第55話:指導者、木箱の上の少女の幻影、国王は丸芋の皮をむく
「これが港町レグス、全ての始まりの地か」
小高い丘に建つレグス商会の本拠地を出立した商会の馬車は、規則正しい蹄の音と車輪の軋みを夜明けの空気に響かせながら、海沿いの斜面を緩やかに下っていく。
深く腰を沈めているのは、アステリア王国現国王ヴォルガンである。
王国の頂点に立つ絶対権力者の視線の先には、黄金色の朝日を反射して波間に無数の光の粒を瞬かせる、広大な外海が広がっていた。
そして眼下に広がる港町は、まだ太陽が顔を出したばかりの早朝であるにもかかわらず、すでに途切れることのない生命の熱量を放っている。
堅牢な石畳で舗装された幅広の街道には、木箱や麻袋を山のように積んだ大型の荷馬車が絶え間なく行き交い、御者たちの威勢のいい怒声や、馬の嘶き、車輪が石を打つ重低音が幾重にも重なり合って、一つの巨大な生き物の鼓動のように空気を震わせていた。
ヴォルガンは窓枠に肘を預け、流れる景色の中からその熱の根源を暴き出そうとするかのように、鋭い眼光を研ぎ澄ませた。
やがて馬車は小高い丘を下りきり、潮の香りが一段と色濃く漂う平坦な区画へと足を踏み入れた。
規則正しく立ち並ぶ威容を誇る建物の群れが、朝の光を受けて巨大な影を落としている。
「ここが物流区画、倉庫街ですね。荷馬車の乗り入れに便利なように、倉庫前の敷地は広くとっています」
向かいの席に座る男が、澱みない口調で静かに案内を始める。
西の物流を握る大商人ベルン。
彼の言葉通り、窓の外に広がるのは、王都のそれとは比較にならないほど巨大で、かつ整然と区画割りされた倉庫群であった。
堅牢な石造りの倉庫群の前には、大型の荷馬車が数台並んで転回できるほどの広大な石畳の空間が確保されており、物資の積み下ろしを行う作業員たちの無駄のない動きが、淀みのない連携となって機能している。
「よく考えてあるな。待ち渋滞を緩和しているんだな」
ヴォルガンは感嘆の念を隠すことなく、低く腹の底に響く声で応じた。
王都の市場や倉庫街では、荷下ろしを待つ馬車が細い路地を塞ぎ、一日中怒号が飛び交うのが日常茶飯事である。
しかしここでは、莫大な物資が動いているにもかかわらず、荷馬車の流れが滞ることなく、恐ろしいほどの効率で捌かれていた。
物流を滞らせないための、極限まで計算し尽くされた空間設計がそこにはあった。
「辺境ならではですね。中央じゃこれだけの土地の確保は難しいでしょうし」
ベルンはわずかに目元を綻ばせ、謙遜とも自負ともとれる言葉を返す。
更地から都市を再構築できるという辺境の利点を最大限に活かし、未来の発展を見越して描かれた巨大な青写真。
その果てしない想像力と実行力に、ヴォルガンは沈黙をもって敬意を表した。
馬車は広大な物流区画を抜け、潮騒の音が直接耳に届く場所へと至る。
視界が開け、朝日に照らされた果てしない海原と、そこに係留された無数の船の森が姿を現した。
「ここが港湾区画。物流の心臓部と言ってもいいでしょう」
ベルンの言葉を待つまでもなく、そこは海の玄関口であった。
巨大なガレオン船から小型の商船まで、様々な意匠の帆を畳んだ船が桟橋に横付けされ、太いロープで堅牢な杭に繋ぎ止められている。
水夫たちが甲板を駆け回り、滑車が悲鳴を上げながら重い荷を陸へと引き上げる。
足元の石畳は波の飛沫で黒く濡れ、海藻と塩と香辛料の入り混じった強烈な匂いが鼻腔を突いた。
「輸送用の港と漁港は別なのか」
ヴォルガンの鋭い眼光が、港の構造を正確に捉える。
