プロローグ
一八八二年 ジョーンズ邸
十月十三日。
部屋に入るなり、クレア・ジョーンズ夫人は怒りに声を震わせた。
「これ以上駄々をこねて私を困らせないでくださいね。相手が決まったらそこのメイドに伝えなさい。いいですね、相手を決めるまでは部屋から一歩もだしませんから!」
ジョーンズ夫人が部屋をでてすぐ、扉の外側にある鉄のかんぬきがガチャンと音をたててかけられた。これでもう逃げ出すことはできない。
部屋に取り残されたレイチェルはすさまじい虚無感に襲われ、絶望していた。
まだ先のことだと思っていたのに…。
社交界に出席しなければならないことは覚悟していた。自分の生まれた家を思えば、それは避けられないことなのだと。しかしどこかで僅かな希望も抱いていた。
結婚相手を探す場としての社交界。出席するのは十六を過ぎてからだ。しかし普通はある程度の時間をかけて、相手の爵位や財産などを吟味して相手を選ぶ為、だいたい十八歳くらいで結婚することが多い。
まだ二年あると、そう勝手に思い込んでいた。その考えが甘かった。
「結婚だなんて…」
早すぎる。
全身から力が抜け、レイチェルは崩れるようにその場に膝をついた。
「お嬢様!」
傍に控えていたメイド、エリン・オースティンがすぐさま駆け寄り、レイチェルの身体を支えた。のぞきこむと彼女の顔は真っ青になっていた。
「あぁ、エリン。私どうすればいいの?」
レイチェルはいっそう強くエリンの身体に強くしがみついた。絞り出すように呟いたレイチェルをエリンは痛々しいような顔で見つめた。
***
一八八二年 スコットランド・ヤード
十月十七日。
誰かがドアをたたく音で目が覚めた。ふと暖炉に目をやると、数時間はもつようにと出勤して一番に燃べた薪は半分ちかくが消し炭へとかわっていた。
小さなくしゃみをしたとたん、軽い頭痛に襲われてアイザック・リーヴスは無意識に顔を歪めた。
やれやれ、いったい僕はどれくらい眠っていたんだ。すっかり身体が冷えてしまった。
あまり頭を動かさないよう、半分落ちかけていたカーディガンをしっかりと羽織り直し、ちらりと扉に目を向けると、部屋のドアが勝手に開き、七つの金ボタンがついたブルーの制服に、真鍮のバックル付きベルトを巻いた男が入ってきた。
「失礼。邪魔をしてもよいかね」
スコットランド・ヤード警視監補であるサディアス・グレッグ・ジョーンズは、リーヴスの返答も聞かずに後ろ手でドアをぴたりと閉じた。
「仕事中だったかな?」
「とんでもありませんサディアス警視監補。そちらへどうぞ。今部屋を暖めます」
リーヴスは暖炉の薪をつついて火をかきたてながら、肘掛け椅子に深く座ったサディアスの様子をひそかにうかがった。
一体なんの用だ?
