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第一章 ウェントワース通りの殺人

十月十七日午後二時頃 ウェントワース通


 事件現場となったウェントワースストリート細民街東端区イースト・エンドのほぼ中央を通る狭い路地の為、ペスター警部は辻馬車の御者に少し手前のコマーシャルストリートで降ろすように伝えた。


「だれかやつを見かけたか?やつがどこだか知らないか?もしもやつに出会ったらそのナイフを取り上げろ。それをレディに渡して二ペンス奪ってとんずらだ」


 辻馬車をおり、犯行現場へと向かうその途中、すれ違う子供達はみな同じ歌を口ずさんでいた。母親に教えてもらったのか、きっと意味などわからずに歌っているのだろう。


「いつ来ても荒んでいるわね、この地区は」


 世界の塵埃ごみ棄場と呼ばれる細民街東端区イースト・エンドは、金に困窮した労働者たちの溜り場だった。ここでは大人も子供も毎日空腹を抱えながら街をさまよい、金になるものを拾い歩き、たまにけちな盗みをして、野良犬のように生きている。そこにモラルや道徳という概念はなく、悪質な犯罪がたびたび起こる為、スコットランド・ヤードも取り締まりに手を焼いていた。


「お疲れ様スタンリー。なにかわかった?」

「ペスター警部。申し訳ありません、まだこれと言ってご報告できるようなことは…」

「そう」


 現場に到着したペスターをむかえた長身の警官は、手帳を手に駆け寄ってきた。


「現場は被害者が発見された時のままにしてあります」

「案内して」


 ペスターはずけずけと奥へ進んでいき、スタンリー巡査は慌てた様子で彼女のあとを追った。

 それは路傍にうつ伏せの状態で横たわっていた。溝に並行して倒れており、首の下のほうにあった深い傷と切断された左手がちょうど溝の上にあった為、大量の血は直接下水道へと流れた。一見して怪我をしている様子ではない。

 そのため、最初は泥酔女が路上で寝ているのだろうと周囲の者たちは思い、声を掛けなかった。この辺では珍しいことではないからだ。


「そして午前十一時頃、巡回中だったベスナル・グリーン署のジョナサン・マイセン巡査が発見するまで被害者は放置されていたそうです。遺体は明け方にはすでにこの場所にあったと複数の住民が証言しているので、まず間違いないかと」

「つまり犯行は少なくとも夜明け前ってことか。やれやれ、面倒なことになったわね」


 ペスターは言った。

 ただでさえ異様な事件なのに、犯行が夜ともなれば目撃者は確実に少ない。念のため、犯行時の目撃者と不審者の目撃情報がないかを確認したが、ペスターの予想通り、手掛かりはなにもないそうだ。


「被害者の身元は?」

「それもまだ。現在、付近の宿屋と下宿屋に人をやっています。今しばらくはかかるかと」

「仕方ないわね。それじゃ、私達は先に周囲の聞き込みからはじめましょう。昨日の晩から今朝の明け方にかけて、この辺りをうろついていた浮浪者、現場周辺を根城にしている乞食、誰でもいいわ。とにかく情報を持ってそうな奴に手当たり次第あたってちょうだい」

「了解しました」


 ペスターとスタンリー巡査が死体から少し離れた時、ペスターより一足遅くスコットアンド・ヤードを出たキングストンがちょうど現場に到着した。


「遅くなりました、ペスター警部」

「キングストン巡査。来て早々に悪いけど、あなたも付近の聞き込みにあたってちょうだい」

「聞き込みですか?」

「そうよ。あなたには被害者の身元調査をお願いしたいの。宿屋と下宿屋にはすでに別の者を向かわせているから、キングストン巡査はこの近辺の住民に被害者を知っている人がいないか調べてちょうだい」

「わかりました。では先に被害者を見てきてもよろしいですか?」

「いいわ。それじゃよろしくね」


 ペスターと別れたキングストンは、すぐに被害者のもとへと向かった。ちょうど警察嘱託医のジョン・タウン医師が仮検死を行っている最中だった。


「ご苦労様ですタウン先生」

「よお、キングストン。相変わらずお前は小さいな。ちゃんと飯食ってんのか?」

「もう背が伸びる歳でもありませんが、食事はきちんと頂いてますよ。それよりも先生、検死のほうはどうでしたか?」

「あぁ、ひどいもんだ。右耳下から咽喉の中央にかけて約四インチ、小さいがきわめて深い傷だ。頸動脈を裂かれている。これが致命傷でまず間違いないだろう。手首を持っていかれたのが意識を失ってからで良かったと思うべきか。可哀想なことをしてくれたもんだ、まったく」