眼前に広がるのは、明らかに大型の荷船を受け入れるための水深の深い港であり、漁に使われるような小型の網船の姿は見当たらなかった。
混在を避けることで、ここでも徹底的な効率化が図られているのだと、王の理性が即座に判断を下す。
「ここから港湾区画の倉庫群の向こう、あっちが漁港と塩の加工所ですね」
ベルンが指差した先、巨大な倉庫群の向こう側からは、白い煙が幾筋も立ち昇り、朝の青空へと溶け込んでいた。
風に乗って、潮の香りの中に微かに薪の燃える匂いと、魚を炙るような香ばしい匂いが混じってくる。
「なるほど。あの『メリーちゃん』印の塩や加工品はそこで作っているのだな」
王国全土の食卓を支配しつつある、『メリーちゃん』印の塩袋と干物。
その生産の心臓部がそこにあるのだと理解したヴォルガンは、微かに口角を上げた。
兵糧としても保存食としても極めて優秀なそれらが、あのピンク色の髪の少女の顔を冠して生み出されているという事実が、奇妙な滑稽さと恐るべき合理性の同居を感じさせる。
馬車は港の喧騒を横目に進み、やがて海を見渡せる広々とした石畳の広場へと差し掛かった。
中央には立派な石造りの水飲み場が設けられ、朝の仕事に向かう前の者たちが三々五々集って短い休息を取っている。
「ここの広場がメリーさんが一番最初に炊き出しをした、すべての始まりの場所です」
ベルンの声に、かつての凄惨な記憶の色が微かに滲む。
飢餓に喘ぎ、死臭が充満していたという数年前の荒廃。
その絶望のどん底で、一人の少女が木箱の上に立ち、命の糧を配ったという伝説の起点。
ヴォルガンは馬車を止めさせ、その広場を静かに見渡した。
すると、水飲み場の傍らで腰を下ろしていた白髪の老婆が、護衛の近衛兵たちに怯える様子もなく、皺くちゃの顔に親しげな笑みを浮かべて馬車へと近づいてきた。
潮風に長年晒されたであろう深い皺に刻まれた瞳は、温かな光を帯びている。
「ベルンさん、おはよう。メリーちゃんは一緒じゃないのかい?」
かすれ気味でありながらも、よく通る声で老婆が問いかける。
西の救世主に対する畏れ多い敬称など一切なく、まるで近所の孫娘の姿を探すかのような、あまりにも自然で無防備な問いかけ。
王国の頂点たる王が同乗していることなど知る由もない老婆の振る舞いに、近衛兵たちが僅かに肩を強張らせるが、ヴォルガンは手でそれを制した。
「おはようございます。メリーさんが来ると騒ぎになっちゃいますからね。彼女はなかなか港には来ませんね」
ベルンは馬車の窓から顔を出し、老婦人に対して商人の作り笑いではない、心からの柔らかな笑みを向けて応じた。
誰もが彼女に一目会いたいと願い、姿を見せれば熱狂の渦が巻き起こる。
それが、西の地におけるあの少女の絶対的な立ち位置であった。
「そうかい。先日メリーちゃんを見たよ。大きくなって、ますます美人さんになったね。あの頃は木箱に乗って領主様ごっこをしていたのにねぇ」
老婆は遠い過去の情景を愛おしむように目を細め、ぽつりと呟いた。
木箱に乗って領主様ごっこ。
その言葉の響きに込められた、幼き日の少女への郷愁と深い慈愛。
石畳の上に、木箱に立つ小さな影が重なり、ヴォルガンはわずかに目を細めた。
王の権威でも、貴族の血筋も関係なく、ただ泥臭く共に生き抜いたという事実だけが、この地に絶対の信仰を根付かせている。
ヴォルガンは老婆の皺深い横顔に、真の指導者が得るべき民草の愛情の形を見た気がした。
馬車は再びゆっくりと動き出し、広場を後にしてさらに街の奥へと進んでいく。
海沿いの道から内陸へと針路をとると、街の様相は物流の粗々しさから、洗練された人々の営みへと変化を見せ始めた。
