第四章 裏切りのナイフ
あの日のことは、今でもはっきり覚えている。
ある夜、トイレに行こうとして目が覚めたときだった。寝室から、妻の声が聞こえた。電話の声だった。特別に聞くつもりはなかった。ただ、その声があまりにも親しげで、まるで恋人と話しているように聞こえた。
その瞬間、胸の奥に嫌な感覚が走った。
――まさか。
そう思った。でも、思いたくなかった。気のせいだと自分に言い聞かせた。それでも足は止まり、悪いとは思いながら、ほんの少しだけ耳を澄ませてしまった。
間違いではなかった。
妻は、誰かと恋人のように話していた。昔、僕と電話していた頃と同じ声だった。
心臓の鼓動が一気に早くなり、頭から血の気が引いていくのが分かった。思考は真っ白で、体だけがそこに立ち尽くしていた。
やがて電話を終えた妻がトイレに向かってきて、僕と鉢合わせた。妻は慌てた様子で「違う」と言っていたが、その言葉はもう耳に入らなかった。
その瞬間まで信じていた妻の行動すべてが、一気に信用できなくなった。
その夜、どう話が終わったのか、正直ほとんど覚えていない。
ただ、翌日から妻は、僕が家にいる間は出かけなくなった。
そして数日後、違和感が確信に変わる日が来た。
胸騒ぎを消すため、車のドライブレコーダーを確認した。そこには、見たくない現実が映っていた。
時間は、僕が仕事に行っている間だった。
信じていた分だけ、痛みは深かった。
三日間、胸の中に抱えたまま過ごし、やがて話し合いを切り出した。最初、妻は否定したが、ドライブレコーダーのことを話すと、観念したように語り始めた。
相手は、通っていたジムのインストラクターだった。
僕は大事にしたくなかった。家庭を壊したくなかった。ただ「もうしない」と約束してもらい、許すことにした。
だが、現実は甘くなかった。
二回目も、僕が仕事に行っている間だった。不自然に消えたデータを復元して
分かった。
それでも僕は強く責めなかった。妻は「不倫はしていない」と言った。僕は見ないふりをした。これ以上壊れるのが怖かったのだと思う。
だが、すぐに三回目が訪れた。
玄関にいつもと違う外出用の靴が置いてあった。妻はその日はどこにも出かけていないと言っていたはずだった。
次はICOCAの利用履歴を確認した。そこには移動した記録がはっきり残っていた。しかも、いつも相手と会っていた場所だった。
事実を突きつけると、妻はすぐに認めた。
不倫相手とも話し合いの場を持ち、もう会わないと約束させた。
だがその結果を妻に伝えると、妻は「もう会えない」悲しさで泣いていた。
その涙は、僕のためのものではなかった。
それ以降、妻は少しずつ、僕から距離を取るようになっていった。
真実を知った瞬間、時間が止まったように感じた。
頭では理解しているのに、心が追いつかない。言葉が消え、音が遠くなり、ただ胸の奥が静かに壊れていく感覚だけが残った。
愛していた人に裏切られるというのは、怒りよりも先に、自分の価値が否定されたような痛みが来る。
「なぜ自分だったのか」「何が足りなかったのか」
答えのない問いだけが、何度も頭を巡った。