「そのわりに現場は思いのほか汚れていませんね。頚動脈と手首を切られたら、普通もっと出血があってもいいのではないでしょうか?」

「それは彼女はうつ伏せに倒れていたせいだな。血糊のほとんどはこの厚い服が吸い込んでいる。手首からの出血と吸いきれなかった残りの血液は今頃下水と一緒にテムズ川を優雅に流れてるだろうよ」

「なるほど」


 キングストンは死体に歩み寄り、かたわらにひざまずいた。たしかにタウン医師の言うとおり、被害者の身に着けている赤褐色のアルスター・コートと褐色のリンゼー上着、それに木綿のスカートは血まみれになっていた。

 他に手掛かりになるものはないか。なにかあの人に報告できるような情報は。

 キングストンはポケットから丸い拡大鏡を取り出し、死体のあちこちをせわしなく観察し始めた。そしてしばらくして、他の血糊の色と明らかに違う部分を被害者の衣服の一か所から見つけだした。


「先生、この黒い染みも血が乾いたものでしょうか?」 

「んん?どこだ」

「右肘のあたりです。ほら、なにか擦れた跡のようにもみえますが」

「これは…血ではないな。血液ならもっと赤黒く変色するはずだ。インクかなにかじゃないのか?」

「インク?気になりますね」


 キングストンはすぐさまポケットから厚ぼったい手帳を取り出し、余白に何かを書き込んだ。それを見て、側にいたタウン医師が仮検死の結果を述べ始める。キングストンはそれを一字一句逃さないようにペンをはしらせた。


「死亡推定時刻は午前一時から三時の間。死因は首の頚動脈を切断されたことによる出血死または外傷性ショック死。犯行は被害者の背後から躊躇いなく行われており、また一発で頚動脈を裂いているところから犯人は日頃からナイフの扱いに慣れた人物と思われる。凶器は見つかっていないが、切り口の大きさからコルク職人のカッターナイフか、靴職人が細工用に使うナイフと推測できる。とりあえず今はそれくらいしか分からん。そうあの馬鹿に言ってみろ。少しはこの事件に興味を持つかもしれん」

「…さすがですね」


 あっけにとられているキングストンをよそに、タウン医師は怪しげな薄笑いを浮かべた。


「お前の諦めの悪さは知っている。アイザックを焚き付けるつもりなんだろう?」

「先生にはすべてお見通しですか」

「まぁな。それにあいつとは昔組んだよしみだ。行動パターンくらい読める」

「そうでしたね」


 リーヴスがまだ最前線で事件を追いかけていた頃、彼の事件の検死をよく担当していた医師がジョン・タウンだった。ともに「気鋭」と呼ばれた二人。些細な死因も見逃さないタウン医師と、桁外れた観察眼をもつリーヴスのコンビは次々に事件を解決し、スコットランド・ヤードでも随一の検挙率を誇る名コンビをなりつつあった。

 しかし、たった一つの事件がその快進撃に終止符を打った。五年前のことである。

 タウン医師とリーヴスの付き合いはキングストンが彼の部下である時間よりもはるかに長く、そして濃い。以前の「新鋭」と呼ばれたリーヴスを知っているだけに、彼の怠惰な現状を誰よりも悲しんでいるのは他ならないタウン医師でもあった。


「あいつはまだ出てこんのか?」

「…はい」

「しょうがない奴だな。一体いつまで引きずっとるんだ昔のことを。忘れろとは言わんが、いい加減踏ん切りをつけるべきだろうに」

「私もそう思います」

「あまり不謹慎なことを言っちゃいかんが、あいつが芯から駆り立てられるようなややこしい事件でも起こってくれんもんかね。このままじゃ腐っていく一方だ」

「…」


 キングストンは無言でタウン医師を見つめ、タウン医師もそれ以降は唇を引き結んだまま鋭い目つきで眉根を寄せていた。



【ウェントワース通りの殺人事件における報告書】

被害者は女性。二十代後半から三十代前半。

死体発見は午前十一時。ベスナル・グリーン署のジョナサン・マイセン巡査が発見。

死亡推定時刻は午前一時から三時の間。

右耳下から咽喉の中央にかけて約四インチの切り傷。これが頸動脈を切断した致命傷。

切断された左手首の所在は現在捜索中。

血糊はほとんど衣服に吸い取られ、若干が溝に流れ出ていた。

衣服の一部の染み有り。黒のインクの可能性大。

犯人はナイフの扱いに長けている人物。

凶器はコルク職人のカッターナイフか、靴職人が細工用に使うナイフと推測。



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