整然と区画割りされた石畳の通りに、堅牢でありながら意匠を凝らした商家が建ち並ぶ商業区画。
ベルンが視線を向けた先には、他の建物よりも一回り大きく、重厚な構えを見せる立派な商館が建っていた。
「そしてここが、『メリーちゃん』グッズ発祥の地ですね。今は専門店ができています」
ベルンが示す先には、淡いピンク色と毒々しい蒼紫の薔薇の意匠で埋め尽くされた、周囲の重厚な石造りの景観を完全に破壊する店舗が存在していた。
朝の早い時間であるにもかかわらず、店先にはすでに若い娘や子供連れの母親たちが群がり、その禍々しい意匠の小物を手にして熱狂的な声を上げている。
王城の近衛兵たちですら正気を疑わせたあの悪夢のような意匠が、ここではごく自然な日常の一部として完全に同化していた。
「それも君が創ったのか。たいしたものだ」
王国の深部まで静かに侵略を進めている文化の毒。
その発生源を生み出した商人に対し、ヴォルガンは畏怖すら混じる声で称賛を送った。
「ああ、いえ。商品化したのは僕ですが、発案はジャックさんです」
ベルンは首を振り、意外な人物の名を口にした。
「ジャックが!? なにをやっているんだ、あの『梟』は」
かつて王国諜報部で幾多の死線を潜り抜け、伝説とまで謳われた冷酷無比な暗殺者。
その男の頭脳から、この正気を疑うようなピンク色のグッズの数々が生み出されたという事実に、ヴォルガンの理解が追いつかない。
「嗜好品というのは、景気のバロメーターみたいなものですからね。当時は復興度合いを測る目安になるかな、くらいだったんですけどね」
ベルンは狂気の発明の裏側に隠された、極めて論理的な計算を明かした。
生きるか死ぬかの極限状態では、人は明日のパンしか求めない。
不要不急の嗜好品が売れ始めるということは、人々の生活に余剰と余裕が生まれたという何よりの証左である。
かつて闇に生きた男の研ぎ澄まされた眼光は、狂気のような意匠の裏で、民衆の懐事情と精神状態を正確に数値化し、監視していたのだ。
「なるほど。余裕ができないと嗜好品は売れない、か。よく考えてある」
ヴォルガンは深く頷き、窓外の熱狂から視線を戻した。
馬車は賑やかな商業区画を抜け、さらに緩やかな坂を上り始めた。
周囲の空気から喧騒が薄れ、代わりに清浄で穏やかな空気が漂い始める。
「ここが居住区画です。市長は現ガレル・オルコット辺境伯の弟、シリル・オルコットさんです」
坂を上り切った先に広がっていたのは、緑豊かな街路樹が整然と植えられ、朝日を浴びて白く輝く美しい住宅街であった。
石畳には塵一つ落ちておらず、家々の窓辺には色とりどりの花が飾られている。
すれ違う住人たちの服装は清潔で、子供たちの無邪気な笑い声が朝の空気に心地よく響いていた。
「オルコット辺境伯の? 昨夜、レグス商会にいた彼か」
ヴォルガンの脳裏に、西の重鎮たちが揃った昨夜の面々のうちの一人の姿が浮かび上がる。
北の山岳地帯を統べる武の化身、あの辺境伯の弟が、この穏やかな街並みを管理しているという事実。
「ここは特に力を入れたところですね。区画整理をしたり、古い建物を取り壊して新しくしたり、病院や学校、孤児院、託児所などの施設を作りました」
ベルンが指し示す通り、街並みの中には同じ規格で頑強に建てられた新しい施設がいくつも点在していた。
巨大な時計台を備えた学校の校庭からは、すでに子供たちが走り回る声が聞こえ、白亜の壁を持つ病院の前には、清潔な白衣を着た者が忙しそうに行き来している。
それは、ただ人間が寄り集まって住むだけの場所ではなく、未来を育むための完璧な揺り籠であった。
