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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第53話:視察、静かな侵略、全ての始まりの地へ

「アイゼンハイド侯爵はいるか?」


 豪奢な鉄柵が春の陽光を冷たく反射するアイゼンハイド侯爵家の門前。

 突如として響き渡った低く威圧的な声に、見張りに立っていた門番は肩を跳ねさせた。

 一切の装飾を排した外套に身を包んでいるものの、その奥から滲み出る絶対的な支配者の気配は隠しようもない。

 数人の屈強な近衛兵を影のように従え、お忍びの姿で現れたのは、アステリア王国現国王ヴォルガンその人であった。

 予想だにしない最高権力者の唐突な来訪に、門番は血の気を失い、転がるように屋敷の奥へと走り出す。

 いくらお忍びとはいえ、国王を門扉の外に留め置くなどという不敬は許されない。

 大慌てで引き返してきた門番は、幾重にも頭を下げながら一行を屋敷の中枢へと導いた。


「すまないな。邪魔するよ」


 静寂に包まれた屋敷の廊下に、ヴォルガンの平坦な声が落ちる。


「とんでもない。応接室へどうぞ」


 蒼白な顔色を取り繕った執事が、深く腰を折りながら最上級の応接室へと国王を案内する。

 重厚なオーク材の扉が開かれ、ヴォルガンは革張りの豪奢なソファへと静かに腰を下ろした。

 彼は無意識のうちに深く足を組み、組んだ膝の上に手を置くと、その指先で革の表面をトントンと規則的に叩き始める。

 静かな空間に、指が叩く鈍い音が微かな焦燥を帯びて響く。

 背後には近衛兵たちが彫像のように控えていた。

 侍女が震える手で淹れた茶の香りが室内に満ちる中、屋敷の奥からは何者かがバタバタと駆け回る慌ただしい足音がくぐもって聞こえてくる。

 やがて、応接室の扉が勢いよく開かれ、かつての軍務局長であるエーベルハルト・アイゼンハイド侯爵が姿を現した。


「陛下!」


 エーベルハルトの驚愕に満ちた声が響く。

 ヴォルガンは膝の上でトントンと鳴らしていた指の動きを止め、ゆっくりと視線を上げた。


「ああ、突然すまないな。アイゼンハイド侯爵」


 国王の冷涼な瞳が、目の前に立つかつての部下を射抜く。


「いえ、どうされました? 何か緊急の……?」


 エーベルハルトは呼吸を乱しながら、不測の事態を危惧するような鋭い視線を返す。

 ヴォルガンは組んでいた足をゆっくりと組み替え、深く息を吐き出した。


「いや、視察のついでだ。貴公は今日は休みか?」


 その言葉に、エーベルハルトは僅かに目を泳がせ、己の姿を見下ろした。


「はい。本日は休暇となっております。こんな寝起きの格好ですみません」


 エーベルハルトの身体を包んでいるのは、王国の重鎮たる侯爵の威厳とは到底結びつかない、奇妙な意匠の寝間着であった。


「よい。むしろ、休暇のところ訪ねてすまなかったな」


 ヴォルガンは寛大な言葉を口にするが、その後方で控える二人の近衛兵の様子がおかしい。

 彼らは主君の威厳を保つべく無表情を装っているものの、その視線はエーベルハルトの奇抜な出で立ちに釘付けになり、明らかにそわそわと落ち着きを失っていた。


「どうかしたか?」


 その不自然な空気を察知し、エーベルハルトが近衛兵たちへ怪訝な視線を向ける。


「いえ! 何もありません!」


 近衛兵たちは弾かれたように背筋を伸ばし、裏返った声で否定した。

 ヴォルガンは微かに眉をひそめ、ソファの肘掛けで両手を組むと、エーベルハルトへ視線を戻した。


「とりあえず、顔でも洗ってきたらどうだ? 侯爵」


 それは提案の形をとった絶対的な命令であった。


「ああ、すみません。失礼します」


 エーベルハルトは己の無作法を恥じるように一礼し、足早に応接室を後にした。

 重厚な扉が閉まり、室内に再び重苦しい静寂が降りる。

 その瞬間、ヴォルガンは組んでいた手を解き、鋭い眼光を背後の近衛兵たちへと向けた。


「馬鹿者、態度に出すな」


 地を這うような低い声が、容赦なく二人を打ち据える。


