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僕の物語― それでも、前へ ―  作者: シロイルカ
第2幕 リアルモノローグ
17/22

幕間 面談

妻の不倫が発覚してから、

僕はその相手と会うことにした。

連絡先を交換し、その週末の夜、

ジムの駐車場で待ち合わせた。

車の中で待っているあいだ、

不思議と落ち着いていた。

怒りも、悲しみも、なかった。

ただ、現実味だけがなかった。

まるで誰かの人生を、

遠くの観客席から眺めているようだった。

やがて相手が歩いてくるのが見えた。

街灯に照らされたその姿は、

思っていたよりも、ずっと普通だった。

僕は車を降り、軽く頭を下げた。

「初めまして」

自分でも驚くほど平坦な声だった。

感情をどこかに置き忘れたような声だった。

相手は少し緊張している様子だった。

その緊張さえ、妙に他人事のように見えた。

車に乗るよう促し、近くのカフェへ向かった。

車内は無言だった。

音楽も流さなかった。

タイヤがアスファルトを擦る音だけが、

やけに大きく響いていた。

カフェに着き、二人で席に座る。

コーヒーを二つ注文する。

カップが置かれ、

白い湯気が立ちのぼる。

その向こうにいる男が、

自分の人生を壊した張本人だと、

頭では理解しているのに、

心が追いついていなかった。

ひと口飲んでから、

僕は淡々と切り出した。

自己紹介。

そして、事実確認。

出会いのきっかけ。

時期。

いつから始まり、どれくらい続いたのか。

どこで会い、何をしていたのか。

あまりに生々しく、

あまりに具体的で、

聞いているのに、

聞いていないようだった。

知らない誰かの話のようだった。

けれどそれは、

紛れもなく、

僕の人生の話だった。

妻のことをどう思っているのかと聞いた。

「好きです」

相手は、迷いなくそう言った。

離婚してほしいのかと問うと、

「彼女の生活は壊したくない」と言った。

妻は僕といるほうが幸せだ、とも言った。

幸せになってほしい。

支えたい。

何かしてあげられることがあれば、してあげたい。

真顔で、そう言った。

意味がわからなかった。

もし僕が離婚すると言ったらどうするのか。

責任は取れるのか。

子どもたちから父親を奪うことを考えなかったのか。

幸せになってほしいなら、

なぜ不倫をしたのか。

自分の望む幸せが、

目の前の夫の犠牲の上にしか成り立たないことを、

本当に理解しているのか。

人は、自分に都合のいい言葉で罪を包むことができる。

「幸せになってほしい」

その言葉の裏で、

誰かが壊れている現実を、

見ないふりをすることもできる。

あの日の夜、

僕はひとつ学んだ。

人は、

正しいふりをして、

平気で他人の人生に踏み込む。

そして、

その責任の重さを、

最後まで抱える覚悟がないまま、

愛という言葉を口にする。


覚悟も実力もないのに、

立派なことだけは言う。

子どもならまだしも、

もう三十も過ぎた大人だ。

あまりにも違いすぎた。

人生の密度が。

背負ってきた時間の重さが。

覚悟の量が。

自分のこの十年を振り返った。

家族のために働き、

父親として立ち、

夫として踏ん張ってきた十年。

失敗も、葛藤も、

逃げたくなる夜もあった。

それでも逃げなかった。

その重さを、

目の前の男は、

一度でも想像したことがあるのだろうか。

綺麗な言葉を並べるくらいなら、

いっそ言ってくれた方がまだ良かった。

「奥さんと離婚してください。

責任は取ります」

そう言ってくれた方が、

よほど誠実だった。

無責任な優しさより、

身勝手でも覚悟のある言葉のほうが、

まだ筋が通っている。

守る気もないのに、

壊すことだけはできる。

その軽さが、

何より許せなかった。


けれど、

実際に心を占めたのは、怒りではなかった。

虚しさだった。

怒りは熱だ。

でも虚しさは、温度を奪う。

あの夜、

僕の中で何かが静かに凍った。


そこからは、事務的だった。

感情は、もう前に出てこなかった。

これからどうしていくのか。

示談には応じるのか。

民事で争う意思はあるのか。

必要なことだけを確認した。

まるで仕事の打ち合わせのように、

淡々と。

紙に書き出し、

要点を整理し、

抜けがないかを確認する。

冷徹。

そんな言葉が、いちばん近かった。

怒りもない。

激情もない。

ただ、温度のない判断だけがあった。

最後は書面でまとめる。

後日あらためて面談する。

その旨を伝え、その日は終わった。

ジムまで送り届け、

僕は一人で帰路についた。

夜の道路は静かだった。

信号の赤が、やけに長く感じた。

車の中でも、

家に着いてからも、

僕の心を支配していたのは——

虚無だった。

何も湧き上がらない。

何も壊れない。

何も叫ばない。

ただ、空っぽだった。

妻が心配そうに声をかけてきた。

「大丈夫?」

その言葉が、

遠くから聞こえるようだった。

その心配は、

僕を気遣ってのものなのか。

それとも、

不倫相手を案じてのものなのか。

僕には、もう分からなかった。

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