勇者の身体で目覚めた俺、魔王を倒したはずなのに世界を救うため自分を殺してもらうことになった【外伝】
外伝 ――勇者の身体で目覚めた修復師の、最後の仕事――
魔王が討たれた日、俺は自分の名前を忘れた。
もっとも、目覚めた直後の俺に、そんな自覚はなかった。自分の名はレオン・アルヴェイン。十年に及ぶ魔王戦争を終結させた勇者であり、聖剣アルカディアの所有者。魔王城の玉座で最後の一撃を放った記憶も、旅の途中で負った傷の痛みも、仲間たちと交わした約束も、すべて鮮明に思い出すことができた。鏡に映る銀髪の青年は見慣れた顔であり、剣を握るために硬くなった掌には、幾度となく死線を越えてきた年月が刻まれている。王都へ凱旋した俺は民衆の歓声に応え、国王から労いの言葉を賜り、仲間たちと勝利の杯を交わした。誰もが戦争の終わりを喜んでいたし、俺もまた、ようやく訪れた平和を心から歓迎していた。
ただ、一つだけ奇妙なことがあった。俺は、王宮の寝台がどうにも好きになれなかったのである。
絹の寝具は柔らかく、暖炉には香木が焚かれ、食卓には戦場では口にできなかった料理が並んでいる。にもかかわらず、夜になると落ち着かなくなり、窓の外に広がる王都の西区画へ、知らず知らずのうちに目を向けてしまう。そこには古い職人街があり、鍛冶屋や革細工師、時計職人たちの工房が、狭い路地に肩を寄せ合うように建っていた。勇者としての俺には、さほど縁のない場所だったはずである。それなのに、夕暮れ時、いくつもの煙突から細い煙が立ち上るのを見るたび、胸の内側に説明のつかない懐かしさが広がった。
ある夜など、王宮の侍従が壊れた置時計を運んでいるのを見かけ、思わず呼び止めてしまった。時計は落下の衝撃で調速機が外れ、歯車の一つが軸からずれていた。俺はそれを一目見ただけで故障箇所を言い当て、必要な工具まで口にしていた。侍従は勇者が時計の修理に詳しいことを不思議がっていたが、俺自身も同じくらい驚いていた。剣の手入れならともかく、時計の内部構造について学んだ覚えなどなかったからだ。
その違和感が決定的なものとなったのは、魔王討伐から三日目の朝だった。
宮廷魔術師セリスに呼び出された俺は、王宮地下の聖剣保管室を訪れた。魔王城で最後の一撃を放った際、アルカディアの内部に異常な魔力反応が記録されていたため、その原因を調べる必要があるという。白大理石の台座に横たわる聖剣は、幾千もの魔物を斬り伏せてきた武器とは思えないほど静かだった。俺が柄に手をかけても、かつて刀身を満たしていた青白い光は戻らない。
「もう一度、魔力を流してみて。聖剣そのものに致命的な損傷はないはずなの。所有者の認証が通らない理由さえわかれば、原因を絞り込めると思う」
セリスの指示に従って意識を集中させたものの、何も起こらなかった。記憶の中では、胸の奥から湧き上がる力を腕へ導き、柄を通じて刀身へ巡らせればよかったはずである。だが、いくら試しても、その力が見つからない。水のない井戸へ桶を下ろし続けているような、奇妙な空虚さだけが残った。
困惑した俺が聖剣を台座へ戻そうとしたとき、柄の付け根にある魔力導路の歪みが目に入った。第三接続部の固定具がわずかに曲がり、内側の導路を圧迫している。俺は思わず、そこを先に直した方がいいと告げた。固定具を外す順序、必要な工具、導路を傷つけないための力加減まで説明したところで、セリスが不思議そうに俺を見つめていることに気づいた。
「レオン。あなた、いつから聖剣の内部構造に詳しくなったの? その修理方法は、カイルが考えたものよ。あなたは以前、導路の名前を覚えることさえ面倒がっていたでしょう」
その瞬間、脳裏に一つの光景が浮かんだ。薄暗い天幕の中、傷ついた聖剣を作業台に載せ、細い鑢で金属を削っている青年がいる。茶色い髪にそばかすのある、どこにでもいそうな男だった。俺はその男の手元を眺めている。工具を握る指の動きも、疲れたときに左肩を回す癖も、失敗した部品を捨てずに小箱へ取っておく習慣も、よく知っていた。
ところが、その光景に重なるようにして、別の記憶が蘇った。鑢を握っているのは俺自身であり、作業台の向こうには銀髪の青年が腰掛けている。彼は修理の邪魔にならないよう黙って待っていたが、最後の固定具を締め終えると、嬉しそうに笑って聖剣を受け取った。
『お前がいなければ、聖剣はただの鉄屑だ。ありがとう、カイル』
同じ出来事を、俺は二つの場所から覚えていた。
勇者の目を通して見た修復師と、修復師の目を通して見た勇者。二つの記憶が食い違っていることを理解した途端、頭の奥に激痛が走った。俺は台座へ手をつき、膝を折りそうになる身体を支えた。何かが、思い出しかけた記憶を無理やり押し戻そうとしている。それでも俺は、必死にその光景へしがみついた。金属を削るときの指先の抵抗。工具箱の底に染みついた油の匂い。父親が使っていた古い金槌の重さ。冬になると隙間風が吹き込む工房の窓。修理した時計を受け取った客が、動き始めた針を見て安堵する表情。それらは勇者の人生には存在しなかったはずの感覚だった。だが、戦場で剣を振るった記憶よりも、ずっと確かなものだった。
俺はレオンではない。俺は、修復師カイル・フェルドだ。
その日の夕刻、セリスは魔王城から回収された術式の残滓と、聖剣に保存されていた記録を照合し、魔王が死の間際に発動した禁呪の正体を突き止めた。
『魂換』。
二人の魂を互いの肉体へ移し替える禁呪だった。ただし、単に魂の居場所を交換するだけではない。肉体に刻まれた記憶を本人の経験として優先的に認識させ、本来の魂に属する記憶を深いところへ押し込める精神干渉を伴っていた。