「す、すみません。陛下の方からツッコんで下さらないので……」


 近衛兵の一人が、冷や汗を流しながら弁解を試みる。


「お前がツッコめばいいだろう」


 ヴォルガンは忌々しげに舌打ちをし、再び足を深く組み直した。


「侯爵様にそんな不敬は……」


 身分制度という絶対的な壁を前に、近衛兵は情けなく言葉を濁す。


「あれが何なのか、頭が理解を拒みます。しかし……」


 もう一人の近衛兵も、先ほど目にした強烈な視覚情報を処理しきれず、混乱したように呟く。

 ヴォルガンは深くため息をつき、膝の上に組んだ手を置き直した。


「わかった。私の方からさりげなく聞いてみよう」


 君主自らがその役目を引き受ける異常事態に、近衛兵たちは深く頭を垂れた。


「申し訳ございません……」


 ほどなくして廊下に足音が響き、顔を洗って幾分か生気を取り戻したエーベルハルトが戻ってくる。

 彼はヴォルガンの対面にあるソファへ腰を下ろし、控えていた侍女へ茶の淹れ直しを指示した。

 新たな茶器が置かれ、侍女が退出した後の密室。

 ヴォルガンは組んだ膝の上に両手を置き、その指を軽くトントンと鳴らしながら、口を開いた。


「して、アイゼンハイド侯爵、非常に聞きにくいことなのだが、その寝間着と帽子、スリッパは何だ?」


 さりげなさなど微塵もない、あまりにも直球な問いであった。

 その背後で、近衛兵たちが再びそわそわと視線を泳がせ始める。

 エーベルハルトは己の頭に被っていたナイトキャップをゆっくりと手に取り、足元のスリッパへと視線を落とした後、どこか得意げな笑みを浮かべた。


「さすが陛下、お目が高い。これは、西の指導者をイメージした商品の一つであり、人気商品です。高級なシルクで作られており、それなりに値が張ります」


 淡いピンクの生地に、毒々しいほど鮮やかな蒼紫の薔薇が絡みつく意匠。

 エーベルハルトは、軍務局長という武の象徴であった己の経歴を完全に無視するかのように、その寝間着とナイトキャップ、そしてお揃いのスリッパの価値を熱弁する。

 ヴォルガンは呆れたように息を吐き、ソファの背もたれに深く身を預けた。


「あ、ああ。あれだよな。『メリーちゃん』だよな。小麦や塩の袋に描かれている……。西のあの黒い船にも描かれていたな」


 ヴェリウス領の港で目にした、威風堂々たる黒きガレオン船と、そこに掲げられていた不釣り合いな意匠を思い出し、ヴォルガンは眉間を揉んだ。


「ご存じでしたか。これは先代のオルコット辺境伯も愛用していたと言われている逸品です」


 エーベルハルトの言葉に、室内の空気が一瞬だけ凍りついた。


「ごふっ!」


 背後で堪えきれなくなった近衛兵の一人が、奇妙な破裂音を漏らす。

 あの熊のような巨体を誇る武の権化が、全身をピンク色の寝間着で包んでいるという想像を絶する絵面が、彼らの精神の防壁を容易く打ち砕いたのだ。

 ヴォルガンは部下の失態を咎めることもせず、ただ遠い目をして虚空を見つめた。


「そんなに人気なのか『メリーちゃん』は。……あの酸っぱい娘がなぁ……」


 絶対的な権力者の口から漏れた奇妙な形容に、エーベルハルトは怪訝な顔をする。


「酸っぱい?」


 問い返すエーベルハルトに対し、ヴォルガンは再び足を組み替え、膝の上に置いた指先で革の表面を規則的に叩き始めた。


「ああ、数日前にヴェリウスの港で会ってな。ゲロの臭いを振りまく酸っぱい娘であった」


 その言葉には、西の救世主という途方もない虚像と、目前で横たわっていた哀れな現実との落差に対する、拭い去れない疲労感が滲んでいた。

 エーベルハルトは頭痛を堪えるように片手で顔を覆い、深々と息を吐き出す。


「……またあの娘は。普通にすまし顔をしていれば絶世の美女なのに、どうして自ら評価を落として回るんだ」


 西の経済を支配する怪物の、あまりにも俗物的で滑稽な振る舞いに、エーベルハルトは静かな怒りすら覚えていた。

 ヴォルガンはトントンと鳴らしていた指の動きを止め、身を乗り出して両手を組んだ。


「あの娘にはどこに行けば会える?」


 低く、しかし明確な意志を持った問いが放たれる。

