空の首輪
くまのキャラクターの絵柄入った赤いマグカップに真っ黒な液体を注ぐ。香ばしい匂いが白い蒸気とともに、リビングを充満させた。口に含むのを待ち望み、三分程待ったところでやっとその真っ黒な液体は私の喉を潤した。
もう一つの同じ絵柄の黄色いマグカップにも真っ黒な液体を注ぐ。それを彼の前に置いた。
「ありがとう」
彼は寝起きのぼんやりとした顔つきで、それを一口一口ゆっくり飲んだ。液体がきちんと胃まで流れるのを確認してから次の液体を注ぐように。
午前11時、遅すぎる朝。カーテンの隙間から光が差し込む。ストーブの前に座り体を温めてから立ち上がった。
「出かけよう」
今日の夕ご飯はさつまいもの炊き込みご飯にしようと決めていた。
「うん」
眠たげな少し低い声で彼は返事して、シャワーを浴びに行く。彼は1日に2回お風呂に入る。綺麗好きと思いきや片付けなんかは全然しなくて、特に車の中は汚い。たいてい、空のペットボトルや缶がいくつも座席の下や横に置いてあったりするのだ。
彼がタオルで髪を拭きながら戻ってくる。ふわりとボディソープの匂いがした。
「わんちゃん」
「なに」
彼の髪の毛をバスタオルで乱暴に拭く。
「やめて、髪ぐしゃぐしゃになる」
「雨の日に捨てられた犬みたい」
「犬じゃない」
「犬でしょ。わんちゃんて呼ばれるの嬉しいくせに」
「嬉しくないわ」
と否定しながらもごもごと口を動かし、零れそうになる笑みを制御しようとしている。
「今、尻尾振ってるでしょ」
ときどき、私は彼を「わんちゃん」と呼ぶ。その名の通り、犬みたいだからだ。茶色くて少し短めの髪はまさしく柴犬の毛並みのようだし、何か自分のツボにはまることがあると本当に面白そうに、あどけない小学生のように笑う。目じりと頬のシワをくしゃりとさせて。笑顔、仕草、華奢で小さな体も全てが仔犬を連想させる。
「さて、いきますか」
本棚の上に置いてある雲一つない快晴の、空のような水色の首輪を持ちあげ彼の首につけた。首元はタートルネックで隠す。
「わんちゃん、お手」
頬は緩みながら、しかしぶっきらぼうに、わんちゃんは私の手のひらを軽く叩いた。胸がくすぐったくてあははと声が出た。
わんちゃんは、私の目を見つめる。目の表面を潤ませて、何かを欲するように。タートルネックを喉仏まで下げて、首の上のほうに唾液を染み込ませるようにキスをした。わんちゃんの瞳の真ん中にくっきりと私が映る。
さも恋人らしく指を絡ませ、寒さで肩を震わせながら身を寄せて近所のスーパーまで歩いた。「寒いけど天気いいね。お弁当作れば良かったかな」なんて、たわいない話をしながら。目当てのさつまいもは1本90円だった。他にも切らした野菜やベーコンも買った。わんちゃんは「こっちのほうが安い」と言いながら品物を交換してくる。こういうことは結構あって、よくできた犬だと毎回惚れ惚れしてしまう。
私達は昼食を食べていなかったので、ペットボトルのミルクティーとカフェオレ、それからスーパーの中のパン屋でサンドイッチとカステラパンを買った。
買い物が全て終えたら、そのまま公園に向かう。施設としては滑り台とタイヤを半分地面に埋め込んだ遊具、雨でももう落ちない、土の汚れをまとった動物の形のシーソーしかないが、私達成人がひと休みできるようなベンチと広い芝生がある。
ベンチに座る。息を吐く、白い。ミルクティーは砂糖味っていうくらい甘い。
「これがカステラパン」
「ありがとう」
「サンドイッチはどっちの味がいい?」
「どっちでもいいよ」
「本当?じゃあ私は照焼きチキンのほうね」
