終章 新年
大晦日。
新しい年まで、あと数時間と迫った夜。
僕は、とある場所へ向かっていた。
妻と子供が出て行ってから、数ヶ月。
こんなにも長く、一人で過ごした時間は、十年以上なかった。
考える時間は、嫌というほどあった。
自分を見つめ直すには、十分すぎる時間だった。
街は、大晦日特有の浮き立つ空気に包まれている。
店先から流れる音楽。
寄り添いながら歩くカップル。
笑顔で手を繋ぐ家族。
ほんの数ヶ月前まで、
僕もあの光景の中にいた。
今では、そのすべてが
ガラス越しに眺める別の世界のように感じる。
今日は、一人で過ごすには辛すぎる。
せめて新年くらいは、誰かと祝いたい。
そんな思いで訪れたのは、最近行きつけになったバーだった。
落ち着いた灯りと、少しだけ低めに流れる音楽。
ここだけは、時間の進み方が違う。
今日は店員さんが一人で営業すると聞いていた。
「お客さん来なかったら、年越し一人ですよ」
そう笑って話してくれたあの言葉が、なぜか頭に残っていた。
だから決めた。
今年の年越しは、ここで過ごそうと。
店に入ると、いつもの店員さんが、変わらない笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい」
その一言が、妙に温かかった。
差し出されたビールは、よく冷えていて、
一口飲むと、胸の奥まで沁みた。
他愛もない会話。
「今年は大変でしたね」なんて、どこにでもあるやり取り。
でもその時間は、
確かに誰かと同じ場所で、同じ空気を吸っている時間だった。
それだけで、十分に贅沢だった。
途中から、オーナーさんやその友人も店に顔を出した。
静かだった店内は、少しずつ賑やかになっていく。
笑い声が増えるたびに、僕の頬も自然と緩んでいた。
時計の針は、ゆっくりと十二時へ近づいていく。
いよいよ年越しだ。
「10、9、8――」
誰かが声を上げ、みんなでカウントダウンを始める。
「3、2、1――」
「あけましておめでとうございます」
グラスを合わせる澄んだ音が、小さく響いた。
今年も、誰かと一緒に年を越すことができた。
それは、当たり前ではなかった。
失って初めてわかる。
誰かと同じ時間を迎えるということの、尊さ。
家族の形は変わった。
隣にいる人も、かつてとは違う。
去年は、本当に大変だった。
これまでの人生が、百八十度変わった年だった。
今年は、一体どんな年になるのだろう。
正直、不安のほうが大きい。
それでも――
きっと、いいこともある。
自分に言い聞かせるように、そう思った。
そんなことを考えているうちに、
どんどんお客さんが増え始めた。
きっと年越し後の二次会だろう。
店内は一気に賑やかになる。
明るい声、弾む笑い。
不安は消えていない。
でも、今は楽しもうと思えた。
辛い時。
苦しい時。
悲しい時。
寂しい時。
そんな時は、ここに来よう。
ここなら、一人じゃない。
ここでなら、泣いてもいい。
誰かが、同じ空間にいてくれる。
そう思いながら、夜は更けていく。
酒が進むにつれて、
根拠のない希望が、胸の奥に灯る。
きっと、いいことがある。
理由なんてなくていい。
ただ、そう思える自分が、そこにいた。
ここから、新しい年が始まる。