五十過ぎのその男の顔は青白く、目は腫れぼったくなり、ひどく大きな心配事に悩んでいるようにもみえた。
「お待たせしてすみません」
リーヴスは愛用の肘掛け椅子に腰をおろしながら言った。
「それで、僕はまたなにか規則違反でもしたんでしょうか?」
「いや、君のことはパウエル警視正から聞いている。とても優秀な警部だとね。規則違反とは、何をしたのかね?」
「それは…」
すぐに思い当たることと言えば、先日新たに支給された拳銃エンフィード・マークⅠモデルの威力を試そうと、部下であるキングストン巡査めがけて発砲したことか。それとも昨日、提出期限のきれてしまった書類を全部まとめて同期のペスタ-の愛馬オリヴィアに食べさせたことがバレたか。
まぁどちらにせよ、今ここでそれらの事実を話すことは得策ではない。
オリヴィアの件はペスターの怒りを買うだけですむが、キングストン巡査への発砲は最悪の場合、ヤードからの追放もありえる。つまりは解雇だ。それだけは避けなければいけない。
リーヴスはその広い肩をすくめ、笑みを浮かべながら言った。
「いえ、とくには何も問題ありません」
「そうか。ならばいい」
「ところで、今日はいったい?」
「詳しい話は後で説明しよう。まずはこれを見てくれるかね」
サディアスはポケットに入れていたロケットを手渡した。リーヴスがロケットを開けると、中には正面を向いた女性がうつった写真が入っていた。つややかな金髪、大きな淡褐色の瞳、魅力的な口もと。かなり美しい人だ。それに着ている緑っぽいドレスも、ランプの光にあたった部分の光沢からみて、上等な生地のようだ。それなりに裕福な人間なのだろうということはすぐに推測できた。
だが、これが何だというんだ。嫁自慢か?まさかな。
リーヴスはしばらく熱心にその写真を見つめていたが、意図を測りきれず、やがてロケットを閉じ、サディアスに返した。
「綺麗な奥様ですね」
「娘だ」
「これは失礼」
「いや、気にしないでくれ。それで?」
「それで、とは?」
「娘だ」
「はぁ、その娘さんが事件にでも巻き込まれましたか?」
「違う」
「じゃあ僕と同じで医者捜しにお困りなんですね。なら安心してください。僕の主治医を紹介しますよ。腕も人柄も最高の方です。名前は…」
「違う!そんなことを聞いてるんじゃない。私が知りたいのは、君からみて娘はどうみえるかという一点のみだ!」
「急にどうと聞かれましても、困りましたね」
「さっさと答えたまえ!」
サディアスがいきなり椅子から立ち上がり、大声をあげたが、リーヴスはひるむ様子もなく「綺麗なお嬢様だと思いましたが」と素直に答えた。それを聞いてサディアスは安堵した表情を浮かべ、ふたたび椅子に身を沈めた。
「そうか。ならば安心だ」
「失礼ですが、それは何に対しての安心なんでしょうか?」
「リーヴス君」
「はい」
「親の欲目ではないが、娘のレイチェルは器量がいい。とても素直で優しい子だ。それに常識や分別もわきまえている」
「それはきっとサディアス警視監補の教育の賜物でしょう」
「そうだ。だからきっと君をたてるいい嫁になると思うんだが」
「は?いやはや、それは面白い冗談ですね。サディアス警視監補がこんな面白い方だとは知らなかった。ははは」
「私は冗談を言ったつもりはない」
「…」
「娘のレイチェルをもらってくれないか」
「まさか!」
「こんなことを冗談で言うかね。娘のレイチェルは今晩ある方の社交界に招待されていてね。そこで君に娘のエスコートをお願いしたい。無論、婚約者としてだ」
「どうして僕が!」
リーヴスは立ち上がり、叫んだ。
顔も今初めて見た、ろくに知らない女と結婚しろだなんて、この男は頭がおかしいんじゃないか!
