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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第52話:ヴェリウス領、絶対権力者、日陰に転がる干し芋の娘

「うぼぁ……おろろろろろ……」


 春の陽光を反射して砕ける紺碧の波間に、胃の腑から絞り出された惨めな吐瀉物が吸い込まれていく。

 威風堂々たる出港の熱狂からわずかな時間が経過したのみである。

 黒き巨躯を誇るガレオン船『メリー・ローズ号』は、海神の深呼吸にも似た大きく緩やかなうねりを受け、その重厚な船体を揺動させていた。

 硬質なオーク材の甲板が軋みを上げ、風を孕んだ巨大な帆が空気を叩くたびに、強烈な揺り戻しが乗船者の三半規管を容赦なく蹂躙する。

 彫刻の施された豪奢な手すりにすがりつき、完璧に計算された漆黒のドレスを波しぶきに晒しているのは、少し前まで港町レグスの群衆を熱狂の渦に巻き込んでいた美貌の淑女であった。


「姐さん、あんなにかっこよく『行くわよ!』とか啖呵切っといてこれッスか……」


 洗練された商会の制服に身を包む『海鳥』の赤毛が、背中をさすりながら呆れたような声を出した。

 彼女の視線の先には、いまだ薄墨の輪郭を保って水平線に鎮座する領都ヴォルデンの尖塔が見えている。

 大海原に漕ぎ出したというにはあまりにも近すぎる、出港して間もない距離であった。

 波の上下動が巨大な船体を持ち上げ、そして奈落へ落とすような独特の浮遊感をもたらす。


「しょうがないでしょ。こんなにゆっくり揺れると……うぷっ、えれえれえれえれ……」


 涙目で抗議しようとしたメリーの唇から、再び凄惨な音と共に未消化物が海原へと投棄される。

 圧倒的な気品と大人の女としての威厳は完全に崩壊し、ただ内臓を弄られる苦痛に耐えるだけの哀れな姿がそこにあった。


「ああっ、ドレスが汚れるッス。下を見ちゃだめッスよ、遠くを見るッス」


 赤毛は手際よく水を含ませた布を取り出し、口元を拭いながら適切な指示を飛ばす。

 その背後では、潮焼けした屈強な海の男たちが、帆綱を握りしめながら生温かい視線を送っていた。

 彼らにとって絶対的な信仰の対象である美しき『姐さん』が、顔面を蒼白にしてゲロまみれになっている様は、威厳の喪失どころか奇妙な親近感すら抱かせる儀式となっていた。

 波の音と船員たちの無言の視線の中、メリーは情けなく介抱されながら、果てしなく続く海のうねりに身を委ねるしかなかった。


 それから数時間。

 容赦のない太陽が天頂から傾き始めた頃、波を切り裂いて進み続けたメリー・ローズ号の眼前に、巨大な陸地の影が広がってきた。

 ヴェリウス領である。

 かつてアステリア公爵家が治め、現在は王家直轄の管理下にある王国の南側一帯を占める広大な領地。

 先の凄惨な戦争と、現国王ヴォルガンが引き起こした血塗られたクーデターにより、アステリア家の直系血族はアルベルトとヴォルガンのみとなった。

 王国の歴史を支えてきた強大な公爵家は実質的に空位となり、この広大な南部の沃野は、現在ヴェリウス侯爵の管理下へと置かれている。

 その要衝である巨大な港には、王国全土の血管を満たすための巨大な船着き場と、幾棟もの巨大な石造りの倉庫が立ち並んでいた。

 海を越えて運ばれてきた西側の豊かな食糧を、ここから陸路で王国の中枢へと送り出すための、途切れることのない物流の心臓部である。

 重厚な錨が海底の砂を噛み、巨大な船体が港の石壁に固定されると、数時間ぶりに波の揺れから解放された静寂が甲板を包み込んだ。


「姐さん、到着したッスよ」


 波止場から押し寄せる荷揚げの喧騒の中、赤毛が横たわっていたメリーの肩を軽く揺する。


「……ぅ、わかった、わ……」


 メリーは呻き声を上げながら、手すりにつかまってゆっくりと身体を起こした。