人の記憶には、魂に刻まれるものと、肉体に残るものがあるという。魂には本人の人格や意思、長い年月をかけて培った判断力や経験の根幹が宿る。一方、肉体には反復によって身についた動作や生活習慣が残り、慣れ親しんだ行動を無意識に再現させる働きがある。魂換は、その肉体側の記憶を優先させることで、入れ替わった本人に違和感を抱かせないようにしていたのだ。
俺が勇者の身体で目覚め、勇者としての人生を疑わずに受け入れていたのは、そのためだった。そして、本物のレオンは今、俺の身体で暮らしている。
真実を知った俺は、最初に安堵した。自分の人生が奪われたことへの怒りよりも、説明のつかなかった違和感に名前が与えられたことの方が大きかったのである。だが、その安堵は長く続かなかった。神官ミリアが俺の魂を調べたところ、その輪郭が何かに侵食されるように崩れ始めていることが判明したからだ。
魔王は魂換を単なる復讐のために使ったのではなかった。勇者の肉体に自らの魂の残滓を埋め込み、そこへ別人の魂を移すことで、肉体の生命力と異物となった魂を復活の燃料へ変える。勇者の魂を別の肉体へ追いやったのは、勇者自身が再生を妨げることを防ぐためだった。さらに二人の魂は呪いによって結びつけられており、魔王の再生が完成すれば、俺だけでなく、別の肉体へ移されたレオンの魂まで消滅するという。
セリスは、魂換がすでに成立した魂の移動であり、魔王の核を破壊しても自動的には元へ戻らないことを説明した。魂を肉体へ定着させる術式は、発動時に一度だけ作用するものであり、核の消滅によって逆転する仕組みではないのだという。一方、肉体の記憶を優先させる精神干渉は魔王の核から供給される魔力によって維持されており、核が消滅すれば徐々に弱まっていく。ただし、失われた記憶が自然にすべて戻るとは限らず、本人の魂に刻まれた記憶を呼び起こすきっかけが必要になるらしかった。
「呪いが完成するまで、あと三日ほどだと思われます。ただし、進行は一定ではありません。魔王の残滓が目覚め始めれば、最後の段階は一気に進むでしょう。王都の結界を内側から破壊するほどの魔力が放出される可能性もあります」
ミリアはそう告げた後、まだ方法は残されているはずだと繰り返した。セリスも魂の分離術式を組み直し、魔王の残滓だけを封印できないか検討を始めた。俺自身も、当然ながら死ぬつもりなどなかった。魔王を倒した後の世界で、ようやく工房へ帰れると思っていたのだ。父親から受け継いだ工具を磨き直し、雨漏りする屋根を修理し、戦争の間に預かったままになっている品物を、一つずつ持ち主へ返していく。そんな平凡な暮らしが、俺には何よりも大切だった。
翌朝、魔王討伐から四日目。ミリアは改めて俺の魂を調べ、その崩壊がすでに回復不能な段階へ入りつつあることを確認した。魂の分離を試みれば、肉体に定着した魔王の核が先に活性化し、王都全体へ瘴気を放出する危険がある。魔力の遮断は肉体の生命力を奪うだけで核の活動を止められず、封印術式も勇者の肉体が生きている限り内側から破られてしまう。王宮魔術院に残された術式を調べ尽くしても、有効な解決策は見つからなかった。
最後にミリアが告げたのは、聖剣アルカディアによって魔王の核を直接破壊するという方法だった。
「核は勇者の心臓と生命回路に絡みつくように定着しています。アルカディアなら魔王の魔力を断ち切れますが、核だけを取り除くことはできません。聖剣で破壊するということは、今のあなたの肉体を失うということです」
俺は、聖剣が魂を認識できるのなら、魂だけを元の身体へ戻せないのかと尋ねた。しかし、セリスは静かに首を振った。
「アルカディアは魂の波長を読み取り、残響を保存することはできる。でも、魂を肉体から安全に取り出して、別の肉体へ定着させる力は持っていないの。魔王の核は心臓と生命回路に癒着しているから、無理に魂を引き剥がせば、その瞬間に核が暴走する可能性が高い。今の私たちには、あなたの魂だけを救う方法がないのよ」
その言葉を聞いたとき、俺は初めて、自分が本当に死ぬのだと理解した。
俺は自分の手を見つめた。剣を握るために鍛えられた大きな手だった。父親から教わった工具の握り方を再現しようとしても、指の長さも力の入り方も違う。いつか元の身体へ戻れるのだと思っていたが、どうやらその機会は二度と訪れないらしい。
不思議なことに、そのとき最初に浮かんだのは、死への恐怖ではなく、作業台の奥に置いたままの懐中時計のことだった。数日前まで修理していた古い時計で、歯車が一つ欠けているために針が動かなくなっていた。持ち主は年老いた女性で、亡くなった夫から贈られた品だという。急がなくても構わないと笑っていたが、俺はできるだけ早く直して返すつもりだった。
もう、あの時計を直すことはできないのだろうか。
王都の命運がかかっているというのに、俺は壊れた時計のことばかり気にしている。そんな自分を情けなく思ったが、同時に、俺が守りたかった世界とは結局そういうものではなかったのか、とも考えた。戦争が終わった後も、誰かが古い時計を修理に出し、誰かがそれを直して返す。そんな何でもない日々を取り戻すために、俺たちは魔王城まで旅を続けてきたはずだった。
魔王の核が完全に目覚めるのは、討伐から六日目の夕刻。それがミリアの示した、最も可能性の高い期限だった。四日目の朝を迎えた今、残された時間は二日と少し。もっとも、呪いの進行が早まれば、それより前にすべてが終わる可能性もある。俺たちに許された猶予は、決して長いものではなかった。
その日のうちに、俺は王太子殿下へ事情を報告した。魔王の呪いが勇者の肉体に定着していること、解除を試みれば王都を危険に晒す可能性があること、そして聖剣によって核を破壊する以外に確実な方法が見つかっていないこと。王太子は長い沈黙の後、王都の結界を強化し、残された時間でほかの方法を探すよう命じた。しかし、俺の身体を聖剣で貫くという提案については、最後まで許可を与えようとしなかった。
