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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第54話:天上人、漆黒の顔面、交わることのない互いの正義

「すっかり夜になってしまいましたね」


 海から吹き付ける潮の香りが微かに混じる風を受けながら、後方を固めていた近衛兵の一人がぽつりと口を開く。

 ブラッドレイ領の領都ヴォルデンを出立し、西へと続く堅牢な石畳の街道をひたすらに駆け抜ける。

 春の夜風が吹き抜ける中、漆黒の軍馬の蹄が一定のリズムで重苦しい音を響かせていた。

 かつては寂れていたであろう道程は、今や馬車がすれ違うに十分な広さを持ち、夜間であっても迷うことのない完璧な流通の動脈として機能している。  

 その事実が、馬上の男たちに西の地の異常なほどの発展を見せつけていた。

 やがて彼らの視界に、海岸線に沿って無数の灯りが瞬く巨大な街の輪郭が浮かび上がる。


 港町レグス。


 暗闇の中でも、眼下に広がる港町の活気は眠ることを知らず、生命の熱量となって空気を震わせている。

 そして、その街の全貌を睥睨するかのように、小高い丘の頂に一つの巨大な館が建っていた。

 闇夜に浮かび上がる壮麗な造りは、ただの商館であることを完全に拒絶している。

 西の経済を裏から支配し、王国全土へ命の糧を送り出す心臓部『レグス商会』の本拠地。

 一切の装飾を排した外套に身を包んだアステリア王国現国王ヴォルガンは、その威圧的な佇まいを静かに見上げ、迷うことなく馬の首を丘へと向けた。

 敷地の門を抜け、本館の豪奢な扉の前まで辿り着いたものの、辺りはすでに深い静寂に包まれている。


「こんな時間に訪問して大丈夫なのですか?」


 近衛兵が、最高権力者を案内する者としての当然の懸念を口にする。

 いくらお忍びとはいえ、一国の王が夜更けに他人の館の扉を叩くなど、常軌を逸した振る舞いであった。

 しかし、ヴォルガンは手綱を引いて馬から降り立ち、館の窓から漏れ出る温かな光を見上げた。


「まだ明かりもついているし大丈夫だろう」


 それは王としての威厳による強引な判断か、あるいは一刻も早く西の混沌の深淵を覗き込みたいという純粋な渇望か。

 主君の言葉に従い、近衛兵の一人が重厚な木製の扉へと進み出る。

 手袋越しに硬質なノックの音が三度、静かな夜の空気に響き渡った。

 しばらくの沈黙の後、内側から重い錠が外される鈍い音が鳴る。

 わずかに開いた扉の隙間から顔を出したのは、裏社会の空気を色濃く纏った男、バズであった。


「どちらさん?」


 低い、探るような声が発せられる。

 近衛兵は相手の身なりに惑わされることなく、張り詰めた声で用件を伝えた。


「こちらにメリー殿はおられるだろうか?」


 その名が出た瞬間、バズの表情から警戒の色がわずかに引き、代わりに深い呆れの色が浮かんだ。

 扉の隙間から面倒くさそうに手を振る。


「あー、ダメダメ。突然来てもボスには会えないぜ。ボスに一目会おうって野郎は多いんだ」


 西の救世主として神格化されつつある少女の熱狂的な信奉者が、メリーに一目会おうと来たのだと勘違いした軽薄な拒絶。

 しかし、近衛兵は動じることなく、ヴェリウスの港で主君が漏らした奇妙な言葉を思い出し、確信を持って切り返した。


「そういうのではない。酸っぱい娘の知人、と言えば通じるはずだ」


 極度の緊張感を伴う任務の中で放たれた、あまりにも間の抜けた合言葉。

 バズは片方の眉を高く吊り上げ、眼前の屈強な男たちと、その背後で微動だにしない絶対者の影を交互に見比べた。


「よくわからんが、待っててくれ」


 理解の及ばない事態に直面したバズは、ひとまず扉を重々しく閉ざした。

 再び訪れた静寂。

 しかしそれは長くは続かず、館の奥から何かが床を強く踏み鳴らす、どたどたという荒々しい足音が急速に近づいてくる。