 顔色は未だに青白く、立ち上がった傍から足元が覚束なくふらついている。


「ダメそうッスね」


 赤毛はやれやれと肩をすくめ、その細い腕をしっかりと支えた。

 重厚なタラップが降ろされ、メリーは赤毛に半ば引きずられるようにして、ふらふらとした足取りで港の石畳へと降り立った。

 その背後では、いかめしい面構えの船員たちが怒号を交わしながら、船倉から巨大な小麦の袋や樽を次々と運び出し、滑車を使って陸地へと降ろしている。

 港の広場には、あらかじめ手配されていた数十台の屈強な荷馬車が整然と隊列を組み、降ろされた食糧を次々と呑み込んでいく。

 馬たちの荒々しい鼻息と、車輪が石畳を軋ませる重低音が、ヴェリウス領の活気を証明していた。

 西から運ばれた命の糧は、ここから陸の動脈を巡り、飢えに苦しむ王国の民の元へと届けられるのだ。


「揺れない地面……こんなに心強いなんて……」


 メリーは陸地の絶対的な安定感に深く息を吐き出した。

 荒れ狂う波に翻弄され続けた三半規管が、ようやく本来の機能を取り戻そうとしている。


「まだフラフラしてるッスか? 日陰に座って休むッスよ」


 赤毛に促され、メリーは港を管理する巨大な石造りの建物の影へと歩みを向けた。

 潮風を遮るように配置された木製のベンチに腰を下ろし、背もたれに深く身を預ける。

 喧騒から少し離れた日陰の空間は、極度の船酔いから解放されたメリーに、心地よい弛緩をもたらした。

 目を閉じ、揺れない大地がもたらす安堵の静寂に身を浸す。

 永遠に続くかと思われた休息の時間は、しかし、鼓膜を震わせる低く冷たい声音によって唐突に終わりを告げた。


「君がメリーちゃんか?」


 一切の感情を排した、だが拒絶を許さぬ絶対的な威光。

 柔らかな春の陽光に満ちていた日陰の空気が、その一言で凍りついた。

 鋭く息を呑み、即座に身を翻した赤毛の動きが、空中で硬直した。


「! ヴォルガン、 ……陛下」


 赤毛の口から絞り出されたその名は、この場に存在し得るはずのない絶対権力者の名であった。

 メリーがゆっくりと目を開き、声の主へと視線を向ける。

 そこに立っていたのは、数人ほどの目立たない護衛だけを従えた、アステリア王国現国王、ヴォルガン・ガーディス・アステリアその人であった。


     ──────


「どうしたんだ? その娘は」


 一切の感情を感じさせない、しかし逆らうことを許さない絶対的な威厳を持った男の声。

 春の陽気に包まれていた建物の影が一瞬にして凍りつき、圧倒的な重圧が周囲の空気を支配する。

 国王ヴォルガン。

 その氷のように冷たい視線が、木製のベンチにぐったりと身を預けるメリーへと注がれていた。

 先ほどまで喧騒に包まれていた港の空気が、まるで巨大な獣に睨まれたかのように静まり返っている。

 しかし、その重圧を真正面から浴びながらも、洗練された商会の制服に身を包む『海鳥』の赤毛は、一切の恐れを見せずに肩をすくめた。


「船酔いッス。あんまり近づいちゃだめッスよ。酸っぱい臭いがするんで。乙女の矜持ってものがあるッス」


 不敬極まりない軽口が、凍りついた空気をあっけなく切り裂く。


「ああ、西の救世主と呼ばれるこの娘と一度話をしてみたかったんだが、ダメそうだな」


 絶対権力者の口から紡がれた言葉は、思いのほか平坦なものであった。

 彼が見下ろす先には、噂の美貌の淑女ではなく、ただ三半規管を蹂躙され、吐瀉物の残り香を漂わせる哀れな少女の姿があるのみである。


「国王自らッスか?」


 赤毛が呆れたような、それでいて探るような視線を返す。


「今日、この娘がここに来ることが申請書に書かれていたんでな。足を運んでみたんだが……」


 ヴォルガンの眼差しには、失望とも哀れみともつかない、酷く乾いた色が浮かんでいた。

