います。そうすれば、これ以上あなたがこの件に巻き込まれることはなくなります。そしてこれから先の人生を健やかに過ごすことができます」
「――――でも、それじゃあマリアティアは?」
「これ以上の“奇蹟”を行使すれば、私は“死”を迎えます。しかし、私は長くない。明日の暁を見ることが叶わない。だから、私は最後にヨハンを救いたいんです。あなたに手を差し伸べたい…………………………ダメですか?」
全てを包み込むような、暁の瞳にそう尋ねられ――――
僕は何と答えればいいのか、まるで分からなかった。
僕の右目の悪魔を祓うことができる。
しかし、引き換えにマリアティアは命を失う。
ここで命を失わなくとも、彼女の生命は長くない。
そして、ガラアーベント・メイザースは、まだマリアティアを狙っている。
どの道を選んでも、結局のところ――――マリアティアの死は避けられない。
それだったら――――僕が救われても、いいのかもしれない。