 次の瞬間、堅牢な扉が蝶番から悲鳴を上げるほどの勢いで内側から激しく開け放たれた。


「酸っぱいって言うな!」


 夜の闇を切り裂くような、少女の甲高い怒声。

 だが、勢いよく顔を出したその姿を見た瞬間、修羅場を潜り抜けてきた近衛兵たちと、王国の頂点に立つ絶対君主の口から、同時に悲鳴が漏れた。


「「「うわぁ!」」」


 張り詰めた空気が一瞬にして粉砕される。

 彼らの目に飛び込んできたのは、淡いピンクの髪の少女の顔面が、漆黒の闇と同化するほど真っ黒に染まり上がっているという、この世の物とは思えぬ異形であった。

 ただ目と口の周りだけが不気味に白く残り、怒りに歪んだ表情がその怪異さをさらに際立たせている。


「うわぁって何よ? 失礼ね」


 心外だと言わんばかりに睨みつけてくる黒塗りの顔に対し、ヴォルガンはわずかに後ずさりしながら、疲労を含んだため息を吐き出した。


「いきなりその顔で現れれば誰だって驚くだろう。夜なら尚更だ」


 極めて理にかなった反論であった。

 メリーのその異様な漆黒の顔面の正体は、ふんだんに塗りたくられた炭の泥パックである。

 西の救世主としての威厳など微塵も感じさせないその姿の背後から、見覚えのある赤毛の女が呆れたように姿を現した。


「だめッスよ、姐さん。パックのまましゃべるとシワになるッス」


 緊迫した状況を完全に無視した、あまりにも日常的で脱力するような言葉。

 ヴォルガンは眉間を揉み解しながら、その赤毛の女へ視線を向けた。


「おお、ヴェリウスの港で会った娘だな」


 ヴェリウス領の港で、酸っぱい匂いを撒き散らす主人の横で平然と通訳を務めていた娘。

 その記憶が繋がった瞬間、赤毛は目を丸くして硬直した。


「陛下!? どうしてここに? 酸っぱい姐さんに会いに来たッスか?」


 裏社会の隠密部隊に属する者であっても、一国の王の突然の夜這いめいた訪問には対応しきれなかったらしい。

 しかし、その驚愕の言葉尻に反応し、再び真っ黒な顔面が怒りに震える。


「酸っぱいって言うな!」


 夜の丘に響き渡る不毛な怒声。

 赤毛はやれやれと肩を竦め、まるで駄々をこねる子供をあしらうかのようにメリーの背中を押した。


「はいはい、姐さんはパックを落としてきましょうね。みなさんは中へ。バズさん、馬を厩舎に頼むッス」


 その見事なまでの手際の良さに、門番として立ち尽くしていたバズが我に返る。


「あいよ」


 手綱を受け取ったバズが馬を引いていくのを見送りながら、赤毛は館の奥へと声を張り上げた。


「ジャックさん、天上人さん来たッスよー。こっちは任せるッス」


 言うが早いか、彼女は真っ黒な顔のまま不満を漏らすメリーを引きずるようにして、廊下の奥へと姿を消していった。

 取り残されたヴォルガン一行が呆気にとられていると、奥の食堂から物静かな足音が近づいてくる。


「天上人?」


 怪訝な声を上げながら接客に出向いてきたのは、かつて王国諜報部『梟』で伝説とまで謳われた影務官、ジャックであった。

 しかし、彼が一歩を踏み出し、来訪者の顔を視認した瞬間、その全身の筋肉が鋼のように硬直する。


「! ヴォルガン陛下!」


 驚愕に目を見開きながらも、流れるような動作でその場に片膝をつき、深々と頭を垂れる。

 その声は、静かな夜の館に冷水を浴びせるように響き渡った。

 開け放たれた食堂の奥から、グラスが置かれる甲高い音が鳴る。


「ヴォルガン陛下!?」


 テーブルで優雅に琥珀色の酒を傾けていたバルカス・ブラッドレイ子爵が、弾かれたように立ち上がった。

 西側の知の最高峰である彼ですら、王国の頂点の単独行などという盤面を完全に無視した暴挙は予測の範疇外であった。

 洗練された動作で即座に最敬礼をとるバルカスの姿に釣られ、同席していたベルン、シリル、フェリシア、そしてフェリシアの侍従までもが、血の気を失った顔で一斉に立ち上がり、深く頭を下げた。

