第8話:帳簿、吸殻、夜風は死を勘定する
「――それで? たかが小娘一人に睨まれたから、尻尾を巻いて逃げ帰ったと」
港を見下ろす丘の上。石造りの館の上層階で、革靴が床を叩く乾いた音が響いた。
豪奢な絨毯には、先ほど吐き捨てられた葉巻が赤い火種を燻らせ、焦げ臭い煙を上げている。
「ち、違います! あれは……本能が、触れるなと……」
額を床に擦り付ける男の弁明は、濡れた布を振り回すような打撃音によって遮断された。
ボロフが蹴り上げた足先が、男の鼻梁を陥没させる。
鼻孔から噴き出した赤黒い液体が、高価な織物の柄を汚濁で上書きした。
「痛いか。だが安心しろ、すぐに何も感じなくなる」
ボロフは窓際へ歩み寄り、眼下に広がる港町レグスを睥睨する。
腐敗した魚と潮の混ざった風が、窓の隙間から這い込んでくる。彼にとってこの街は、金を絞り出すだけの巨大な臓器に過ぎない。
「羽虫が迷い込んだのなら、叩き潰すのが掃除だ。……行け。その宿を囲め。手足の二、三本もへし折れば、ガキの矜持など容易く砕ける」
──────
同時刻。宿の一室。
粗悪な油が燃える匂いと、海風が運ぶ腐敗臭が混ざり合い、部屋の空気を重く澱ませている。
窓枠に切り取られた闇の深淵を凝視していたジャックが、動かずに口を開いた。
「――今宵、客人が見えますな」
低く、地を這うような声音。
椅子に深く腰掛けたメリーは、帳簿のページをめくる手を止めず、平然と応じる。
「ええ、帳尻を合わせるには丁度良い頃合いですわ」
日常の業務報告と変わらぬ温度。
その異常な平穏さに、アルの思考が凍りつく。
「……は? 客……?」
アルが声を漏らすが、二人は彼に構うことなく、それぞれの時間を進め始めた。
ここから、長い沈黙が支配する「待機」が始まる。
メリーは、ただ淡々とペンを走らせる。
硬質なペン先が紙の繊維を引っ掻く、サリ、サリ、という乾いた摩擦音だけが、正確なリズムで時を刻む。
彼女にとって、迫りくる暴力など、処理すべき数字の羅列に過ぎない。
対して、アルは硬い木の椅子に根が生えたように縫い留められていた。
膝が、主の意思を離れて小刻みに揺れる。
自身の身を守るはずの装飾剣は、じっとりと滲む手汗で滑り、鞘と金具が触れ合ってカチ、カチと情けなく鳴り続けた。
その微かな金属音すら、この静寂の中では銃声のように鼓膜を打ち、彼の神経を逆撫でする。
永遠とも思える時間が過ぎ、やがてジャックの指先が僅かに動いた。
「――数、三」
事務的な報告。
アルの喉が引きつり、呼吸が止まる。
「ジャック。あえて、招き入れなさい。……後の片付けを楽にしたいの」
「承知いたしました」
老執事の手がランプの芯を潰す。
光が絶たれる。
視界が黒一色に塗り潰され、ジャックの輪郭さえも闇の底へ沈んだ。
直後、廊下の床板が軋む重い音が、扉の前で止まる。
真鍮のドアノブが、油を差されたばかりの滑らかさで回転を開始した。
金属が擦れる音すら立てず、錠前の爪が外れる。
隔絶されていた三つの質量が、音もなく室内へ滲出し始めた。
──────
部屋を支配するのは、濃密な闇と静寂。
窓から差し込む微かな月光だけが、床に細長い影を落としている。
アルは息を殺し、剣の柄を両手で握りしめていた。
手のひらの脂汗が、革の感触を不快に濡らす。
暗闇のどこかにジャックがいるはずだが、呼吸音ひとつ聞こえない。一方のメリーは、窓際の椅子に深く腰掛けたまま、足を組んで優雅にその時を待っている。
カチャリ。
ドアノブが、極限までゆっくりと回された。
古い蝶番が音もなく滑る。
