第五章 誕生日
三月。
妻と子どもたちが出ていって、数ヶ月が経った。
今日は、長男の誕生日だ。
毎年、ケーキを買い、プレゼントを用意し、
家族みんなで祝っていた。
バースデーソングを歌い、
ロウソクを吹き消す。
兄妹みんながやりたがって、
何度も火をつけて、何度もやり直す。
それが我が家の恒例だった。
ずっと続いていくものだと、疑いもしなかった。
ついこの間まで、
当たり前だった日常。
――もう、あの時には戻れないのだろうか。
そう思うだけで、胸の奥が静かに痛む。
ちゃんとお祝いしているだろうか。
ケーキは食べられているだろうか。
プレゼントは、笑って受け取っているだろうか。
考え始めると、また涙が滲む。
自分がこんなにも涙もろい人間だったとは、知らなかった。
家族の幸せが、僕の幸せだったのだと、
今さらのように気づく。
家族のためなら何でもできる。
何だって我慢できる。
本気で、そう思っていた。
だからかもしれない。
職場に、奥さんへ
「ありがとう」や「ごめん」を
素直に言えない先輩がいた。
きっと不器用な人なのだと思う。
当たり前の存在だからこそ、言えないのだろう。
僕は柄にもなく、少し忠告めいたことを言った。
「思っていることは、口にしないと伝わりませんよ。
伝えられるうちに、伝えたほうがいいです。
いなくなってからじゃ、もう話すこともできない。」
先輩は、真面目な顔で頷いた。
だから僕は、約束した。
「今日帰ったら、“愛してる”って言ってください。」
きっと今頃、伝えているだろう。
では、もし僕が
もう一度、妻に会えたなら。
何を言うだろう。
突然出ていったことへの文句か。
恨みや怒りをぶつけるのか。
――違った。
心の奥から浮かんできた言葉は、ひとつだった。
もう一度、言いたい。
「愛してる」と。
10年以上愛した女性を、
いきなり嫌いになんてなれない。
苦しい時も、辛い時も、
一緒に乗り越えてきた。
時には喧嘩もした。
それでも、嫌いになったことは一度もなかった。
いつだって、世界でいちばん大切な存在だった。
きっと彼女は、もうそうは思っていないだろう。
僕を避けるだろう。
それでも。
彼女は、家族だった。
社会的には、もう過去形なのかもしれない。
けれど、僕の心の中では、
今も家族のままだ。
だからだろう。
今でも、彼女を愛している。
愛とは、無償だ。
空から降り注ぐ雨のようなものだと、僕は思う。
見返りを求めず、
ただ静かに降り続ける。
「愛のスコール」とは、よく言ったものだ。
止めようとしても、止まらない。
理屈では、どうにもならない。
人によっては、気持ち悪いと思うかもしれない。
未練だと笑う人もいるかもしれない。
それでもいい。
これが、僕の本心だ。