 血塗られた王座を奪い取り、苛烈な意志の下に王国を支配する男にとって、目の前に横たわる脆弱な肉体は、到底、西の巨大な機構を作り上げた怪物とは結びつかない。


「姐さん、『はい』なら指を一本、『いいえ』なら二本立てるッスよ」


 その言葉に応じるように、漆黒のドレスの襞から、青ざめて震える細い手が持ち上がる。

 言葉を発する気力すら奪われたメリーは、閉じた瞼をぴくりとも動かさず、ただ人差し指一本を虚空へと力なく突き出した。

 無言の肯定である。


「この状況で良ければ会話できるッス」


 赤毛の通訳に、ヴォルガンは怪訝そうに眉をひそめた。

 だが、その微かな反応を読み取ったのか、メリーの指先が突如として形を変える。

 虚脱状態にありながらも、彼女は抗議するように二本の指を立て、震える手で赤毛の腕を小刻みに突き刺した。


「だめッスか。あたしが返事をすればいいッスか?」


 赤毛の問いかけに対し、メリーは再び人差し指だけを突き出し、一本の指を微かに揺らした。


「大丈夫そうッス」


 威厳の喪失を体現するような奇妙な意思疎通を前に、国王の纏っていた張り詰めた空気が微かに緩む。


「ああ、すまないな。聞きたいことはいくつかあるんだが、そうだな。食料品に付属しているあの冊子、あれもこの娘が?」


「それは、西の大商人と呼ばれるベルンさんの部下の仕事ッスね。食通の男と、絵描きの男が作ったものッス。彼らを雇ったのは姐さんッスけど」


「ほう。黒麦と丸芋の栽培方法、それらの調理方法がいくつも書かれている冊子。あれは素晴らしいな」


 国王の称賛の言葉に対し、メリーはベンチに身を沈めたまま、再び一本の指を虚空に突き出す。

 それは謙遜でも誇りでもなく、ただ事実を肯定するだけの機械的な動作であった。


「昔っから、西ではそうしてきてるッス。珍しい海産物の調理方法とか、そういうのが無いと誰も食べないッスからね」


「あの袋のイラストもその絵描きが? あれは王都でも大人気だ」


「そうッス。あの袋だけじゃなく、日用品や嗜好品に至るまで、西は『メリーちゃん』だらけッス。汚染されていると言っても過言じゃないッス」


 赤毛が楽しげに語る言葉の途中で、メリーの指が二本に分かれ、苛立たしげに宙をかいた後、再び赤毛の脇腹を力なく突き刺した。

 一切の威厳を喪失した姿勢のまま放たれる無言の否定は、どこか滑稽な響きを帯びている。


「あの船のピンクの旗もこの娘のイメージか。ピンクの髪はわかるが、蒼紫の薔薇は何だ?」


 ヴォルガンの視線が、港に停泊する漆黒のガレオン船の帆柱へと向けられる。


「ああ、蒼紫の薔薇は、姐さんのイメージを絵にしたものッス」


 その言葉の瞬間、メリーの二本の指がしつこく赤毛の腕をつつき回した。

 全身の硬直と、指先だけの微細で執拗な動きが、極度の船酔いによる苦痛と屈辱を如実に物語っている。


「ああ、よくわからんが、『メリー・ローズ号』という名前からしてこの娘のイメージなんだろうな」


 ヴォルガンがそう結論付けると、メリーは反論の言葉を喉の奥で飲み込み、ただ二本立てた指を国王の方向へと恨めしげに突き出し続けた。

 もはや大人の女としての気品など微塵もなく、ただの意地を張る子供のような所作である。


「この娘が西側を復興し、王国の食糧庫となる機構を作ったのか。信じられんな」


 目の前の惨状と、西の広大な大地で成し遂げられた偉業との落差に、ヴォルガンは深く息を吐き出した。

 それは、長きにわたり王国の喉元に突きつけられていた脅威の正体が、今まさに目の前でゲロにまみれて倒れているという現実に対する、純粋な感嘆であった。


「始めた当時、姐さんは十歳かそこらッスからね。地道にコツコツ積み重ねてきたッスよ」


「ああ、その成果は今、王国だけでなく、帝国にまで広がっている。此度の休戦もこの娘によるものと言えるだろう」


 風が潮の香りを運び、港の喧騒が遠くで響く中、ヴォルガンの声には確かな重みが宿っていた。