「お前はこの国を救った勇者だ。その命を犠牲にする決断を、私一人の判断で下すことはできない。たとえお前自身が望んでいたとしても、王国はその死を当然のものとして受け入れてはならない」
その言葉は正しかった。王太子の立場であれば、当然の判断だったと思う。だが、俺にはもう時間がなかった。魔王の核が目覚めれば、王都の結界は内側から破壊され、逃げ遅れた人々が犠牲になる。王国の正式な決定を待っている間に、その最悪の事態が訪れる可能性もあった。
俺は、聖剣の記録について尋ねた。
アルカディアには、所有者の魂の波長と、魔力を行使した際の履歴が保存されている。さらに、魔王の魂を断ち切るために作られた聖剣には、刀身が触れた魂の残響を一時的に保持する性質があるという。
ただし、残響は完全な魂ではない。聖剣が最後に触れた魂の意識を、その一部だけ保存したものであり、正当な所有者の魂と共鳴している間に限り、短い時間だけ自律的な意識を保つことができる。聖剣が封印されている間は残響も眠りにつくが、封印が一部でも解除され、所有者の魂を感知したとき、残響は再び意識を取り戻す。残響はその間に見聞きしたことを理解し、短い会話を交わすこともできるが、記録の役割が終われば、やがて消滅する。
魔王討伐に関わる聖剣の記録は国家機密として封印されており、王太子であっても独断で公開することはできなかった。国王の裁可を得るか、王立最高法院が重大事件の審理に必要だと認め、王家へ正式に開示を請求する必要があるという。
俺はその説明を聞きながら、一つの可能性を考えていた。
もし、俺が勇者の身体で死に、その殺害者として本物のレオンが裁判を受けることになれば、聖剣の記録は被告人の身元を証明するための重要な証拠になる。王立最高法院がその必要性を認めれば、王家は記録の開示を拒み続けることが難しくなる。
もちろん、それは保証された方法ではなかった。裁判所が記録の開示を認めなければ、レオンは勇者殺しの罪で処刑されるかもしれない。たとえ魂の入れ替わりが証明されたとしても、俺を殺した事実そのものが消えるわけではない。
それでも、俺は真実へ辿り着くための道筋を残しておきたかった。
王太子は、俺が提出した調査報告書を王立記録院へ封印保管するよう命じた。魔王の呪いに関する情報が不用意に広まれば、王都に混乱を招く恐れがあるためだ。ただし、重大な刑事事件において必要性が認められた場合には、王立最高法院の請求を受けて開示できるよう、特別な手続きが定められた。
その報告書には、セリスによる禁呪の解析結果、ミリアによる魂の鑑定記録、試みられた治療と封印術式の一覧、そして魔王の核が完全に目覚めるまでの推定時間が添付されていた。さらに、俺は王太子の面前で魂の波長を記録する認証術式を受け、今の肉体に宿る魂が修復師カイル・フェルドのものであることを、王立記録院の正式な記録として残した。
認証を終えた後、王立記録院の書記官は、一枚の特殊な羊皮紙を俺に手渡した。王国の正式な契約や遺言に用いられる認証用紙であり、記入者が自らの意思で署名すると、その瞬間の魂の波長と作成時刻を記録する仕組みになっている。記入後に内容を書き換えれば認証印が失われるため、第三者による改竄や偽造を防ぐことができるという。
俺はその羊皮紙を受け取り、王立記録院の封印番号を控えた。後にどのような形で死んだとしても、自分の意思を確かな証拠として残すための準備だった。
翌日、魔王討伐から五日目の夕刻。俺はフェルド修理工房を訪れた。
王都の西区画にあるその小さな店は、相変わらず古びた看板を掲げ、扉の蝶番がわずかに軋む音を立てていた。窓の内側には修理を待つ時計やランプが並べられ、作業台の上には父親から受け継いだ工具箱が置かれている。見慣れたはずの光景だったが、銀髪の青年の身体でそこに立っていると、まるで他人の家を覗き込んでいるような奇妙な感覚に襲われた。
扉を開けたのは、茶色い髪にそばかすのある青年だった。少し猫背で、作業着には油染みがついている。俺が二十数年にわたって使ってきた身体であり、今は本物の勇者レオン・アルヴェインの魂が宿っている。
「……レオン? こんな時間にどうしたんだ。聖剣の調子でも悪くなったのか? もしそうなら、悪いけど少し待ってくれ。今ちょうど、時計の歯車を削り出しているところなんだ」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。レオンは自分が勇者であることを忘れ、俺の人生を生きていた。戦場で剣を振るってきた男が、今は俺の工房で古い時計を修理している。その姿は滑稽にも見えたが、不思議と、ひどく似合っているようにも思えた。
俺は椅子に腰を下ろし、王立記録院から受け取った認証用紙を取り出した。そこへ、あらかじめ考えていた依頼内容を、一文字ずつ丁寧に書き込んでいく。
書状の末尾には、次のように記した。
『勇者レオン・アルヴェインの肉体に宿る、修復師カイル・フェルドの魂として、以下の依頼を正式に申し立てる』
魔王の呪いが勇者の肉体に定着していること、聖剣によってその核を破壊する必要があること、そして殺害が俺自身の意思によるものであることを、できる限り詳しく記した。王太子へ提出した調査報告書と照合できるよう、末尾には王立記録院の封印番号も添えた。
最後に俺が署名すると、羊皮紙の表面に淡い光が走り、文字の下に小さな認証印が浮かび上がった。それは、俺の魂の波長と作成時刻が正式に記録された証だった。