 西側の首脳陣が一堂に会する空間が、絶対的な権力者の到来によって完全に凍りつく。

 その重苦しい静寂の中、ヴォルガンは靴音を響かせて食堂へと足を踏み入れ、鷹揚に片手を上げた。


「ああ、良い。頭を上げろ。突然訪ねたのはこちらの非だ。畏まることはない」


 低く、腹の底に響くような声が空間を支配する。

 平坦な言葉の奥に潜む王者の威容に、西の重鎮たちは息を潜めるようにしてゆっくりと顔を上げた。

 だが、その張り詰めた空気を背後から破壊するように、ヴォルガンに従う近衛兵たちが不自然にそわそわと視線を泳がせ始めている。

 ヴォルガンは忌々しげに舌打ちをし、振り返ることなく小声で叱責を飛ばした。


(馬鹿者、態度に出すなと言っておるだろう)

(しかし、ピンクのお揃いの寝間着は……)

(西の本拠地だぞ。そのくらい想定しておけ)

(しかし、あれは伝説の影務官だろう?)

(あっちは西の総帥だぞ)


 小声で交わされる緊迫したやり取り。

 近衛兵たちの視線の先には、最敬礼をとるジャックとバルカスの姿があった。

 彼らの身を包んでいるのは、アイゼンハイド侯爵の屋敷で近衛兵たちの精神を粉砕したのと同じ、淡いピンクの生地に蒼紫の薔薇が絡みつく、あの禍々しい『メリーちゃん』意匠のお揃いの寝間着であった。