頭に血がのぼったリーヴスは突然立ち上がり、戸棚からブランデーを一本取り出すと、注ぎ込むように口の中へと流し込んだ。彼は極度に興奮したり、その反対にひどく虚脱したときに、ある種のヒステリックな発作が出る。その発作をおさえるにはもっぱら酒に頼るしかなく、主治医には「立派な依存症ですね。もう中毒と言ってもいいでしょう」とこの前診断されたばかりだ。
しばらくしてリーヴスは正気に戻ったが、顔はほてったまま。暖炉の前に立ち、パチパチと燃えさかる薪をじっと眺めながらつぶやいた。
「どうして僕なんですか?」
「娘が君を、と望んでいる」
「それはなんとまぁ。警視監補には失礼ですがずいぶんと男あさりに積極的なお嬢さんだ。本来、社交界のエスコートは女性から申し込むものではないことくらいご存知でしょう。それでもまだお嬢さんが分別をわきまえていると仰るのですか?」
「何とでも言ってくれ。ただし、もし万が一にでも君がこの誘いを断るようなことがあれば、それは上司である私の顔に泥を塗る恥ずべき行為だと思ってくれてかまわない」
「なるほど。とてもわかりやすい恐喝ですね」
「冗談を言わないでくれたまえ。私はただ、君がまだスコットランド・ヤードで警部を続けたいと思っているのなら、よけいな詮索はせずに首を縦にふった方がいいと親切に教えてあげているのだよ」
「…」
「返事は、聞かなくていいね?」
スコットランド・ヤードにおけるサディアスの階級は”警視監補”だ。本来ならば階級が四つも下の”警部”であるリーヴスがおいそれと会話できる人物ではない。ましてや警視監補の命令を拒否するなど出来るはずもなかった。
それを承知のうえで、仕事には全く関係のない極めてプライベードに関わる問題を自分に押し付けようとするサディアスにリーヴスは怒りをおぼえた。しかし、こうもあからさまに「職を失ってもいいのか」という脅しをかけられては沈黙という肯定の意を示すほかならない。
「社交界は今晩八時からだ」
「……わかりました」
「君が話の通じる賢い男でよかった。リーヴス、君とは今後ともいい付き合いが出来そうだ。あぁ、それとヤード内での規則を無視した君の目に余る行動。決して褒められたものではないが、それは私の方で今後もなんとかしよう。悪いようにはしないから安心したまえ。では、これで失礼するよ」
ご満悦な体でサディアスは部屋を出て行き、一人残されたリーヴスはしばらくしてから部屋の中をのそのそと歩きまわり、最終的に入口近くに置いてあったトップハットをドア目掛けて思い切り投げつけた。
「くそっ!あの忌々しい狐顔め!なにがいい付き合いだ!そんなもの誰がしてやるものか。こっちから願い下げだ!くそっ!僕としたことが何故あんな奴を部屋に入れたんだ!一生の不覚だ!」
リーヴスがいきなり大声をだしたのと、突然部屋の扉がバタンと開いてブルーの制服を着た女性ヴィヴィアン・リーラ・ペスターが入ってきたのはほぼ同時だった。
「あらなに?今日はずいぶんと楽しそうじゃない。いつも寝てばっかのくせに」
「ペスター!僕の許可なく勝手に部屋に入ってくるなと何度言えばわかる!君はいったい幾つになれば人の部屋にはノックをして入るという至極一般的な教養をその陳腐な脳みそに詰め込んでくれるんだ!」
「そうね。あなたが私のオリヴィアにしたことを洗い浚い(あらいざらい)話して、床にその額をこすりつけながら謝罪の言葉を述べるなら、少しは覚える努力をしてあげてもいいわ」
「ふん、あの雌馬か。ついに下痢でもおこしたか。どうせ下痢になるならあと数十分前におこしてくれれば、僕の人間性というものが心底疑われたのに。飼い主に似て空気の読めない雌馬だ!」
「はぁ?どういう意味よ?」
「そのままの意味だ!くそっ!みんなして人を馬鹿にしやがって!」
リーヴスの大きな声と荒々しい振る舞いにペスターは少しも驚きはしなかった。いつものことだ。どうせ酒がきれた時の禁断症状の一種だろうと勝手に悟り、呆れ顔で「駄目だわこの男」と頭をふった。
その時、馬の蹄のかたい響きと、車輪が歩道の縁石にあたってきしる音が聞こえたかと思うと、続いて丁寧な感じでドアをトントンとたたく音がした。
「リーヴス警部。キングストンです」
「おぉ、キングストン君!君はなんて素晴らしいんだ!」