廊下の薄明かりを背に、三つの影が室内へ滑り込んできた。
闇に溶け込んだ三つの影は、迷うことなく室内唯一の気配へと殺到した。
アルの鞘鳴りと、引きつった呼吸音。
それらは、闇に慣れた捕食者にとって、獲物の位置を知らせる灯台の明滅に等しい。
先頭の男が、無防備に晒されたアルの喉元へ肉薄する。
振り上げられた短剣の切っ先が、微かな月光を拾って鈍く光った。
「――いらっしゃいませ。靴のままで結構ですわよ」
鈴を転がすような声。
死の淵に響いた場違いな日常の挨拶が、男たちの思考を強制的に停止させる。
その一瞬の空白こそが、彼らが現世に留まる最後の時間となった。
最後尾の男が振り返ろうとした刹那、背後の闇から老執事の腕が伸びる。
鋼の針が延髄へと吸い込まれ、男は糸の切れた人形のように音もなく崩れ落ちた。
残された二人が、理解不能な気配に色めき立つ。
だが、メリーの指先には既に、蒼紫の炎が揺らめいていた。
彼女は帳簿の汚れを弾くように、指先を軽く横へ凪ぐ。
放たれたのは、高密度の熱量を持った二条の爪痕。
蒼紫の軌跡が暗闇を鮮やかに切り裂き、男たちの頭部空間を通過する。
肉が焼ける音すら置き去りにする速度。
切断面を瞬時に焼き塞がれた二つの肉体は、自らが絶命した事実さえ認識できぬまま、重い物体となって床へ叩きつけられた。
襲撃開始から、数秒。
怒号も悲鳴もなく、ただ三つの質量が転がったという結果だけが残された。
ジャックが懐から火打ち石を取り出し、火花を散らす。
油を含んだ芯が爆ぜ、萎縮していた炎が再び膨れ上がった。
部屋の四隅に押しやられていた光が戻り、闇の中で確定した物理的結末を白日の下に晒す。
床には三つの質量。
そのうち二つは、肩から上が高熱で溶解し、断面が焼き塞がれている。
血液の流出さえ許されない、あまりに清潔な断絶。
もう一つは、首筋に埋没した鋼の針によって、苦悶の表情すら浮かべることなく沈黙している。
部屋に充満するのは、鉄錆の臭気ではない。
脂と肉が強火で炙られた、食欲を逆撫でする濃厚な焼臭だった。
「ウ、ッ……」
アルの喉奥から、熱い酸液がせり上がる。
彼は口元を手で覆おうとしたが、指が動かない。
両手は剣の柄に凍りついたように癒着し、過剰な力が入り続けた筋肉が、意思とは無関係に痙攣している。
抜くことも、放すこともできない。
彼はただ、椅子の上で固まったまま、眼前に広がる圧倒的な「処理結果」を網膜に焼き付けられていた。
メリーが、革靴の爪先で床の余白を選びながら歩を進める。
彼女の足元は、死体が転がるこの場においてなお、泥一つ、煤一つ付着していない。
首のない死体の懐へ躊躇なく手を差し入れ、ジャラリと重みのある革袋を引き抜いた。
「あら、意外と持っていますのね。……ジャック、雑収入ではなく清掃費として計上を。この絨毯の買い替え費用くらいにはなるでしょう」
彼女はその袋を執事へと放り投げる。
宙を舞った金貨袋は、死臭の漂う空間を飛び越え、ジャックの手のひらに正確に収まった。
「承知いたしました。……して、こちらの汚物は如何になさいますか」
ジャックが冷ややかな視線で足元の肉塊を見下ろす。
「廃棄? いいえ、とんでもない」
メリーは窓の外、丘の上に聳える館を見上げた。
その瞳には、人を殺めた動揺など微塵もない。
あるのは、明日の配送手配を整える経営者の、理知的な光だけだ。
「借りたものは返すのが礼儀ですわ。丁寧に梱包して、持ち主へお返しなさい。……我々はただの旅行者ではなく、対等な取引相手であるというメッセージを添えて」




