幕間 面談
妻の不倫が発覚してから、
僕はその相手と会うことにした。
連絡先を交換し、その週末の夜、
ジムの駐車場で待ち合わせた。
車の中で待っているあいだ、
不思議と落ち着いていた。
怒りも、悲しみも、なかった。
ただ、現実味だけがなかった。
まるで誰かの人生を、
遠くの観客席から眺めているようだった。
やがて相手が歩いてくるのが見えた。
街灯に照らされたその姿は、
思っていたよりも、ずっと普通だった。
僕は車を降り、軽く頭を下げた。
「初めまして」
自分でも驚くほど平坦な声だった。
感情をどこかに置き忘れたような声だった。
相手は少し緊張している様子だった。
その緊張さえ、妙に他人事のように見えた。
車に乗るよう促し、近くのカフェへ向かった。
車内は無言だった。
音楽も流さなかった。
タイヤがアスファルトを擦る音だけが、
やけに大きく響いていた。
カフェに着き、二人で席に座る。
コーヒーを二つ注文する。
カップが置かれ、
白い湯気が立ちのぼる。
その向こうにいる男が、
自分の人生を壊した張本人だと、
頭では理解しているのに、
心が追いついていなかった。
ひと口飲んでから、
僕は淡々と切り出した。
自己紹介。
そして、事実確認。
出会いのきっかけ。
時期。
いつから始まり、どれくらい続いたのか。
どこで会い、何をしていたのか。
あまりに生々しく、
あまりに具体的で、
聞いているのに、
聞いていないようだった。
知らない誰かの話のようだった。
けれどそれは、
紛れもなく、
僕の人生の話だった。
妻のことをどう思っているのかと聞いた。
「好きです」
相手は、迷いなくそう言った。
離婚してほしいのかと問うと、
「彼女の生活は壊したくない」と言った。
妻は僕といるほうが幸せだ、とも言った。
幸せになってほしい。
支えたい。
何かしてあげられることがあれば、してあげたい。
真顔で、そう言った。
意味がわからなかった。
もし僕が離婚すると言ったらどうするのか。
責任は取れるのか。
子どもたちから父親を奪うことを考えなかったのか。
幸せになってほしいなら、
なぜ不倫をしたのか。
自分の望む幸せが、
目の前の夫の犠牲の上にしか成り立たないことを、
本当に理解しているのか。
人は、自分に都合のいい言葉で罪を包むことができる。
「幸せになってほしい」
その言葉の裏で、
誰かが壊れている現実を、
見ないふりをすることもできる。
あの日の夜、
僕はひとつ学んだ。
人は、
正しいふりをして、
平気で他人の人生に踏み込む。
そして、
その責任の重さを、
最後まで抱える覚悟がないまま、
愛という言葉を口にする。
覚悟も実力もないのに、
立派なことだけは言う。
子どもならまだしも、
もう三十も過ぎた大人だ。
あまりにも違いすぎた。
人生の密度が。
背負ってきた時間の重さが。
覚悟の量が。
自分のこの十年を振り返った。
家族のために働き、
父親として立ち、
夫として踏ん張ってきた十年。
失敗も、葛藤も、
逃げたくなる夜もあった。
それでも逃げなかった。
その重さを、
目の前の男は、
一度でも想像したことがあるのだろうか。
綺麗な言葉を並べるくらいなら、
いっそ言ってくれた方がまだ良かった。
「奥さんと離婚してください。
責任は取ります」
そう言ってくれた方が、
よほど誠実だった。
無責任な優しさより、
身勝手でも覚悟のある言葉のほうが、
まだ筋が通っている。
守る気もないのに、
壊すことだけはできる。
その軽さが、
何より許せなかった。
けれど、
実際に心を占めたのは、怒りではなかった。
虚しさだった。
怒りは熱だ。
でも虚しさは、温度を奪う。
あの夜、
僕の中で何かが静かに凍った。
そこからは、事務的だった。
感情は、もう前に出てこなかった。
これからどうしていくのか。
示談には応じるのか。
民事で争う意思はあるのか。
必要なことだけを確認した。
まるで仕事の打ち合わせのように、
淡々と。
紙に書き出し、
要点を整理し、
抜けがないかを確認する。
冷徹。
そんな言葉が、いちばん近かった。
怒りもない。
激情もない。
ただ、温度のない判断だけがあった。
最後は書面でまとめる。
後日あらためて面談する。
その旨を伝え、その日は終わった。
ジムまで送り届け、
僕は一人で帰路についた。
夜の道路は静かだった。
信号の赤が、やけに長く感じた。
車の中でも、
家に着いてからも、
僕の心を支配していたのは——
虚無だった。
何も湧き上がらない。
何も壊れない。
何も叫ばない。
ただ、空っぽだった。
妻が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫?」
その言葉が、
遠くから聞こえるようだった。
その心配は、
僕を気遣ってのものなのか。
それとも、
不倫相手を案じてのものなのか。
僕には、もう分からなかった。