「新しい建物が多いのはそのせいか。ずいぶんきれいな場所だな」
王都の貴族街ですら、これほどまでに清潔で合理的な街並みは持ち合わせていない。
ヴォルガンは感嘆の溜息を漏らしながら、美しい居住区画の情景を網膜に焼き付けた。
「ここがスラム街だったなんて信じられますか? アルさん、アルベルト殿下がレグスに辿り着いてすぐに、このままでは疫病で壊滅すると提言したんです」
ベルンの口から、唐突に兄の名が発せられた。
現在のこの美しさからは想像もつかない、死の影が覆い尽くすスラム街。
そこへ踏み込んだ血を分けた兄の姿を幻視し、ヴォルガンの眼光が鋭さを増す。
「アルベルトが……」
辺境へと落ち延びた第一王子。
剣の腕しか取り柄がないと思っていたかつての兄が、この泥濘の中で何を見たのか。
「そうです。王城で学んだんでしょうね。ですが、金も物資も人材もない。そんな中でもここを優先して復興したアルベルト殿下の判断は正しかったんでしょうね」
絶望的な欠乏の中での、極限の取捨選択。
全てを救うことができない状況で、何を切り捨て、何を生かすか。
「何をするにもまず人材、だからな」
ヴォルガンは低く唸るように言った。
人がいなければ、国は成り立たない。
黄金も剣も、それを扱う人間が病に倒れてしまえばただのガラクタに過ぎない。
「すぐに医療関係者、建築関係者を雇い、居住区画の立て直し、清掃を始めました。以来、ここでの疫病は一切発生していません」
ベルンが語る実績は、どのような美辞麗句よりも重く、絶対的な勝利の記録であった。
一度も疫病を発生させない。
それは王都ですら成し遂げたことのない、途方もない偉業である。
「たいしたものだ。王都にもスラム街はある。医者と建築、食料と清掃か……」
ヴォルガンの脳裏に、華やかな王城の足元に広がる、暗く淀んだ王都のスラムの情景が重なる。
腐敗した王国を立て直すために玉座を奪った自身と、辺境の泥にまみれて確実な基盤を造り上げた兄。
手段は違えど、二人が見据える王国の未来に必要なピースは同じであった。
「そうですね。……まずは食料です。食べ物がなければ何も始まらない」
ベルンは商人としての、一切の綺麗事を削ぎ落とした乾いた真理を口にする。
飢えは人間の尊厳を根こそぎ奪い、活力を削ぐ。
「あの赤毛の娘もそう言っていたな。西の共通認識なのか」
あの騒々しい赤毛の姿を思い出し、ヴォルガンは僅かに目を伏せた。
「西の、ではないと思います。庶民の、でしょうね」
ベルンの静かな否定が、王と民の間の越えられない深い溝を浮き彫りにする。
王城の安全な場所で美食を貪る者たちには決して理解できない、泥水を啜って生き延びてきた者たちだけの真理。
「アルベルトは何年も前からそれを……」
ヴォルガンの声に、微かな痛みが混じる。
兄は、王族という特権階級にありながら、その庶民の真理を肌で理解し、行動し続けてきた。
飢饉の痛みを誰よりも知るからこそ、あの大穀倉地帯構想の一部である街道網を具現化させたのだ。
「そうですね。復興を始めましょうとなったときからずっと、食料を配ろうと言い続けていました。当時はその食料の調達こそが一番の難問だったんですけどね。お金はあっても運ぶ手段がない状況でしたから」
ベルンの言葉が、過去の凄惨な状況を静かに描き出す。
いくら金貨を積んだところで、パン一つ手に入らない絶望の時代。
「そうか。あいつが街道を造り続けてきたのは、その時の無力感によるものなのかもしれないな」
ヴォルガンは窓枠を握る手に力を込めた。