「うん」
彼はBLTサンドイッチを受け取り、紙をペリペリと剥がして大きな口で噛り付いた。空腹のあまりお互い沈黙のままひたすらサンドイッチを食べたあと、カステラパンに移った。
「ん、おいしい。ケーキとパン一緒に食べてるかんじ、はまりそう」
「でしょ。食わず嫌いは良くない」
「だな」
彼が口を動かしながら目尻を垂れ下げた。唇の端にパンのかすをつけて食べているのが何ともアホらしく映る。
「…ムカつく」
「なんでよ」
「ムカつく」
「俺何もしてないじゃん」
「そういうとこがムカつくの」
「分かったから、あんま見ないで。食べるのに集中できなくなる」
「なによ、その冷たいセリフ。本当は嬉しいくせに」
あんまり肉のない頬を軽くつねる。そうすると彼の瞳はほら、また潤む。自分の親指と人差し指のひねりの強さが足りなくなり、一瞬かなりの力を強めた。
「痛い」
本当に苦痛そうな声を出したので、すぐに手を離した。
「あなたが悪い、犬だから悪いの」
わんちゃんの赤い痕がついた頬を見つめる。私がつけた赤い痕。
「ねぇ、首、気持ちいい?」
サイドの髪が頬にかする程度に首を傾げて聞いた。わんちゃんは黙ってる。私から目を逸らしそっぽを向く。
「ねぇ、だめ。こっち見なきゃ」
わんちゃんの首に両手を添えて自分の方に向けさせた。
「首こうされると、くすぐったいんでしょ」
ふっと善がるように息を漏らし、あいかわらず潤みを帯びた瞳で再び私を捉える。
「ねぇ、私、わんちゃんが大好き、世界の誰より大好き。わんちゃんの首筋をこうやって触れるのは、私だけよ」
軽く添えた手に、締め付けるように力を入れる。あなたの息の根を止めないよう、その微妙な加減で。わんちゃんの吐く息が深くなる。その目が堪らなく私の心をかき乱す。
「知衣、好きすぎて苦しい」
涙目で私を見て、掠れた声で言った。欲しがるように私を見たので、望み通りに彼の唇に自分の唇を押しあててあげる。下唇を吸い上げてゆっくり離した。
日の光は胸を締め付けるくらいに淡く柔らかく、空の色は薄くどこまでも透き通り、まるで私達のためだけに存在するもののようだった。
本棚の上の空色の首輪が主張せずにそこに置いてある。形を成すことができない私の気持ちをくっきりとそれが形づけてくれる。愛しているという気持ちは最終的には悲しみしかない。どれだけ想いを口から表し表されても、どれだけ体を触れ合いあらゆる体液を交えても、とりとめもない気持ちのままだからだ。繋ぎとめておきたい、本当は四六時中、私の手綱の先に彼がいてほしい。
首と胸のところに無数赤い痣が鏡に映る。私の頭の中で私の犬が小さく声をあげ身体をひくつかせる。
『わんちゃん、私だけの、わんちゃん』
呪文のようにいつもの台詞をささやき、彼を捉えたと自分に錯覚させ、そして息が吸えないくらい何度も舌を絡ませた。彼は私のものだと、一人家にいるときも思えるように、唇の感触を思い出す。
サボテンに水をあげていたとき、ケータイが鳴った。着信は彼からだった。
「今、仕事終わったとこ。知衣はいまどこ?」
「自分の家」
「今から家行っていい?」
「いいけど。そういえば昨日なにしてたの?日曜日だったじゃない」
私は何気なく聞いただけだった。
「あー、えっとな、飲み会したんだ」
「飲み会ね。二次会にお姉さんがたくさんいるとこで飲んできた?」