 エーベルハルトは警戒の色を隠せず、言葉を淀ませた。


「それは……」


 躊躇するエーベルハルトの目を、ヴォルガンの冷ややかな瞳が真っ直ぐに射抜く。


「セレスタインの娘なのだろう? あの髪、あの瞳。アルベルトの妻子もあの色だった」


 西の地に咲いた特異な色彩の源流。

 それを突きつけられ、エーベルハルトは短く呻いた。


「陛下……」


 かつて王家と対をなすほどの影響力を誇った名門の血脈。

 その重みを理解しているからこそ、エーベルハルトは慎重にならざるを得なかった。


「セレスタインの人間は国を挙げて守らねばならん。現在の王国の数少ない王室関係者だからな」


 そこに私怨の熱はなく、ただ玉座の存続のみを天秤にかける乾いた響きがあった。

 しかし、かつて血塗られた手段で玉座を奪い取った男の口から出たその言葉に、エーベルハルトは拭い切れない疑念を抱く。


「……敵、ではないのですか?」


 静まり返った応接室に、エーベルハルトの刃のような問いが響く。

 ヴォルガンは視線を伏せ、組んだ手を僅かに強く握りしめた。


「私がクーデターを起こしたときはそうであった。だが、今後、王国が安定期に入れば王室関係者が居なくなるのは困る。数少ないアステリア王家とセレスタイン公爵家の生き残りだからな」


 それは、感情を排した冷酷なまでの合理主義。

 しかし、その背後に横たわる王室の血の枯渇という現実を前に、エーベルハルトは別の角度から踏み込む。


「陛下は跡取りを作らないのですか?」


 王としての最大の責務に対する直言。

 ヴォルガンは皮肉げに唇を歪め、深くため息をついた。


「貴公がそれを言うか。貴公こそ早く跡取りを作れ」


 図星を突かれたエーベルハルトは、苦々しい表情で視線を逸らす。


「……うぐっ。母に毎日のように言われております」


 アイゼンハイド侯爵家の存続という重圧は、常に彼の肩に重くのしかかっていた。

 ヴォルガンはソファの背もたれに深く寄りかかり、再び足を組んだ。

 その瞳には、玉座の暗がりに潜む、癒えることのない古い傷痕の色が浮かんでいた。


「私の母の事情は知っているだろう。ガーディスから人質として連れてこられ、無理やり子を産まされ、産んだら産んだで放置された母を見てきた私が結婚などすると思うか?」


 吐き捨てるように語られた凄惨な過去。

 愛なき政略の道具として使い捨てられた母の姿は、ヴォルガンの魂に永遠の呪いを刻み込んでいた。

 その底知れぬ闇に触れ、エーベルハルトは押し黙るしかなかった。


「陛下……」


 沈黙が長く続く中、ヴォルガンは不意に立ち上がり、エーベルハルトの前に進み出た。


「まあ良い。本日の用向きは貴公への詫びだ。貴公が王都を去った原因は私が未来を見ていなかったからだ。その程度、私にもわかる。私のせいで要らん気苦労をかけた。すまなかった」


 絶対君主が、かつての臣下に対して深々と頭を下げる。

 その光景に、近衛兵たちが息を呑む音が聞こえた。

 エーベルハルトは慌てて立ち上がり、両手を前に突き出した。


「陛下! 頭を上げてください」


 主君の予想外の行動に狼狽するエーベルハルトに対し、ヴォルガンは静かに頭を上げ、再びソファへと腰を下ろした。


「西に未来を見たのであろう? そして、奇しくもこの飢饉でそれが証明された。貴公の判断は間違っておらん。まさか、この飢饉すらも予想しておったのか?」


 探るような眼差しを向けられ、エーベルハルトは首を横に振った。


「いいえ。あの娘に言われました。飢饉に備えず例年と同じ暮らしをしているのは自殺と同じだと。さすがに危機感を覚えました。備えねば、と」


 あの時、まだ十五歳の少女が放った、国家の根幹を揺るがすほどの真理。

 それを思い出し、エーベルハルトの声には確かな畏敬の念が混じっていた。

 ヴォルガンは腕を組み、深く頷いた。


「アルベルトたちは、ずっと備えていたのだな。そのための街道をアルベルト自らが造り、辺境伯をも巻き込んで王国の食糧庫という巨大な機構を作り上げた。それこそまさに王としてのあるべき姿ではないか」