これで、この依頼書は後から誰かが書き換えることも、偽造することもできなくなった。
肉体は勇者のものだが、依頼をしたのは俺自身である。その事実だけは、後から誰にも否定されないようにしておきたかった。
「……カイル。頼みがあるんだ。少し長い話になるが、最後まで聞いてくれないか。お前にしか頼めないことで、しかも、まともな人間なら絶対に引き受けないような、とんでもない依頼なんだ」
レオンは怪訝そうに眉を寄せたが、俺が差し出した書状を受け取り、ゆっくりと目を通し始めた。最初は冗談だと思っていたらしい。しかし、読み進めるうちに表情が変わり、最後の一文へ辿り着いたところで、彼は書状を机へ置いた。
「……お前、本気で言ってるのか? 俺に、お前を殺せって?」
俺は頷いた。
それから、魔王の呪いについて説明した。魂換によって二人の魂が入れ替わっていること、勇者の肉体に魔王の核が定着していること、核を破壊しなければ王都が滅びる可能性があること。そして、聖剣アルカディアが魂の波長を直接認証する武器であり、俺の身体に宿るレオンの魂なら、その力を引き出せるはずだということも、隠さずに伝えた。
だが、レオンは理解できなかった。
俺が魂の入れ替わりについて説明するたび、彼は頭を押さえ、苦しそうに眉を寄せた。言葉そのものは聞こえているはずなのに、その意味を受け止めようとすると、何かが思考を遮るらしい。自分が勇者である可能性を考えようとしても、すぐに修復師としての記憶が前面へ押し出され、今聞いたばかりの説明さえ曖昧になってしまう。
俺は何度か説明を繰り返したが、やがてそれを諦めた。無理に真実を押しつけても、今のレオンには受け止められないのだと理解したからである。
「……だったら、どうして俺なんだよ。聖剣を使うなら、ガレスだっているだろう。セリスなら魔法で何とかできるかもしれないし、ミリアだって最後まで諦めていないはずだ。俺はただの修復師なんだぞ。魔力もないし、剣なんてまともに振ったこともない。それなのに、どうして俺にそんなことを頼むんだ」
俺は答えの代わりに、聖剣アルカディアを差し出した。
レオンはしばらく躊躇っていたが、やがて恐る恐る柄を握った。その瞬間、刀身に青白い光が走り、工房の空気が微かに震えた。魔力を持たないはずの修復師が握った聖剣は、まるで長い眠りから目覚めたかのように輝き始め、レオン自身も驚いたように目を見開いた。
彼は反射的に剣を構えた。足の運び、重心の置き方、刃先の角度。そのすべてが、十年間にわたって魔王軍と戦い続けた勇者のものだった。魂に刻まれた経験が聖剣との共鳴によって引き出され、修復師の肉体に、一時的に勇者の動きを再現させているのだろう。
ただし、その動きは完全ではなかった。剣を振り下ろした瞬間、レオンの身体はわずかに体勢を崩し、慣れない重心の変化に戸惑うように足を踏み直した。魂は剣の扱い方を知っていても、肉体がそれに追いついていないのである。
「……何だ、これ。俺は、こんなふうに剣を握ったことなんて、一度もないはずなのに……」
レオンは震える手で聖剣を見つめた。だが、その光景を見ても、彼の記憶が完全に戻ることはなかった。聖剣の認証は魂の波長を確かめるだけであり、肉体に刻まれた記憶の干渉を解くものではない。真実を理解するためには、聖剣に保存された記録と、魔王城で起きた出来事を照合し、自分の中にある矛盾を一つずつ受け入れる必要があるのだろう。
俺は、そう説明した。
レオンは長い間黙っていたが、やがて聖剣を鞘へ収めると、静かに首を振った。
「……駄目だ。俺にはできない。お前がどれだけ苦しんでいるのかはわかるし、魔王の呪いが危険だという話も信じる。でも、だからって、自分の手でお前を殺すなんてことができるわけないだろう。俺は修復師なんだぞ。壊れたものを直すのが仕事なのに、どうして今度は、お前を壊さなきゃならないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は息を呑んだ。俺が、いつも考えていたことだった。壊れたものを直すのが仕事なのに、どうして今度は、自分自身を壊さなければならないのか。世界を救うためだと頭では理解していても、心のどこかでは、最後まで納得できずにいたのだ。
俺はしばらく黙っていたが、やがて作業台の上に置かれた懐中時計へ視線を向けた。
「……なあ、カイル。その時計、どうして直してるんだ?」
レオンは怪訝そうに眉を寄せた。
「どうしてって、持ち主が困っているからに決まってるだろ。亡くなった旦那さんから贈られた時計なんだそうだ。ずっと大切に使ってきたもので、動かなくなっても捨てられなかったらしい。だから、できることならもう一度動かしてやりたいと思ってる」
「そうか。だったら、俺も同じなんだよ。俺が死ななければ、明日には大勢の人間が死ぬかもしれない。お前も、セリスも、ミリアも、ガレスも、あの街で暮らしている人たちも、みんなだ。俺はそれを、ただ黙って見ていることができないんだ」
レオンは何も答えなかった。俺はその沈黙を責めることもできず、ただ、作業台の上に置かれた小さな時計を見つめ続けていた。
やがて彼は、深く息を吐き、俺の顔を見た。
「……わかった。ただし、一つだけ約束してくれ。もし明日までに別の方法が見つかったなら、必ずそっちを選ぶんだ。俺は最後の最後まで、お前を救う方法を諦めたくない。それでも駄目だったときは……そのときは、俺がお前の頼みを引き受ける」
俺は頷いた。
