第7話:視察、寄生虫、飾られた剣の重み
「――結論から申し上げれば、人災ですな」
夜の帳が下りた宿の一室。
ジャックの乾いた声が、卓上の貧弱なランプに照らされた紙の上へ落ちた。
「産業、流通、経済。都市を構成するすべての機能が停止しております」
老執事の指先が、殴り書きされたメモをなぞる。
「漁師は船を奪われ、あるいは腐らせ、海へ出る手段を失いました。街道は野盗と『通行料』という名の搾取により封鎖状態。正規の商人は寄り付かず、街は陸の孤島と化しています」
「原因は?」
メリーは椅子に深く腰掛け、不快そうに眉をひそめた。
「領主バルカス・ブラッドレイ子爵による、完全なる統治放棄です」
ジャックが淡々と事実を告げる。
「領主が育児放棄した空白地に、犯罪組織『ヴェーノ』という寄生虫が湧き、好き放題に民を食い物にしているのが現状です」
部屋の隅、アルベルトは硬い椅子の上で身じろぎもせず、その報告を聞いていた。
膝の上には、黄金の装飾剣。
彼は柄を握りしめ、王族として学んだ統治論とかけ離れた地獄の解剖図を、苦い顔で飲み込んでいた。
「……隣接するオルコット辺境伯の動きは」
アルベルトが低い声で問う。
「『剣鬼』と称される武闘派、オルコット辺境伯ですが、沈黙を貫いています。状況は把握しているはずですが、他領への干渉を避けているのでしょう」
「見捨てられている、ということね」
メリーが冷たく断じた。
「ならば放置しましょう。敵対しないのであれば、今は無視で構いません。いずれにせよ、正義の騎士様が白馬に乗って救いに来ることはない」
救いはない。外部からの介入も期待できない。
突きつけられたのは、この街が詰んでいるという冷厳な事実だけだった。
アルベルトは奥歯を噛み締め、無言で剣の鞘を撫でた。
「……ジャック、明日はこの街を下見します。準備をなさい」
「御意」
──────
翌朝。
一行は宿を出て、朝靄に包まれた街へと足を踏み出した。
ジャックは背筋を伸ばした老執事として、アルベルトは髭を剃り落とし、身なりを整えた没落貴族として振る舞う。
だが、その変装が滑稽に思えるほど、街の空気は死んでいた。
港湾区画。
そこにあるのは、潮騒の香りではない。
腐った木材と、澱んだ海水、そして打ち捨てられた魚の死骸が放つ、鼻をつく腐敗臭だった。
「……酷いな」
アルベルトが呻く。
波止場には、無数の漁船が係留されている。だが、そのどれもが船底に穴を開け、肋骨を晒す骸のように朽ち果てていた。
修理する気配さえない。
「直さないのではありません。直せないのです」
ジャックが補足する。
「この街には、船を直すための木材一枚、釘一本すら流通しておりません。漁師たちは海へ出る資格さえ剥奪されているのです」
虚ろな目をした男たちが、壊れた桟橋に座り込み、ただ濁った海面を眺めている。
彼らは怠惰なのではない。
動くための熱量を無駄にしないよう、機能を停止させているだけだ。
産業という心臓が止まっている。
アルベルトはその光景に圧倒され、かける言葉を見失った。
「次へ行くわよ。長居は無用です」
メリーはハンカチで口元を覆い、汚泥を避けるように歩き出した。
商業区画。
かつては市場として賑わったであろう大通りは、板で打ち付けられた廃墟の列と化していた。
開いている店は数えるほど。
アルベルトは、そのうちの一軒、野菜を並べた露店に近づいた。
「……っ」
思わず、顔をしかめる。
並んでいるのは、黒い斑点の浮いた人参と、しなびてひび割れた芋だけ。
その横に置かれた値札を見て、アルベルトは我が目を疑った。
「……このゴミのような芋が、銀貨一枚だと」
王都の相場の十倍、いや二十倍だ。
「物がないのです。需要と供給のバランスが崩壊し、ヴェーノが独占的に値を吊り上げている。金貨を持っていても、まともな食料は手に入りません」
ジャックの声が、死刑宣告のように響く。
店の主人は、アルベルトが驚いても反応しなかった。
どうせ買わないだろう。あるいは、買えるはずがない。
そんな諦めと無気力が、店主の瞳を濁らせている。
経済も死んでいた。
メリーは商品に見向きもせず、通り過ぎていく。
アルベルトは、誰にともなく詫びるように視線を下げ、重い足取りで彼女を追った。
──────
そして、居住区画。
そこは、街というよりは巨大なゴミ捨て場だった。
路地には汚水が溢れ、処理されない排泄物とゴミが山を成している。
鼻を突くアンモニア臭と、甘ったるい腐臭。