不機嫌だったリーヴスの顔は急変し、目を輝かせ、誇らしげに鼻と顎をつきだして、ペスターを睨み付けた。
「見ろペスター!あの開かない扉を。本来ならばあのようにして僕からの返答があるまで扉の向こうで待つのが礼儀なんだ。わかったか!」
「はいはい。次からすればいいんでしょ、次から」
「その言葉を忘れるなよ。僕はぜったいに忘れないからな」
「はいはい」
ペスターがそう約束しても、リーヴスはいたく不満そうだった。なぜなら彼女がリーヴスとの口約束を守った例はこれまで一度もなかったからだ。
きっと五分後にはまたノックもせずにずけずけと入ってくるんだこの女は。
そんな考えが脳裏をよぎった瞬間、ドアの向こう側からキングストン巡査が「火急の件ですので入室してもよろしいですか?」と尋ねてきた。
「あぁ、すまないキングストン君。すっかり君の存在を忘れていた。どうぞ、入ってくれたまえ」
「失礼します」
身長は約五フィート三インチ(163センチ)。すこし小太りな体型で髪は赤毛。年齢のわりに幼くみえるキングストン巡査は、部屋に入ってすぐリーヴスとペスターの二人へ交互に目を向けた。
「ペスター警部もご一緒でしたか。ちょうど良かった」
「なに?どうかしたの?」
ペスターが反射的に聞いた。すぐさまキングストンは手帳を取り出し、書き留めてあった内容を淡々とした口調で読み始めた。
「はい。本日午前十一時頃、ウェントワース通で女性の変死体が発見されたとの報告がありました。ブレイン部長ならびにパウエル警視正より、ヴィヴィアン・リーラ・ペスター警部及びアイザック・リーヴス警部はただちに現場に向かえとの御命令です」
「変死体ってどんな?」
「報告では身体の一部が切り取られていたそうです。左手首からうえ全てなくなっていることから、自殺ではなく殺人の可能性が高いと判断されました」
「猟奇殺人か。世も末だな」
「わかったわ。すぐに現場に向かいます。外へ行って二輪辻馬車を呼んできてちょうだい」
「すでに下に待たせてありますので、どうぞお使い下さい」
「さっすがキングストン巡査!もうリーヴスの部下なんてやめて、あなた私の部下になればいいのに」
「断る!」
「あんたに聞いてないわよ、リーヴス」
「警部はどうされますか?」
「僕かい?」
「はい。パウエル警視正から今回は引きずってでも現場に連れて行けと言われております」
「じゃあ、行かない」
「わかりました。ではパウエル警視正には警部はいつもの腹痛により、ヤードにて待機しているとお伝えしておきましょう」
「そうしてくれ」
「ペスター警部。私はパウエル警視正のところへ寄ってから向かいますので、被害者の詳細等は現場の者にお聞きください。ではリーヴス警部、私はこれで」
トップハットを被り、カツンと踵を打ち鳴らしてリーヴスに敬礼したあと、さっさとドアへ向かうキングストン巡査をペスターはあわてて引き止めた。
「ちょっとちょっとキングストン巡査!」
「なにか?」
「こいつを放っておくの?」
「行きたくないと仰られましたので」
キングストンがさも当然のような顔で言い切ったので、ペスターはたまりかねて「あなたはパウエル警視正の命令よりもこの男の命令に従うと言うの?」と彼に言い張った。するとキングストンはペスターの問い掛けに二秒と待たずに「はい」と相槌をうち、部屋を出て行ってしまった。
「信じられないわ。リーヴスと一緒にいて巡査も頭が変になったのかしら」
「馬鹿なことを言ってないで。さぁペスター警部、君もさっさと出て行ってくれたまえ」
「うるさいわね!言われなくても出ていくわよ。あんたなんかいなくたってね、私がすぐに犯人を捕まえてやるんだから!見てなさい」
ペスターは勢いよくコートを羽織ると、一分もしない内に二輪辻馬車へ乗り込み、ウェントワース通へ猛禽に突き進んでいった。ペスターの乗った馬車がホワイトホールの角を曲がったのを確認して、リーヴスもようやく肘掛け椅子に腰をおろした。
突然の婚約に、猟奇殺人か。どちらも一筋縄では解決できなさそうだ。さて、どうするか。
暖炉のそばに座り込んで半時間、じっと動かないまま燃えさしの赤い火をまじまじと眺めていたが、リーヴスは突然なにかを決心したようにぱっと立ち上がり、机の引き出しから紙とペンをとりだして、書き間違えないよう丁寧に文字をしたため始めた。