その夜、俺は工房を出る前に、作業台の奥に置かれた懐中時計をもう一度眺めた。裏蓋が開かれ、歯車が一つ欠けている。父親から受け継いだ工具箱も昔と同じ場所にあり、壁には使い慣れた鑢や金槌が整然と並べられていた。何も変わっていなかった。俺がいなくなってからも、この工房はちゃんとここにあり、誰かが壊れたものを直し続けてくれていた。
翌日、魔王討伐から六日目。王都中央広場には大勢の人々が集まっていた。
魔王討伐を祝う式典が開かれ、国王陛下の演説が終わると、楽団が勇壮な旋律を奏で始めた。人々は笑い、子供たちは英雄の姿を見ようと背伸びし、花売りの娘たちは籠いっぱいの花びらを撒いていた。
俺はその光景を、できるだけ長く目に焼きつけようとした。もう二度と見ることはないのだと思うと、普段なら気にも留めないような街角の景色まで、ひどく美しく感じられたのである。
中央広場を選んだのには理由があった。王都の中心に位置するこの場所には、王宮の監視術式が常時展開されており、王族や騎士団が関わる重大事件が発生した場合、その状況が自動的に記録される仕組みになっている。俺が自ら死を望み、レオンがその依頼を受けたという事実を、少しでも多くの証拠として残すためには、この場所が最も適していたのである。
俺は、密室で誰にも知られずに死ぬことを選ばなかった。
それはレオンを守るためでもあったが、同時に、俺自身の弱さでもあったのだと思う。誰かに見届けてもらわなければ、最後の一歩を踏み出せない気がしていた。王国が許可しなかった死を、自分の意思だけで選ぶ。その重さに耐えきれず、俺は人々の目と記録に頼ろうとしていたのかもしれない。
レオンは聖剣アルカディアを握っていた。刀身には青白い光が満ちている。聖剣が本物の勇者を認めていることは、もはや疑いようがなかった。
「……本当に、やるんだな。今ならまだ引き返せるぞ。俺たちがここで逃げ出したって、誰も責めやしないだろうし、セリスたちが別の方法を見つけてくれるかもしれない。お前が死ぬ必要なんて、本当はないのかもしれないんだぞ」
隣に立つレオンが、苦しそうな声で尋ねてきた。俺はその顔を見つめながら、ほんの一瞬だけ、彼の言葉に従ってしまいたいという衝動に駆られた。ここから逃げ出して、誰も知らない土地へ行き、残された時間を静かに過ごすことができたなら、どれほど幸せだろう。魔王の呪いも、王国の未来も、勇者という名前も、すべて忘れてしまえたら、どれほど楽になれるだろう。
だが、そんなことをすれば、俺が守りたかったものまで失われてしまう。
「……後悔はすると思う。まだやりたいことだって山ほどあるし、工房の屋根も直してない。修理途中の時計だって残ってるし、あの店を閉めるつもりなんて、これっぽっちもなかったんだからな。でも、ここで俺が逃げたら、明日を迎えられない人間が大勢いる。だったら、せめて最後くらいは、修復師らしく仕事を終わらせたいんだ」
俺は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。本当は死にたくなかった。父親から受け継いだ工房で壊れた道具を直しながら、誰かの暮らしに少しだけ手を貸す。そんな取るに足らない毎日を、これからも続けていきたかったのである。
それでも、俺が生き延びれば、その未来を迎えられない人間が大勢いる。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
レオンが聖剣を構える気配がした。周囲の歓声が遠ざかり、風に舞う花びらが頬を掠める。俺は最後に、父親から受け継いだ工房のことを思い出した。雨漏りする屋根、油の匂いが染みついた作業台、欠けた歯車を待つ懐中時計。あの場所へ帰りたかった。もう一度、あの工具を握りたかった。
俺は目を開け、レオンの顔を見た。泣きそうな顔をした、どこにでもいそうな修復師の顔だった。その内側にいる本物の勇者レオン・アルヴェインへ、俺は精一杯の笑顔を向けた。
「……頼んだぜ、カイル。お前なら、きっと大丈夫だ」
次の瞬間、聖剣が俺の胸を貫いた。
痛みは、思っていたよりも短かった。熱いものが胸の奥を走り、身体から力が抜けていく。遠くで悲鳴が上がり、誰かが勇者の名を叫んでいる。レオンが何かを言っていたが、その声はもう聞こえなかった。
俺は倒れながら、空を見た。雲一つない、どこまでも青い空だった。
そのとき、ふと、遠い記憶の中で時計の針が動く音がした。父親が作業台の向こうで小さな歯車を磨きながら、俺に何かを教えている。油の匂い、金属の冷たさ、窓から差し込む午後の日差し。あの頃の俺は、世界のどこかで魔王と勇者が戦っていることなど知らず、ただ目の前の壊れた時計を直すことに夢中だった。
もう一度、あの場所へ帰りたかった。
その願いを最後に、俺の意識は静かに途切れた。
死後の世界というものが存在するのかどうか、生きている間に真剣に考えたことはなかった。神殿の教えによれば、善き行いを積んだ者の魂は星々のもとへ還り、やがて新たな命として生まれ変わるのだというが、俺のような平凡な修復師がどこへ行くのかについては、残念ながら誰も教えてくれなかった。
だから、次に意識を取り戻したとき、俺が王立最高法院の傍聴席に座っていたことについては、いささか不満を覚えたものである。
せめて死んだ後くらいは静かに休ませてほしいものだが、どうやら俺には、まだ見届けなければならない仕事が残っているらしかった。
大法廷の中央には、両手を鉄鎖で拘束された一人の青年が立っていた。茶色い髪にそばかすのある顔、少し猫背で、手には細かな傷が無数に刻まれている。見慣れたその姿は、間違いなく修復師カイル・フェルドのものだったが、その内側に宿っている魂が誰のものであるのか、今の俺にははっきりとわかっていた。
本物の勇者レオン・アルヴェイン。
世界を救った英雄が、俺を殺した罪で裁かれようとしている。