建物の影には、ボロ布を纏った人々が、死んだようにうずくまっていた。
「……」
アルベルトは息を呑んだ。
やせ細り、骨と皮だけになった子供が、泥水を啜っている。
その横を、大人が虚ろな目で通り過ぎる。
誰も助けない。助ける余裕がない。
これが、かつて父が統治していた王国の末端なのか。
アルベルトはたまらず、一人の老人に歩み寄ろうとした。
だが、メリーの声がそれを止めた。
「アル。この状況をどう見ますか」
試すような響き。
アルベルトは振り返り、悲惨な路地を見渡した。
王城で学んだ知識が、脳内で警鐘を鳴らしている。
「……最悪だ。不衛生な環境、栄養失調による体力の低下。このままでは疫病が発生する」
「ええ。その通りね」
「対策が必要だ。水源の確保、汚物の清掃と隔離、そして何より、まともな食料の配給が急務だ。民の体力を戻さねば、壊滅は時間の問題だ」
アルベルトは正解を口にした。
王族として学んだ、完璧な回答だ。
だが、メリーは冷ややかに首を傾げた。
「その通りよ。……で? その水と食料と金はどこから調達するの?」
「……っ」
「清掃する人手は? 彼らを動かす報酬は? 今の彼らに、タダで働けと命令するの?」
言葉が詰まる。
ない。何もかもが足りない。
金も、物資も、人材も、それを動かす権限さえも。
正解はわかっているのに、それを実行する手段が物理的に存在しない。
「……くそっ」
アルベルトは壁を殴りつけた。
無力。圧倒的な無力感。
王としての知識など、力のない現実の前では何の意味も持たなかった。
「何をすべきかはわかる。だが……打てる手が、一つもない……」
歯噛みするアルベルトを、メリーは静かに見つめた。
その瞳には、同情も慰めもない。
あるのは、損なわれていく「価値」に対する、底の知れない昏い憤りだけだった
「もったいない」
彼女は、汚れた路地と死にかけた人々を見回し、吐き捨てた。
悲劇への嘆きではない。
管理不全によって毀損されていく「資産」への、生理的な嫌悪だった。
「領主が投げ捨て、寄生虫が食い荒らす。……これでは、ただのゴミ捨て場ですわ」
メリーは視線を、丘の上に聳える派手な館――ヴェーノの本拠地へと向けた。
「肥え太った寄生虫……。彼らが吸い上げた金と物資、一滴残らず絞り出しますわよ」
──────
視察を終え、重い空気を纏ったまま宿への帰路につく。
夕闇が迫る路地裏。
腐臭と陰鬱さがさらに濃くなる時間帯。
「――おい。待ちなお坊ちゃん」
前方から、下卑た声がかかった。
行く手を塞ぐように、四人の男たちが立っていた。
薄汚れた服、腰に差した粗末な武器。そして、獲物をなぶるような粘着質な視線。
ヴェーノの構成員。
この街を蝕む寄生虫の末端だ。
アルベルトたちの身なりの良さが、彼らの欲望を刺激したのだ。
「……ッ」
アルベルトの反応は劇的だった。
先程までの無力感は消え、剣士としての条件反射が彼を突き動かす。
自然体で立ち、左手で鞘を掴み、右手で柄に手をかける。
鯉口を切る。
カチリ、と微かな金属音が殺気となって放たれた。
住民の話を聞き、この街の惨状を見た後だ。彼らが単なるチンピラではなく、民を殺す敵として認識されていた。
「おっ、やる気か? 生意気な……」
男たちが色めき立ち、武器に手を伸ばす。
だが、抜刀の瞬間は訪れなかった。
「汚れるわ」
冷たい声と共に、白い手がアルベルトの腕を制した。
メリーだった。
彼女はアルベルトの前に進み出ると、男たちを一瞥もしない。
ただ、汚れた野良犬を見るような目で、彼らを、そしてこの街全体を見回した。
「今日一日、この街を見て決めました」
少女の声は、澄んでいた。
恐怖も、媚びも、虚勢すらない。
ただ事実を告げる、絶対的な響き。
「領主が見捨て、誰もこの街の面倒を見ないのなら……私が貰っても構いませんわよね?」
「……あ?」
男たちが呆気にとられる。
メリーはにっこりと、花が咲くように微笑んだ。
それは、略奪者が獲物を見つけた時の、無邪気で残酷な笑みだった。
「聴きなさい、寄生虫ども。アンタたちのボスに伝えなさい」
彼女は指先で、丘の上の館を指し示した。
「後日いただきに参ります。と」
それは宣戦布告ですらなかった。
立ち退き勧告。あるいは、所有権の移転通知。
メリーはスカートの裾を翻し、呆然とする男たちの横を悠然とすり抜けていく。
「……行くわよ、アル。ジャック」
新たな支配者としての覇気が、夕闇の路地裏を支配していた。