 ただでさえ張り詰めていた彼らの理性が、限界点に達しようとしていた。


「どうかなさいましたか?」


 不自然に肩を震わせる近衛兵たちの様子に気づき、バルカスが完璧な作り笑いを浮かべながら問いかける。

 その瞬間、耐えきれなくなった近衛兵の一人が、奇妙な破裂音を漏らした。


「ごふっ!」


 王の御前という絶対の禁忌を破る失態。

 しかし、ヴォルガンは部下を咎めることもなく、ただ深い疲労を湛えた瞳でバルカスとジャックを見据えた。


「あ、ああ。ブラッドレイ子爵とジャック殿が着ている寝間着に見覚えがあってな。アイゼンハイド侯爵が着ておった」


 その言葉に対し、ジャックは悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに胸を張った。


「さすがアイゼンハイド侯爵。身も心も西の人間になられたと言うことですな」


 恐るべき西の文化汚染の進行度合い。

 しかし、そんな暢気なやり取りの傍らで、ただの商人であるベルンは恐怖のあまり今にも倒れそうな顔色をしていた。


「いや、ジャックさん。今それどころではないのでは? ヴォルガン陛下ですよ。僕たち大丈夫なんですか?」


 震える声で搾り出された常識的な疑問。

 その声に反応し、ヴォルガンの鋭い眼光がベルンを射抜く。


「君は?」


「はい。商人のベルンと申します」


 怯えながらも名を名乗ったベルンに対し、ヴォルガンは静かに歩み寄り、そして、誰の目にも明らかなほどの深い敬意を込めて頭を下げた。


「君があの西の大商人ベルン殿か。此度は王国の危機を救ってくれて感謝に堪えない。本当によくやってくれた」


 絶対君主が、一介の商人に対して頭を下げるという歴史的な瞬間。

 ベルンは恐縮のあまり手足をばたつかせ、顔を真っ赤にして後ずさった。


「ちょっ、やめてください陛下。僕なんかに頭を下げないでください」


「君のおかげで中央は飢えずに済んでいる。それだけではない。帝国が飢えずに済んでいるのも君のおかげだと聞いている」


 ヴォルガンの言葉には、打算も虚飾もない、王としての純粋な感謝の念が込められていた。

 その厳粛な空気を断ち切るように、廊下から軽やかな声が響く。


「そうよ。西の大商人様に大いに敬意を表しなさい」


 顔の泥パックを完璧に落とし、透き通るような白磁の肌を取り戻したメリーが食堂へと足を踏み入れる。

 彼女の身を包んでいるのは、先ほどまでの滑稽な姿からは想像もつかない、艶やかな黒のワンピース型のパジャマに、薄手のガウンを羽織ったシックな装いであった。

 その落差に目を細め、ヴォルガンは静かに問いかけた。


「君はピンクの寝間着じゃないんだな。君のブランドだと聞いたが」


 西側全域を侵略しつつあるあの狂気の意匠。

 その生みの親であるはずの少女の装いに対する素朴な疑問であったが、メリーは心底嫌悪するように顔をしかめた。


「着るわけないでしょう!」


 その即座の否定の背後から、赤毛がひょっこりと顔を出す。


「あたしらは下着がそれッス」


 言うが早いか、彼女は制服のスカートの裾を無造作に摘まみ上げ、その下にあるピンク色と蒼紫の薔薇の意匠を躊躇いもなく晒して見せた。

 それに呼応するように、壁際に控えていた『海鳥部隊』の少女たちも次々と制服の胸元や裾を緩め、禍々しい柄の下着をチラリと覗かせる。


「なるほど。君も下着に仕込んでいるというわけか。ああ、見せなくて良い」


 王たる威厳を保ちながらも、目の前で繰り広げられる異様な集団行動に呆気にとられ、ヴォルガンは片手で制止のポーズをとった。


「仕込んでないし見せないわよ!」


 メリーは真っ赤になって寝間着の裾と胸元を強く押さえ、身をよじる。

 その様子を冷ややかな目で見下ろし、赤毛が呆れたように肩を竦めた。


「どうせ姐さんは黒の下着ッスよね。何でもかんでも黒にすれば大人に見えるってわけじゃないッスよ」


 核心を突かれたのか、メリーの顔がさらに赤く染まる。


「私の下着の話はやめろ! そんなことを聞きに来たわけじゃないだろう。この男は」


 恥辱をごまかすように、メリーは細い指先で乱暴にヴォルガンを指差した。

 最高権力者に対する不敬極まりない態度であったが、ヴォルガンは咎めることもなく、深く息を吐き出して要求を切り出した。


「わかったわかった。ひとまず落ち着け。用件を言おう。明日、このレグスを視察したい。案内役を用意してくれ。あと、今夜の宿も紹介してほしい」


 王の口から語られた、あまりにも無防備な要求。

 メリーはわずかに目を細め、その場にいる二人の男へ視線を投げた。