あまりにも皮肉な光景だった。俺が殺してくれと頼み、俺が自分の意思で死を選んだというのに、今度はその依頼を引き受けてくれた男が、勇者殺しの罪で死刑を求刑されているのである。
しかも、俺の姿は誰にも見えていないらしい。傍聴席にはかつての仲間たちが集まっていたが、ミリアは涙を堪えるように俯き、ガレスは険しい表情で裁判長を見つめ、セリスは手元の書類を握りしめたまま、俺がすぐそばにいることに気づく様子もなかった。
ただ一人、レオンだけが俺を見ていた。
法廷の証拠品台には、聖剣アルカディアが置かれていた。裁判所の命令によって、事件当日の魔力反応を確認するために運び込まれたものだった。
聖剣は国家機密を含むため封印されていたが、法廷へ搬入する際、王立記録院の鑑定官が所有者認証のための封印を一部解除していた。記録そのものは依然として非公開だったものの、聖剣が正当な所有者の魂を感知できる状態にはなっていたのである。
レオンの魂が近くに存在することで、刀身に残された魂の残響が微かに共鳴し、俺はこの場所で意識を取り戻したのだろう。
レオンは傍聴席の最前列に座る俺を見つけるなり、信じられないものを見るように目を見開き、それからみるみるうちに険しい表情へと変わっていった。どうやら、死んだはずの勇者が暢気に裁判を傍聴していることに、相当腹を立てているらしい。
俺は思わず片手を上げ、昔と変わらない調子で笑いかけた。
本当は謝りたかった。お前をこんな目に遭わせてすまないと、俺のせいでまた重荷を背負わせてしまったと、そう伝えたかった。だが、ここで俺まで悲壮な顔をしてしまえば、奴はきっと余計に自分を責めるだろう。
だからせめて、昔と変わらない態度で接してやろうと思ったのである。
裁判が始まると、事態は俺の想像以上に厳しいものとなった。検察官はレオンを追及し、傍聴席からは罵声が飛び、かつての仲間たちは苦しそうな表情で証言を続けている。俺が用意した依頼書は一般の押収品目録には掲載されておらず、聖剣の記録も開示されないまま、裁判は勇者殺しの罪を立証する方向へ進んでいた。
依頼書は逮捕時に押収されていたが、魔王の禁呪に関する国家機密を含むため、王立記録院の封印管理下へ移されていた。王太子へ提出した調査報告書も同様であり、通常の証拠とは別に保管されている。裁判所がその存在を正式に認め、開示を命じなければ、審理に用いることはできない。
ただし、裁判所は何も知らなかったわけではない。
セリスとミリアが作成した鑑定報告書は、すでに裁判所へ提出されていた。魔王の呪いに関する部分は封印されていたものの、事件当日に異常な魔力反応が発生したこと、勇者の肉体に魔王由来の核が存在していたこと、聖剣による破壊以外に有効な方法が確認されていなかったことについては、審理に必要な範囲で事前に整理されていた。
王立最高法院は、それらの報告書と監視術式の記録を照合するため、開廷前から王立記録院へ封印資料の提出を求めていたのである。
裁判が一日で結審できるよう、証人の召喚、鑑定報告書の照合、監視術式の記録確認といった準備は、すでに開廷前に進められていた。セリス、ミリア、ガレスの証言内容についても、事前に弁護人と検察官の双方が確認しており、裁判所は必要に応じて封印資料を開示できるよう、王立記録院との連絡を整えていた。
それでも、俺は不安だった。
もし、このまま判決が下されれば、レオンは処刑されるかもしれない。自分の命を犠牲にすれば世界を救えると思っていた。聖剣の記録を調べれば真実が明らかになり、レオンも助かるはずだと信じていた。だが、それは結局のところ、俺が勝手に描いた希望にすぎなかったのではないか。
やがて、大法廷の扉が開き、黒い法衣をまとった若い女性が姿を現した。
王立記録院の法務書記官エリナ・クロフォード。
彼女が王立最高法院の開示命令と、それを受けて国王陛下が裁可した機密指定解除の勅許状を示したとき、法廷の空気が変わった。
提出されたのは、聖剣アルカディアの封印記録、王宮の監視術式による事件当日の記録、そして俺が王太子へ提出した調査報告書と、レオンへ渡した依頼書だった。
すべて、俺が死ぬ前に残しておいたものだった。
エリナは、これらの記録が事件発生以前から王立記録院の管理下にあったもの、または事件直後に封印されたものであり、改竄の痕跡が認められないことを説明した。王太子は俺の死を許可しなかったものの、魔王の呪いについて報告を受けた事実を認め、裁判所の開示命令に応じて記録を提出することを国王へ進言していたという。
聖剣の記録についても、王立記録院の鑑定官とセリスによる照合がすでに完了していた。魂の波長、魔王城での術式反応、事件当日の魔力履歴。それらが一致していることを示す鑑定結果が、封印資料とともに提出された。
さらに、依頼書に刻まれた魂の認証印は、俺が王太子の面前で記録したものと完全に一致していた。書状の内容が後から書き換えられた形跡もなく、作成時刻も事件発生前であることが確認された。
これによって、依頼書が俺自身の意思で作成されたものであることが、正式な証拠として認められたのである。
ようやく、ここまで来たのだ。
エリナが禁呪『魂換』の名を読み上げた瞬間、レオンの表情が変わった。
苦しそうに頭を押さえ、震える手を見つめるその姿を見て、俺は彼のもとへ歩み寄った。目の前の青年は、かつて魔王城で仲間たちを守り抜いた英雄とは思えないほど弱々しく見えたが、その内側には確かに、俺が何度も命を救われた勇者の魂が宿っている。
聖剣の記録が読み上げられるにつれ、レオンの視線が少しずつ変わっていった。