犬、もとい恋人がキャバクラや風俗に行くのは時たまだったら許可していた。遊びと性欲を解消する場所だと自分自身割り切って理解できたからだ。締め付けすぎて離れていくのが嫌だった。というか、男全体に対して諦めが入っているのかもしれない。1人の女だけを一分一秒足りとも見つづけるのは生き物として無理なのだと。身近な女の子に本気になられるくらいなら、そういうところで解消してほしかった。彼が実際お店に行っているのかは分からないけれど、私そののけでのめり込みはしないと信用していた。
「いや、行ってない」
「そうなんだ。中学の友達と?」
「うん、あれだよ、和樹」
「ああ、和樹くん。楽しかった?」
「まぁまぁ。和樹さ、ずっと彼女できないって嘆いてて。だから俺の女の子の友達呼んで合コン開いたんだよ。だけど全然…」
「へぇ、合コン行ったの、知らなかった」
「あ、ああ。でも、元々俺の知り合いの子だから言うまでもなく俺自身の出会いはないよ」
「ふぅん」
私の周囲の空気がぴんと張り詰め、冷たくなる。目の前のサボテンのトゲに人差し指を押し付けた。
「そんな話聞いてなかった。切るわ」
彼はふつうの女の子と飲みに行った、私に報告もせずに。真っ直ぐに私を見つめたあの瞳を思い出すと寒々とした。あんな風に言っていたけれど、自分の女友達と飲むなんて、合コンという名のつくところに行ったなんて、他の恋もしてみたいという気持ちが多少なりともあったとしか思えない。
人差し指から赤い点が浮き出てきた。舌に触れると鈍い味。あなたの潤んだ瞳が、短い舌で一生懸命にキスをする唇が、少年のような笑顔が巡った。だけどこちらの譲歩がありながら、ふつうの女の子と会って飲んだ、出会いを目的とする項目で。だから決めた。心をえぐられる前に、手綱から離れられる前に。
インターホンが何度も鳴った。私はゆっくり玄関へと歩いていく。
「知衣…ごめん…」
彼は息を切らしながら、胸をぜいぜいとしながら言った。私は黙って彼を見つめるだけ。
「知衣に言わなかったのは、俺の友達だし、本当にやましい気持ちがなかったからなんだ。特別な予定でもなんでもなかったから逆に聞かれるまで言おうとも思えてなかった。本当にごめん」
彼は深く深く頭を下げた。まだ息を切らしているのが分かった。元々喘息持ちで、華奢な体の彼はあまり体力がない。体力がないなりに、必死に走ってきたのが見てとれた。彼はまだ黙ったままの私の顏を見てきた。
「うん、でも、もう終わり」
乾いた冷たい空気が外から流れてきた。
「知衣…ごめん。本当に、ごめん」
顏の全体を歪ませ、今にも倒れてしまいそうなくらい、体を震わした。
「あなたをもう信じられないの。こんな私でごめんね」
「知衣…!」
果実がぐしゃりと潰れたような、カエルが地面に叩きつけらた音のような声を聞き、玄関のドアを閉めた。
しばらくインターホンと、玄関のドアを叩きつける音が止まらなかった。止んだと思ったら今度はケータイの振動が続いた。やっとケータイの振動が止まるが、まだ彼は玄関の先にいるような気がした。早朝、彼がアパートから離れていくのをベランダから確認した。
あんな声を出すくらいなら、最初から約束を破らなければいい。手綱から離れていく感覚を味合わせた犬はもういらない。今まで犬達を許した経験は幾度もあった。けれど、許したってまた同じことを繰り返す。経験を重ねた答えだ。
最後の、涙をいっぱいに貯めた瞳の彼を見て終わり。そうすれば、悲しみのどん底にいかなくて済むから。
また空色の首輪が似合う犬を見つけなければ。
ホワイトデーの彼から貰ったくまのマスコットが視界に入ると、再びカエルが叩きつけられる音がした。はめるあてのなくなった空っぽの首輪が主張してきた。
〈終〉