 血を分けた兄に対する、純粋な称賛。

 武力によってではなく、民を生かすための機構を造り上げたアルベルトの偉業を、ヴォルガンは真正面から肯定した。


「陛下……」


 エーベルハルトの胸中に、かつて王都で感じた絶望とは対極にある、熱いものが込み上げてくる。

 ヴォルガンは組んだ腕を解き、膝の上で強く拳を握りしめた。


「私はアルベルトが造り上げた西の全貌が見たい。この数日間は西の全てを見て回ることにした。辺境と中央では事情も違うだろうが、参考になることは必ずあるはずだ」


 停滞を良しとせず、自らの足で新たな理を学ぼうとする王の姿。

 その強靭な意志を前に、エーベルハルトは居住まいを正し、深く頭を下げた。


「畏まりました。ここから街道沿いに南に、そしてブラッドレイ領の港町レグスへ向かってください。あの娘の拠点であるレグス商会があります」


 西の動脈を巡るための、最初の道標。

 ヴォルガンは立ち上がり、窓の外に広がる春の空を見つめた。


「黄金の港レグスか。あの娘はそこにいるのだな」


 その呟きは、これから始まる未知への探求に対する期待に満ちていた。

 エーベルハルトは、前に進もうとする意思を明確にした現国王へ力強く答えた。


「全ての始まりの地、レグス。まずはそこから始めてみてはいかがでしょうか」


     ──────


「邪魔したな。ではこれで失礼する」


 春の微風が吹き抜けるアイゼンハイド侯爵家の門前。

 応接室での密談を終えたヴォルガンは、一切の未練を見せることなく翻り、待機させていた漆黒の軍馬へと跳び乗った。

 主君を見送るエーベルハルトは、侯爵家当主とは思えぬ奇抜な寝間着姿のまま、深く腰を折り曲げている。

 淡いピンク地の高級シルクに、毒々しいまでに鮮やかな蒼紫の薔薇が絡みつくその背中が、遠ざかる馬の蹄の音が完全に消え失せるまで、微動だにせず頭を垂れ続けていた。


「陛下、結局、侯爵はあの格好のままでしたね」


 王都の喧騒を抜け、整備された石畳の街道を南へと進む馬上の静寂。

 不意に、後方を固めていた近衛兵の一人が、限界まで張り詰めていた表情筋を震わせながら口を開いた。


「ぶはっ! 言うな。ここまで我慢したんだ」


 絶対的な支配者の気配を纏っていたヴォルガンの口から、王の威厳を粉々にするような破裂音が吹き出す。

 手綱を握る肩が小刻みに震え、彼もまた、腹の底から込み上げてくる強烈な視覚の暴力に耐えきれずにいた。


「先代の辺境伯までがあの寝間着を……」


「ぶふっ。言うなと言っておる。想像させるな」


 王国最強と謳われた熊のような巨漢の老将が、全身をピンク色の生地と蒼紫の薔薇の柄でその身を包み込んでいるという悍ましい幻影。

 その破壊力は絶大であり、修羅場を潜り抜けてきた近衛兵たちの間にも、押し殺したような奇妙な嗚咽が次々と連鎖していく。


「西は得体が知れませんね。同じ王国内とは思えない文化圏になっている」


 大きく息を吐き出して呼吸を整え、近衛兵が馬の歩調を合わせながら、西側という未知の領域への純粋な畏れを口にする。


「そうも言っておれんぞ。食料品の袋の『メリーちゃん』が王都で人気になっているのを知っているだろう」


「王国全土に『メリーちゃん』が配られ、受け入れられている。王国はあの娘に占領されたと言っても過言じゃないですね」


 生命を繋ぐための塩や小麦の袋から、日常を彩る嗜好品に至るまで、至る所に刻み込まれたピンク色の髪を持つ少女の意匠。

 刃を交えることなく、ただ生きるための糧と日々の営みを通じて、王国の深部から人々の意識を根底から塗り替えていく静かな侵略。


「ああ、恐ろしい娘だ。あの娘がアルベルトに手を貸している事実は更に恐ろしい。あいつが王位を獲りに来ると、この国の勢力図は簡単に書き換わるぞ」


 ヴォルガンの声から先ほどの笑いを含んだ熱が完全に消え失せ、玉座を預かる者としての底知れぬ重圧が宿る。

 軍馬の蹄が固い土を蹴る音が、一定のリズムで重苦しく響き続ける。


「どうします? 処分しますか?」


 近衛兵の一人が、暗殺という最も単純かつ直接的な解決策を低く濁った声で提示する。