西側全域を貫く、あの異常なまでの執念で造り上げられた強固な街道。
それは単なる流通の動脈ではなく、二度と飢えで民を死なせないという、アルベルトの血を吐くような誓いの具現であったのだ。
「あるかもしれませんね。アルベルト殿下は、ずっと街道工事と農地開拓の現場に通い詰めでしたからね。自分の手で何とかしたいと思っていたんでしょう」
王族としての誇りを捨て、泥にまみれて鍬を振るう兄の姿。
ヴォルガンは、胸の奥がわずかに熱を帯びるのを感じた。
自らの手を汚すことを厭わぬその姿こそが、民の心を打ち、西という強大な国家をまとめ上げたのだ。
「なるほどな。ここに視察に来てよかった。必要なものはその気持ちなんだな。何とかしたい、しなければ、という」
ヴォルガンの瞳から他者を一切寄せ付けぬ張り詰めた覇気が消え、純粋な探求者の光が宿る。
机上の空論ではなく、現場の熱と泥からしか生まれない真の統治。
西の地に足を踏み入れたことで、王は確かに新たな王の在り方を学んでいた。
「形にするためにはお金も権力も必要ですけどね。陛下に言うことではないですけど」
感傷に浸る空気を断ち切るように、ベルンが商人としての現実的な一言を投じる。
どれほど崇高な意志があろうとも、それを動かすだけの金と権力がなければ、現実は一切変わらない。
「ここはどうやったんだ? 金と権力はなかったのではないのか?」
ヴォルガンは鋭い視線をベルンへと向けた。
当時の西には、王都からの支援は一切なく、領主は腐敗しきっていたはずだ。
何もない焦土から、いかにしてこの奇跡を生み出したのか。
「お金はメリーさんが出しましたね。ただ、権力はなかったんですが、小さなメリーさんが頑張っている姿を見て、みんな協力してくれましたよ」
ベルンの口から語られたのは、あまりにも単純で、そして理解し難い事実であった。
莫大な財を投じたのがあの少女であることは驚きに値するが、問題はその先だ。
権力という縛りがない状態で、なぜ人々は一つにまとまったのか。
ただ少女が頑張っていたから。
そんな童話のような理由で、国家規模の復興が成し遂げられるはずがない。
「……指導者か。優秀な指導者無くして事業は成功しない」
ヴォルガンは自らの経験に照らし合わせ、事象の核心を容赦なく抉り出す分析を下す。
民衆を熱狂させ、同じ方向へ向かわせる圧倒的なカリスマ。
あの少女には、人の心を操る天性の才があるのだと推測した。
「指導者ですか。僕はメリーさんの復興事業の初期からいましたから、そんな実感はないですけどね」
しかし、ベルンはあっさりとその推測を否定する。
共に泥水を啜ってきた男の目には、あの少女は権力者でも指導者でもなく、ただ、ひたすらに同じ目標に向かって歩む仲間、同胞であった。
「あれは素晴らしい指導者だぞ。普通の指導者は言葉に力があるとか、人を引き込む力があるとかだがな。あれは違う」
ヴォルガンは反論するように身を乗り出す。
現にこれだけの巨大な組織と街が、彼女を中心として回っている。
それが指導者でなくて何だというのか。
「メリーさんはそういう感じじゃないですね。自分がやってみせる、みんなはメリーさんの背中を見て学ぶ。そんなタイプです」
ベルンの眼差しが、かつての幼い少女の姿を追うように優しく細められる。
言葉で飾るのではなく、理屈を並べるでもない。
誰よりも先に泥に塗れ、誰よりも重い荷を背負い、ただひたすらに前へ進む。
その不器用で真っ直ぐな背中が、結果として全ての人々を牽引したのだ。
「ああ、そんな指導者は王国中を見て回ってもそうはおらん」