最初、奴は俺を勇者の姿として見ていた。銀髪の青年が傍聴席に座り、何食わぬ顔で自分を眺めている。だが、魂換の記録が示され、自分の記憶にある矛盾が一つずつ解き明かされるにつれて、俺の輪郭が微かに揺らぎ始めた。
銀髪が、茶色い髪へ変わっていく。剣を握るために鍛えられた大きな手が、細かな傷の刻まれた職人の手へ変わっていく。
それは、俺が本来持っていた姿だった。
レオンは息を呑み、震える唇で自分の名前を口にした。
「……レオン」
その瞬間、俺はようやく心の底から笑うことができた。魔王城での戦いから始まった長い悪夢が、ようやく終わろうとしている。目の前の男は、今、自分が何者であるのかを思い出したのだ。
しかし、裁判はそこで終わらなかった。
勇者殺しという当初の訴因は、その前提を失った。だが、レオンが一人の人間を殺したという事実まで消えたわけではない。検察官は故意殺人への訴因変更を求め、裁判長はその場で追加審理を行うことを決定した。
裁判長は、訴因変更によって被告人の防御に不利益が生じないかを確認し、レオンと弁護人に異議を述べる機会を与えた。弁護人は提出済みの鑑定報告書と封印資料の内容を確認したうえで、同日中の審理継続に同意した。レオン自身も、これ以上真実を先延ばしにしたくないと述べ、裁判を続けることを望んだ。
法廷には再び緊張が走った。
裁判長は、魂換によって被害者の身元が変わったことを確認したうえで、殺害そのものの違法性について審理を続けると宣言した。
俺は傍聴席に座り直し、かつての仲間たちが証言する姿を見守った。セリスは魔王の呪いについて説明し、ミリアは俺が死を選んだ理由を語った。ガレスは拳を握りしめたまま、俺たちが魔王城で何を守ろうとしていたのかを、静かな声で伝えてくれた。
その一つ一つが、胸に痛かった。
俺は自分の命を捨てることで、仲間たちを救ったつもりだった。だが、実際には彼らに新たな苦しみを背負わせてしまったのかもしれない。ミリアは俺を救えなかったことを悔やみ、セリスは呪いを解けなかった自分を責め、ガレスは俺たちの異変にもっと早く気づけなかったことを後悔している。
そして、何よりもレオンは、自分の手で俺を殺したという事実から逃れられずにいた。
ミリアが証言台に立ったとき、俺は初めて、自分が死んだ後に何が起きたのかを知った。
「……聖剣によって魔王の核が破壊された後、私は現場へ駆けつけました。レオンさんは、カイルさんの身体を抱き起こし、何度も名前を呼んでいました。すでに生命反応が失われていることは明らかでしたが、それでも彼は諦めませんでした。私に治癒魔法を使うよう求め、自分にできることはないかと何度も尋ねていました」
俺は、思わず息を呑んだ。
そんなことが、あったのか。
俺は聖剣に貫かれた瞬間から、その後の出来事を知らなかった。自分の死がどのように受け止められたのか、レオンが何を考え、何をしたのかについても、何一つ知ることができなかったのである。
ミリアは涙を堪えながら、さらに言葉を続けた。
「……彼は、カイルさんを救おうとしていました。自分が殺した相手だとわかっていながら、それでも何とか生き返らせようとしていたんです。私がもう助からないと告げても、彼は最後まで、その身体を手放そうとしませんでした」
俺は、膝の上で両手を握りしめた。
自分が正しいことをしたのだと思いたかった。世界を救うために必要な犠牲だったのだと、そう信じることで、死への恐怖を押し殺していた。だが、俺が死んだ後も、レオンは俺を救おうとしていたのだ。俺がもう何も感じなくなった後も、あいつは俺の身体を抱きしめ、何度も名前を呼び続けていたのである。
俺は、あいつに何ということをさせてしまったのだろう。
世界を救うために選んだはずの道が、誰かにとっては一生消えることのない傷になる。そんな当たり前のことに、俺は死んでからようやく気づいたのだった。
レオンは証言台の前で俯いていた。肩が小さく震えている。俺はその姿を見つめながら、何か言葉をかけようとしたが、何も思いつかなかった。
謝ったところで、あいつが俺を殺した事実は消えない。許してやると言ったところで、あいつが自分を許せるようになるわけでもない。
やがて、レオン自身が証言台に立った。
「……俺は、カイルを殺しました。彼が望んだからです。王都を守るためだと信じたからです。でも、俺は彼が何を背負っていたのか、最後まで知りませんでした。だから、俺が正しかったとは言えませんし、もし罪があるのなら、その責任から逃げるつもりもありません」
検察官は、その言葉を受けて静かに立ち上がった。
「被告人が王都を救うために行動したことは理解します。しかし、被害者が死を望んだという事実だけで、人を殺す行為が正当化されるわけではありません。魔王の復活が差し迫っていたとしても、王国には騎士団も魔術院も存在し、王太子殿下も最後まで別の方法を探すよう命じていたはずです。被告人は、なぜその命令を待たず、自らの判断で殺害に及んだのですか」
レオンはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……待てなかったんです。あのとき、聖剣を通じて、魔王の核が目覚め始めているのがわかりました。カイルはもう限界でしたし、広場の結界にも異常が出始めていました。俺は、あの場で決断しなければ、誰かが死ぬと思ったんです」
セリスが提出した監視術式の記録には、事件直前、王都中央広場の結界に異常な魔力反応が発生していたことが記されていた。ミリアの鑑定結果も、魔王の核が予定より早く活性化し始めていた可能性を示していた。
検察官はさらに、魔王の核だけを破壊する方法が本当に存在しなかったのかを問い、セリスとミリアはそれぞれの専門分野から、試みられた術式と失敗の理由を説明した。
