第一章 電話
一月に入り、新年が始まったある日のことだった。
一本の電話がかかってきた。
見慣れない番号。
一瞬ためらいながらも、通話ボタンを押した。
相手は、県外のまったく知らない病院だった。
要件は、長男の通院予約について。
「奥様にご連絡がつかないので、前の病院からこちらの番号を教えていただきました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
もちろん、僕は妻の連絡先を知らない。
今どこにいるのかも、知らない。
知ろうともしていなかった。
「妻に連絡が行くようにします」
それだけを静かに伝え、電話を切った。
すぐに担当弁護士へ連絡を入れた。
事情を説明し、妻側の弁護士から妻へ伝えてもらうよう依頼した。
それで終わるはずだった。
ただの連絡。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思っていた。
しかし、終わりではなかった。
数日後、担当弁護士から電話が入った。
その声は、いつもよりわずかに硬かった。
「奥様が、あなたに居場所を知られたと思っているようです」
耳を疑った。
どうやら妻は、自分のいる県に僕が来ないという誓約書を書かなければ、調停に応じないと言っているらしい。
担当弁護士も、明らかに憤りを感じていた。
僕は親切のつもりだった。
子どもの通院という大切な用件だから、責任を持って繋いだだけだ。
だが、それは彼女には届かなかった。
彼女に伝わったのは、
「居場所がバレた」という恐怖だけだった。
その感覚は、他人には理解しづらいだろう。
担当弁護士も戸惑っていた。
だが、十年という歳月を共に過ごした僕には、どこか理解できる部分もあった。
彼女はいつも、現実よりも先に“恐れ”を感じる人だった。
事実よりも、想像のほうが膨らんでしまう人だった。
誓約については、すぐに返答した。
「それは難しいです」
さすがに範囲が広すぎる。
一生その県に足を踏み入れない、という誓約はできない。
仕事で訪れる可能性もある。
人生は、どこで何があるか分からない。
「もう少し範囲を絞っていただけないでしょうか」
そう伝えてもらうことにした。
僕は追いかけてもいない。
探してもいない。
ただ、父親として最低限の連絡を繋いだだけだ。
それでも、僕は“脅威”になるらしい。
電話一本で、
人は加害者にも、追跡者にもされる。
静かに、しかし確実に。
物語は終わらない方向へと進んでいく。
これが、第三幕の始まりだった。




