灯夜咲夜の意趣返し
四月の陽気は、妖気だったから、僕は、大好きな午後の世界史の授業、剣を振り回して魔獣と戦うのに費やさなくてはいけなかった──夢の中で。現実では、「僕sir」は睡魔に三ラウンドでKO負けしている。願わくは、一番後ろの席であることが幸いして、先生の講義をBGMにしたのがバレていないことを。
そう言えば、夢の世界ではドラゴン相手に健闘していた気がする。所詮、それは良い音色を出すためにストラディヴァリウスを求めること並に(いいたとえが浮かばない)ナンセンスなんだけど、現実では無力な僕が勇者だったのはなかなかに面白い。でも睡魔に勝っていれば、ドラゴン相手に大立ち回りを演じるという事態自体は生じなかったはずだ。そして、仮眠と呼べる程度ならまだしも、せめて邯鄲ほど一瞬ならまだしも、敗北したボクサーはなかなか元の世界に戻ってなかった。チャイムの音がアラームとなって起きた彼は、楊貴妃と玄宗を襲った悲劇を白居易が詩にしたことを熱心に教えていた板井先生が、いきなり宋の滅亡を教えているという、摩訶不思議な状況に遭遇したのだった。
さて、十分すぎる休養をとって心身ともに快調だったけど、意識がはっきりしてきた頃には僕を除いて一人しか教室に残っていなかった。残念ながら名前は思い出せないけど、その子は右手に箒、左手にちりとりを持って、日直としての職責を立派に果たしていた。本来日直は二人いるはずなのだが、一人しかいないということは相方はすっぽかしたのだろう。
僕は一度も仕事をしなかった鉛筆と消しゴムを筆箱にしまいながら、名を失念したことへのささやかなお詫びとその仕事ぶりへの賞賛を込めて、彼女の後ろ姿に「日直の仕事、ちゃんとするなんて偉いね。みんな全然やらないのに」とフランクに声をかけた。まったく元気が有り余っているせいで、僕らしくないことをしたもんだ。
返事には少し間があった。いきなり話したことない男子に話しかけられて戸惑ったのかもしれない。
「当然でしょ。誰かさんが日直の仕事をサボタージュしてるんだから」
まるで僕が責められているような怒りのこもった口調だった。だが、僕は今すぐ部室に直行しなくてはならない。他の部員に何を言われるかわかったもんじゃない。気の利いたセリフが浮かばない僕に言えるのは、せいぜい、
「僕はこれから部活だから、残念ながら手伝えないけど、Good luck!」
これぐらいだった。
今度は返事はない。
いよいよ荷物を整理し終わり、部室へ行くために教室を後にしようとした。まさにその時、
「あ、今思い出したんだけど」
僕は扉に背を向けた。
「板井先生が放課後職員室に来いって言ってたよ。あの野郎、俺の魂込めた授業で寝やがってってすごく怒ってたよ。Good luck!」
そう言う灯夜さんはとても笑顔だった。
職員室を出た僕は,深いため息をついた。板井先生はなんと僕の居眠りに気づいていなかった。さては灯夜さんは日直に対しての恨みを僕にぶつけたのだろう。まあ,根本的な原因は僕にあるので彼女の行為を否定できない(し,あの笑顔を見られただけで充分おつりがくる)。
だけど,板井先生のありがた~いお叱りを頂戴したせいで、せっかく回復した体力はまた元に戻ってしまった。差し引きゼロなら最初からなければよかったのに。しかしながら、そのおかげかは知らないけど、世界史の教科書や資料集をロッカーに(入れておくことを)忘れていたのに気づいた。家で使うことなどまずないのに、やたらと重いそれらを持ち運ぶのは、原料産地でもないのに石油化学コンビナートを内陸部に造るように愚の骨頂だ(また喩えが変だけど、ある意味あってるかも)。
……相変わらず、比喩が下手くそだなあ。自分自身の文筆力に呆れた。アメリカ副大統領のスペルミスを知った米国民よりも呆れた。日常生活に必要なことが覚えられず、どうでも良い知識だけが脳内メモリを圧迫していく一種の病気のせいで、起きたことを手帳にメモを取ることが多い。(余談だけど、今読者のみなさまが読んでいるのもそのメモだ)。それなのに一向に文章の上達の兆しが見られないのは文才がないからに違いない。もしかすると、上達してこのレベルなのかもしれない。
──などと考えを巡らしているうちに、ふと、思い出した。そう言えば、一時間前──お説教は第九の演奏時間並だった──に灯夜さんが綺麗にしていた教室はどうなったのだろう。
それに,もしまだ教室に残っているとしたら灯夜さんに一応聞いておきたい,僕をハメたことについて。明日の朝になればわかるのだろうけど、健忘症の僕は,明日の朝にはきっと忘れている。
僕は不審者のように、ドアの窓から自分のクラスの教室を覗きこんだ。
まず目に入ったのは、黒板以外だった。席は丁寧に配置され縦と横がちゃんとした列となって直交している。床は僕が去った後も掃除されたようで、初めて教室に入った時を思い出させるようなくらい、教室は手入れがなされていた。一人でするには随分と苦労したに違いない。普段はしょんぼりしている花も、花瓶の水が入れ替えられたようで生き生きとしていた。
だけど、黒板は角度的に見にくく、わずかに見える部分もガラス越しにはその状態がよく解らなかった。仕方なく教室に入ることにした。ドアを開け、教師のように教壇に上り、黒板の方を見やる。雑巾がけされグリッドまでくっきり見える。当然黒板消しも綺麗になっている。まるで学期に一度の大掃除をした後のようだ。
だがしかし、黒板右下の日直欄だけ、汚いままであった。
……その日の日直が灯夜さんと僕だったのは言うまでもない。