「ジャック、ベルン。あなたたちが案内しなさい」


 西の物流を握る商人と、裏社会の生きた伝説。

 視察の案内役としてはこの上ない人選に思えたが、その指示を聞いたバルカスが、深刻な懸念を忍ばせて口を開いた。


「大丈夫か? その人選で。陛下が戻ってきた時に、全身『メリーちゃん』だらけになっている可能性も……」


 その想像を絶する絵面が提示された瞬間、背後で必死に耐えていた近衛兵の一人が、ついに理性の防壁を砕かれた。


「ぐふっ!」


 他の近衛兵たちも、声こそ出さないものの、肩を激しく震わせて下を向いている。

 それを尻目に、ジャックが極めて真剣な面持ちで、ヴォルガンへと一歩歩み寄る。


「ヴォルガン陛下、実は……」


 かつて王国諜報部で幾多の死線を潜り抜けてきた男の、殺気すら帯びた真剣な眼差し。

 次の瞬間、彼は自らの着ているピンク色の寝間着のズボンを、わずかに下へとずり下げた。


「蒼紫の薔薇の下着は男物もあります」


 伝説の影務官の鍛え抜かれた腹筋の下から覗く、毒々しいピンク色と蒼紫の薔薇の禍々しい意匠。

 その圧倒的な落差の前に、近衛兵たちの精神は完全に崩壊した。


「がはっ!」「ぶふぉ!」「……っ!」


 王の御前という事実も忘れ、床に崩れ落ちながら奇妙な破裂音を撒き散らす近衛兵たち。

 夜の帳に包まれた西の本拠地は、彼らにとって未曾有の精神的脅威となることを、その時確かに証明したのだった。


     ──────


「すまないな。寝床まで借りてしまって」


 結局のところ、王都からの唐突な来訪者であるヴォルガンと四人の近衛兵たちには、レグス商会本館の豪奢な客間が提供されることとなった。

 旅の塵と汗を流すべく風呂を済ませたヴォルガンは、簡素な衣服に着替え、応接室のソファに深く腰を沈めていた。

 外套を脱いだ無防備な姿でありながら、彼から放たれる絶対的な覇気は微塵も揺らぐことがない。

 室内には風呂上がりの僅かな熱気と、王国の頂点と西側の頂点が相対する極限の緊張感が同居していた。

 壁際にはジャックと『海鳥部隊』の少女が二名、彫像のように気配を消して立ち尽くしている。


「寝間着もお貸ししますが……」


 沈黙を破るように、ジャックが極めて真面目な声色で凶悪な提案を口にする。


「やめろ! 話が進まんだろ!」


 酒を飲まず手持ち無沙汰に頬杖をついていたメリーが、甲高い声で即座に制止した。


「して、ヴォルガン陛下はなぜ西の地におられるのですか?」


 西側の代表としての完璧な所作を崩さないバルカスが、探るような視線を向けた。


「アルベルトが造った西側を見てみたい。そう思ったのだ」


 ヴォルガンは、手にしたグラスの琥珀色の液体を光に透かしながら、静かに答えた。


「アルベルト様がここにおられたらどうするおつもりだったのか……」


 ジャックの低く冷ややかな声が室内に響く。

 その緊迫した問いに対し、ヴォルガンは口元にニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。


「あいつは辺境伯領だろう? 早く男の子を作れと急かしておいた。今頃励んでいるんじゃないか?」


「跡継ぎを……ですか?」


 盤面を完全に無視した発言に、バルカスが怪訝な声を上げる。


「私もあいつも、いつ死ぬかわからん立場だ。王家の跡取りがいないのは問題だろう」


「陛下と王兄殿下は敵なのでは?」


「私とあいつが倒れたら誰が国王になるのだ。跡取りと、敵であるかは関係ない」


 感情を排した冷酷なまでの合理主義。

 王国の存続という巨大な天秤の前に、個人の命すら駒として扱う絶対的な君主の思想に、室内は重苦しい沈黙に包まれる。


「あんた、何でクーデターなんか起こしたの? そんなに国王になりたかったの?」


 その張り詰めた空気を、メリーの剛速球の質問が唐突に切り裂いた。

 あまりに不敬な物言いに、完璧な作り笑いを浮かべていたバルカスの手が僅かに止まり、焦燥の色が滲む。


「よい。この娘に不敬だなんだは通用せん。気にするだけ損だぞ、ブラッドレイ子爵」


「はっ」


 バルカスは深く頭を下げ、冷や汗を拭うように息を吐いた。

 ヴォルガンはソファの背もたれに寄りかかり、メリーの真っ直ぐな視線を受け止める。


「アルベルトから聞いていないのか?」


「先代の辺境伯が言っていたわ。戦後復興もままならぬ王を討つ、と。帝国への売国政策とかも言っていたわね」


「大体合っている。先代国王は帝国に対し弱腰外交でな。しかも、民から税を吸い上げ、王侯貴族だけが贅沢な暮らしをする、絵に描いたような腐敗っぷりだった。戦後復興など夢のまた夢であった」