ヴォルガンは深くため息を吐き、ソファの背もたれに身を預けた。
権力で縛り、恐怖で支配するのは容易い。
しかし、自らの行動のみで他者の魂を震わせ、自発的な協力を引き出すという真のカリスマは、いかなる王の教育をもってしても身につくものではない。
あの少女は、生まれながらにして王の器を持っているのだ。
「メリーさんは指導者っていうよりは、口うるさい女将って感じでしたね。誰も逆らえない感じの」
重苦しい空気を吹き飛ばすように、ベルンが軽口を叩いて笑みをこぼした。
口うるさい女将。
その俗っぽい表現が、あの少女の怒声と重なり、ヴォルガンの口元にも微かな笑みが漏れる。
この地に根付く強靭な生命力と、兄が残した足跡は、王国の未来を背負う王の魂に、確かな熱を刻み込んでいた。
馬車は美しい居住区画を抜け、視察を終えて再びレグス商会の本拠地へと進路を向ける。
太陽が中天を指す頃、港町レグスはさらなる熱狂の渦へと包まれようとしていた。
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太陽が天頂をわずかに過ぎた頃、視察を終えた四輪馬車は、再び小高い丘に建つレグス商会の本拠地へと帰還した。
王城のそれとは異なる、泥臭くも強靭な生命の熱気にあてられたヴォルガンとベルンが馬車を降り、本館の広間へと足を踏み入れたその瞬間であった。
「ベルン、黒麦と丸芋の新料理を港でみんなに振舞うわ。用意しなさい」
広間の喧騒を切り裂くように、メリーの甲高い号令が響き渡った。
「新料理ですか? またあの食通の男が?」
唐突な指示に対し、ベルンは呆れたような、しかし慣れきった様子で問い返す。
「そうよ。バズとジャックは場所を押さえて。男どもは材料と調理用具、食器を馬車に積み込みなさい」
メリーは手を止めることなく、次々と的確な指示を飛ばしていく。
「懐かしいな。ボスが乗る用の木箱も用意しないとな」
大きな鍋を運んでいたバズが、かつての炊き出しの記憶を愛おしむかのように、獰猛な顔に笑みを浮かべて応じた。
その光景は、一介の商会という枠を優に超え、戦場を駆ける軍営の如き規律と熱を帯びていた。
圧倒的な速度で展開していく炊き出しの準備。
その慌ただしさの中、丸芋の皮をむいていたメリーの視線が、広間の入り口で立ち尽くす一国の王へと向けられた。
「ヴォルガン、あんたたちも手伝いなさい。丸芋の皮むきはまだまだあるわよ」
最高権力者に対する、微塵の躊躇いもない命令。
ヴォルガンの鋭い眼光が、広間の片隅へと向けられる。
『海鳥』の少女たちは王の存在など気にも留めず、ただ黙々と芋を剥き続けていた。
そして、今回の国王の視察に同行しなかった近衛兵たちが、不慣れな手つきで小刀を握りしめながら、山のように積まれた泥だらけの丸芋と悪戦苦闘している姿があった。
泥と笑い声の中で、王と民の境界は静かに溶けていく。
「あ、ああ」
王の権威などこの場では何の役にも立たないという事実を悟り、ヴォルガンは短く諦めの吐息を漏らした。
絶対的な支配者であるはずの男が、無造作に外套を脱ぎ捨て、丸芋の山へと歩み寄っていく。
交わることのない互いの正義を抱えながらも、この奇妙な港町において、王と民の境界は泥だらけの丸芋の前に等しく溶け落ちていく。
潮風が吹き抜けるレグス商会の昼下がり、新たな熱狂への準備が、途切れることのない活気とともに進んでいくのだった。
第55話、お待たせしてすみません
なかなか、年度末ということもあり、筆が進まんのですよ
次話も不定期です
申し訳ございません




