第一章 まず一歩
妻と子供が出ていってから、時間の感覚が曖昧になった。
感情に飲み込まれ、ただ塞ぎ込む日々。
しかし、ある時こう思った。
「感情のままではなく、客観的に今の自分を見てみよう」と。
もしこれが他人の話だったら、僕はどう助言するだろうか。
――妻に裏切られ、子供とも離れ、眠れず、食べられず、酒に頼っている。
――強がっているが、明らかに心は限界に近い。
第三者の立場なら、迷わずこう言うはずだ。
「それはもう一人で抱える段階を超えている。専門家に頼れ。」
僕はその意見に従うことにした。
感情ではなく、客観的な判断に従う。
自分自身にこう言い聞かせた。
自分よ、
今は気合いでどうにかする局面じゃない。
根性論で乗り切る話でもない。
傷は深い。出血している状態だ。
応急処置が必要だ。
「自分は大丈夫だ」という思い込みを捨てろ。
まず回復が最優先だ。
そう結論づけた僕は、病院へ行った。
待合室に座りながら、自分をもう一度俯瞰した。
これでいい。
まずは自分を治すところから始めよう。
壊れたまま戦場に立つのは愚かだ。
一度立て直してから、次を考えればいい。
今の目標は、自分を取り戻すことだ。
焦るな。
自分を責めるな。
他人の裏切りを、自分の価値と結びつけるな。
まずは睡眠を整えろ。
体力を戻せ。
酒で誤魔化すな。
感情を否定するな。
泣きたければ泣け。
そして、
今やらなければならないことを一つずつやれ。
僕は、客観的に導き出したその意見に従った。
病院では、抑うつ状態と診断された。
医師は静かに話を聞き、薬を処方してくれた。
診察室を出るとき、何かが劇的に変わったわけではない。
正直、病院に行ったからといって、気持ちがすぐに楽になるわけではなかった。
重たいものは、まだ胸の奥にあった。
失ったものの現実も、何ひとつ変わってはいない。
しかしながら、少なくとも変化はあった。
薬を飲み始めてから、以前に比べて睡眠が取れるようになった。
途切れ途切れでも、眠れる夜がある。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。
劇的ではない。
だが確実に、ゼロではない。
回復は一気には来ない。
少しずつ、ほんの少しずつだ。
それが、僕の「まず一歩」だった。