 吐き捨てるように語られた凄惨な過去の王国。


「そうなの?」


 大人たちの腹の探り合いを意に介さず、メリーは壁際に立つジャックへと視線を向ける。


「はい。ヴォルガン陛下が討たずとも、王国の崩壊は時間の問題だったかと……」


 かつて裏社会から王国を見つめてきた男は、影のように静まり返ったまま、深く重々しく頷いた。


「それではいかんと思ってな。王国が崩壊し、帝国の植民地となった後では何もかもが手遅れだ。あのタイミングしかなかった」


 ヴォルガンは、手にしたグラスの酒を一気に飲み干した。

 グラスが空く直前、会話の腰を折ることなく、流れるような無音の動作で『海鳥』の少女が酒を注ぎ足す。


「アルベルト王子、いや殿下と協力しようとは思わなかったのですか?」


 バルカスの問いに、ヴォルガンは微かに目を伏せた。


「当時のあいつは、剣の腕が立つだけの肩書きだけの王子様だ。国を背負う器ではなかった。むしろ、あいつこそが腐敗した王族の象徴だとさえ思っていた」


「今は?」


 メリーのエメラルドグリーンの瞳が、ヴォルガンを真っ直ぐに射抜く。


「ガキだった当時とは違う。あいつは立派な国王の器だ。今回の飢饉の対応で皆もそれを知ったはずだ」


 一切の淀みなく語られた、血を分けた兄に対する純粋な称賛。


「ガーディスはどういう絡みなわけ?」


 再び放たれたメリーの剛速球。

 バルカスとジャックがお互いに目配せをするが、メリーはそんなことお構いなしだった。


「私はガーディスの姫の一人息子だからな。玉座を獲ると言ったら、ガーディスの人脈と金を湯水のように使い、あっという間に根回しを済ませたよ」


「ガメル宰相もその一員だった、というわけですな」


「ああ、ガメルは小物だが、金の使い方が上手い男でな。ガーディスに便宜を図るにあたり、あの男を宰相にするのは都合が良かった」


「あんたは、ガーディスの操り人形じゃなかったのね?」


 とどまるところを知らないメリーの三度目の剛速球に、ヴォルガンは自嘲気味に鼻で笑った。


「私が? そう見えても仕方がないところは確かにあるな。だが、私は自分をガーディスの人間だとは思っていない」


「そうなの? てっきり、ガーディスの復讐のために担ぎ上げられた傀儡の王だとばかり思っていたわ」


「私は王城生まれの王城育ちだぞ?」


 彼は再びグラスの酒を飲み干し、『海鳥』が即座にそれを満たす。


「ガキの頃、アルベルトを兄として慕っていた。あいつはいい兄だった。そんな環境で育った私だ。ガーディスの復讐などというものは無縁だったよ」


 琥珀色の液体を見つめながら語るヴォルガンの声には、自嘲と深い郷愁が入り混じっていた。


「私は商人として、経済面から兄を支えようと考えた。そのためにたくさん勉強をしたよ。アルベルトも応援してくれていた」


 ヴォルガンはグラスを両手で包み込むようにし、過去を懐かしむように言った。


「だが、商人というのは、最良と思える手段が見えてしまった時、それにすべてを賭けてしまう気質があるんだ。わかるだろう? ベルン殿」


 急に話を振られ、一介の商人が同席させられている異常事態に微かに肩を震わせていたベルンが、弾かれたように顔を上げた。


「はい。わかります。商人の血に流れる呪いのようなものです」


 恐怖を忘れ、背筋を伸ばし、深く力強く頷く。

 そこには商人としての逃れられない業があった。


「あの時、私が先王を討ち、玉座を手に入れる。これしかないと思ってしまった。それに賭けるしかないと思ったのだよ。それが最良だと信じていた」


 王の独白。

 それは狂気ではなく、極限まで研ぎ澄まされた理性の果ての決断であった。


「そう……ベルンにもその気持ちがわかるの?」


 ベルンはゆっくり頷いた。


「わかります。他の人に任せる方法があったとしても、自分の手で成し遂げる手段があるのであればそっちを選ぶ。僕もそういう人間です」


 ベルンの断定の言葉に、メリーは小さく息を吐いた。


「私は過去に、ヴォルガンが善王であるのならば、王国のことは彼に任せてしまえばいい、そうアルに言ったことがあるわ」


「ああ、あったな。そして、見ての通り、ヴォルガン陛下は悪王ではなかった。王位の正統性を除けば、アルベルト殿下に、ヴォルガン陛下を討つ理由はあるのか?」


 バルカスの問いが、応接室の空気を一段と重くする。


「あるだろう。あいつの方がより良く国民を導けるのであれば、あいつは私を討って国王になるべきだ。私もそう簡単に国王の座は譲らんがな」


 ニヤリと笑うヴォルガンの顔には、一切の私怨がない。

 ただ王国の未来のみを見据えた頂上決戦の意志がそこにあった。


「あんた言ってたわよね。アルに負けない王国再建をする、と」


「言った。あいつは西に基盤を造り続ける。ならば、私は東に基盤を造ろう。帝国がある東側にそれができるのは私だけだ」


「参ったな。本当に善王じゃないか。陛下は」


 バルカスは呆れと感嘆が入り交じった深い溜息を漏らす。


「善悪という簡単な構図はなかなかないものだよ。どちらがより善であるか、それを判断材料にすればいい」


 ヴォルガンは手にしたグラスを静かにテーブルへと置いた。

 王国の頂点と西の救世主。

 相反する二つの巨星が同じテーブルを囲み、交わることのない互いの正義を確認し合う奇妙な夜。

 港町レグスの熱気とは裏腹に、応接室の深く静かな夜は更けていくのだった。


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