「そうはいかん。私に何かあれば、次の王はアルベルトだ。その時にあの娘がそばにいるかどうかは王国の未来にかかわる」


 血塗られた手段で奪い取った玉座であっても、王室の血脈という絶対的な天秤の前に、ヴォルガンは己の命すらも一つの駒として置き去りにする。

 感情を削ぎ落とした、あまりにも乾いた決断であった。


「そこまでですか」


「帝国との休戦のきっかけになった娘だぞ。彼女が敵じゃなければ勲章ものだ。彼女は大切にしなければならん」


 百年の長きにわたり王国の喉元に突きつけられていた東の巨大な帝国の歩みを止め、休戦という歴史的な奇跡をたった一つの細腕で成し遂げた存在。

 その途方もない価値を、ヴォルガンは誰よりも正確に測り切っていた。


「しかし、王兄殿下は敵。ひいてはその娘も敵なのでは」


「私の敵、というだけだ。王国の敵ではない。むしろ、王国の救世主だろう。あの娘は」


 春の乾いた風が吹き抜け、路傍の木々がざわめく。

 私怨と国家の存亡を完全に切り離し、絶対的な俯瞰から盤面を見下ろすヴォルガンの言葉に、近衛兵たちは深く息を呑んだ。


「あの干し芋のような酸っぱい娘が……」


 だが、その崇高で張り詰めた空気を、近衛兵のどうしようもない実感が呆気なく切り裂く。

 数日前のヴェリウス領の港で目にした、ドレスを乱し、ゲロの臭いを撒き散らしながらベンチに横たわっていたあの無惨な姿。

 西の怪物という巨大な影と、眼前に晒された萎びた肉体とが、彼らの中でどうしても結びつかないのだ。


「そう言ってやるな。船酔いは仕方がないだろう」


「陛下がおっしゃっていたんじゃないですか。酸っぱい娘、と」


「ああ、私までつられて吐くところだった。危なかったな、あの時は」


 西の救世主という巨大な虚像と、あまりにも人間臭い現実の落差に、ヴォルガンは深い疲労を含んだため息を空へと吐き出す。

 会話が途切れた時、彼らの視界に広がるのは、どこまでも平坦に整えられ、地平の彼方まで続く強固な道であった。


「しかし、この街道は素晴らしいですね。こんなのが西側全域に張り巡らされているのか……」


 大型の荷馬車が余裕を持ってすれ違えるほどの幅を持ち、雨水が滞留せぬよう計算し尽くされた硬質な地面。

 近衛兵の純粋な感嘆の声に、ヴォルガンの瞳が鋭く細められる。


「あの量の食糧が、西から滞りなく届くというのも納得だな。この街道を軍事利用された時のことを考えると……」


 ただの流通網ではない。有事の際、この道は圧倒的な速度で大軍勢と命の糧を中央へと送り込む、巨大な侵略の動脈へと変貌する。

 途方もない歳月をかけ、アルベルトたちが大地に密かに刻み込んだ剥き出しの牙。

 その事実を直視した瞬間、馬の背を揺らす心地よい振動すらも、王国の喉元に当てられた刃の切っ先のように感じられた。


「今は考えるな。急いでランツェベルク領まで行くぞ」


 背筋を駆け上がる悪寒を強引に振り払い、ヴォルガンは手綱を強く握り直す。

 机上の空論や思考の泥沼に沈む前に、その全貌を己の足で踏みしめ、眼球に焼き付けねばならない。


「すみません、トイレに……」


 決意を新たにし、馬の速度を上げようとした王の隣で、近衛兵が情けなく顔を引きつらせながら下腹部を押さえた。


「街道の休憩所にトイレがあるそうだ。そこまで我慢しろ」


 容赦のない命令を下し、ヴォルガンは馬の腹を強く蹴る。

 春の柔らかな陽光が降り注ぐ中、一行は整備された西の動脈をただひたすらに南へと駆け抜けていく。

 全ての始まり、そして今もなお得体の知れない熱を放ち続ける港町レグス。

 絶対的な権力者である彼らがその混沌の渦中へと足を踏み入れた時、果たして何が待ち受けているのか。

 土を蹴る蹄の音が遠のく道程には、ただ風の音だけが静かに残されていた。



今週中にもう1話公開できれば…

くらいのペースで書いております

次話を楽しみにしておられる方、申し訳ございません

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