裁判長は、それらの証言を慎重に確認していった。
そして、レオンが再び証言台へ立ったとき、俺は初めて、あいつが本当に勇者なのだと思った。
世界を救ったからではない。誰よりも強い剣を振るえるからでもない。自分の行いから目を逸らさず、たとえ苦しくても、その責任を背負おうとする。そんな不器用な生き方を、あいつはずっと続けてきたのだ。
だからこそ、俺はあいつに生きていてほしかった。
判決が言い渡されたのは、その日の夕刻だった。
裁判長は、俺が自ら死を望んでいたことだけでは殺害を正当化できないと述べたうえで、魔王復活という重大かつ切迫した危険が存在していたこと、その危険を回避するために可能な限りの手段が試みられていたこと、そしてレオンが当時の状況においてほかに有効な方法が存在すると認識し得なかったことを、一つずつ確認していった。
やがて、大法廷に厳かな声が響いた。
「よって、本件行為については王国刑法第十八条の緊急避難が成立すると認める。被告人レオン・アルヴェインを、無罪とする」
その瞬間、法廷には歓声が沸き起こった。傍聴席の人々が立ち上がり、涙を流し、拍手を送った。ガレスは深く息を吐き、セリスは顔を覆い、ミリアは声を殺して泣いていた。
俺は、ただ座っていた。
無罪。その二文字が、胸の奥へゆっくりと染み込んでいくようだった。
俺が死んだことで世界が救われたのかどうか、そのすべてを確かめることはできない。だが、少なくとも、俺が守ろうとした一人の男は生き延びた。
それだけで、十分だった。
俺は立ち上がり、レオンのもとへ歩いた。
奴は判決が言い渡された後も、その場から動けずにいた。無罪を告げられたというのに、まるで何か大切なものを失ったばかりのような顔をしている。
「……終わったな、レオン」
レオンは顔を上げた。涙に濡れた瞳が、まっすぐに俺を捉えている。
「……何が、終わったんだよ。お前は死んだんだぞ。俺が、この手で殺したんだ。それなのに、どうしてそんな顔で笑っていられるんだよ」
俺は、すぐには答えられなかった。
あいつが俺を殺した後も、何度も蘇生を試みていたことを知ってしまった今、軽々しく慰めの言葉を口にすることはできなかった。俺が死んだことは変えられないし、あいつが背負ってしまったものも、簡単に消えるわけではない。
だから、俺は別のことを考えた。
何か、まだ直せるものはないだろうか。俺が生きている間にやり残した仕事で、あいつに託せるものはないだろうか。
そのとき、ふと、工房の作業台に置かれた懐中時計のことを思い出した。
「……ああ、そうだ。店の裏に、修理途中の時計があるんだ。あれ、直しておいてくれないか。歯車が一つ欠けているだけだから、部品を削り出せば動くはずなんだが、どうにも時間がなくてな。持ち主もきっと待っているだろうし、あのまま放っておくのは、修復師として少しばかり心残りなんだ」
レオンは驚いたように俺を見た。
世界を救った勇者に、壊れた時計を直してほしいなどと頼むのだから、我ながら随分と無茶な話だと思う。だが、あの時計には持ち主の生活が染み込んでいる。長い年月をともに過ごし、何度も修理されながら使われ続けてきた、小さな懐中時計だった。
俺は、ああいう道具が好きだった。
高価な宝石や立派な装飾品よりも、誰かの日常に寄り添い、壊れてもなお使い続けたいと思われるような道具を、俺は何よりも大切にしてきたのである。
レオンはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……ああ。必ず直す。お前が残した仕事も、工房も、俺が責任を持って守る。だから、安心してくれ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
世界を救った勇者が、俺の工房で時計を直す。そんな未来があるのなら、俺の人生も案外悪くなかったのかもしれない。
「頼んだぜ、勇者様」
俺は最後にそう告げ、ゆっくりと目を閉じた。
視界の端で、レオンが何かを叫んでいるように見えたが、その声はもう届かなかった。ただ、あいつがこれからも生きていくのだという確かな安堵だけが、消えゆく意識の中に残っていた。
父さん。俺は、最後まで修復師だったよ。
そして、俺は消えた。
翌朝、王都の裏通りにある小さな修理工房の扉が開かれた。
油と鉄の匂いが染みついた作業台の前に、一人の青年が腰を下ろしていた。茶色い髪にそばかすのあるその青年は、欠けた歯車を慎重に削り直している。
指先は、工具の扱い方を覚えていた。
鑢を当てる角度も、金属を削るときの力加減も、歯車の噛み合わせを確かめる手順も、身体は迷うことなく再現できた。だが、その動きを導いている意識は、まだ修復師として生きることに慣れていなかった。何度も手を止め、工具を握り直し、かつて自分が剣を振るっていたときとはまったく異なる静けさの中で、目の前の小さな部品と向き合い続けた。
やがて、最後の歯車が正しい位置へ収まり、青年は小さく息を吐いた。
裏蓋を閉じ、巻き上げ軸を回す。
長い間止まっていた懐中時計の針が、ゆっくりと動き始めた。
青年はしばらく、その音に耳を澄ませていた。戦場で聞いてきた剣戟や怒号とは違う、あまりにも小さな音だった。だが、その規則正しい響きは、不思議と胸の奥に深く染み込んでいった。
やがて青年は、作業台の端に置かれた古い看板へ手を伸ばした。
そこには、少し掠れた文字で「休業中」と書かれている。
彼はその看板を裏返し、扉の外へ掛け直した。
朝の光を受けて、古びた木札の文字が浮かび上がった。
――営業中。
そのとき、工房の奥で、小さな時計が時を刻み始めた。
――完。