 武力ではなく、土を耕し麦を育てるという気の遠くなるような営みが、東の巨大な帝国の歩みを止め、休戦という歴史的な奇跡をもたらしたのだ。


「内政に力を入れたいから休戦って話ッスか?」


「表向きはな。経済基盤の立て直しをしなければ、帝国はこの先の百年を生き延びることはできんと皇帝は言っていた」


 血を流すことしか知らなかった二つの大国が、ようやく剣を置き、自らの足元を見つめ直そうとしている。

 その巨大な歴史の転換点が、この細腕一つから始まったという事実。


「まあ、そうッスよね。食べ物がなければ始まらないッス。まずはそこからって話はわかりやすくていいッスね」


「そうだ。この娘は最初からそれを目指していた。私は帝国から王国を守るだけで精一杯だったのにな」


 自嘲気味にこぼされたヴォルガンの言葉には、玉座の重圧に耐え続けてきた男の、決して他者には見せない微かな疲労が滲んでいた。

 その時、ベンチに横たわっていたメリーの指が、静かに一本だけ立てられた。


「姐さんはそれでいいと言ってるッスね。国を守る仕事は国王として大事だってことッスかね」


 赤毛の通訳に、メリーは再び一本の指を力なく突き出す。

 それは、立場を違え、決して交わることのない道を歩む者への、静かな肯定であった。


「そう言ってもらえるか。帝国との休戦により、私もようやく内政に着手できる。ここに来たのもその一環だ」


 ヴォルガンの瞳に、再び鋭い光が宿る。

 それは、ただの視察という言葉には収まらない、王国全土を巻き込む巨大な意志の顕現であった。


「国王自ら視察ッスか」


「国王と近衛兵が視察に来れば、ここで悪事を働く者もいないだろう」


「あー。ある意味最強の監視ッスね」


 軽口を叩きながらも、赤毛の筋肉が微かに緊張を帯びる。

 ヴェリウス領という物流の心臓部を、国王自らがその足で踏み固める。

 それは、西からの食糧供給をただ受け入れるだけでなく、王国の中枢から末端に至るまで、完全に自らの支配下に置くという宣言に他ならない。


「私はこれから、西に、アルベルトに負けない王国の再建を始めるつもりだ」


 春の陽光の下、冷たい海風に言葉が溶けていく。

 それは、血を分けた兄に対する宣戦布告であり、新たな戦いの幕開けを告げる号砲であった。

 張り詰めた沈黙が空間を支配する。

 その重苦しい空気の中、メリーの青ざめた手が再び持ち上がり、一本の指が虚空に静止した。


「ほう。君たちと対立することもあるだろう。それでもかまわないと言うか?」


 国王の問いかけに対し、メリーは微塵の躊躇いもなく、その一本の指を維持し続けた。

 言葉は発せずとも、その小さな指先に込められた意志の強さは、周囲の空気を震わせるほどの重みを持っている。


「たいした懐の広さだ。これが西の救世主、指導者か。だが、こうして見ると、萎びた干し芋にしか見えんな」


 極限まで高められた緊張感が、ヴォルガンの最後の一言によって唐突に霧散した。

 彼が見下ろす先には、顔面を蒼白にし、ドレスを乱してベンチにぐったりと横たわる、威厳の欠片もない少女の姿。


「ああー、その表現は的確ッスね。まさに萎びた干し芋状態ッス」


 赤毛が深く頷きながら同意したその瞬間。

 死に絶えたかと思われていた肉体が、突如として奇妙な駆動音を立てた。

 むくり、と。

 重力を無視したような不自然な動きで、メリーがゆっくりと上半身を起こす。


「誰が萎びた干し芋よ!」


 顔面を青から赤へと変色させ、メリーは残された僅かな気力を振り絞り、絶対権力者である国王に向かって震える指を突きつけた。

 大人の女としての気品など完全に消え失せ、ただのヒステリックな抗議の叫びが港の片隅に響き渡る。


「うわっ! 酸っぱい臭いがする!」


 その瞬間、ヴォルガンが顔をしかめ、反射的に数歩後ずさった。

 威風堂々たる王の顔面が、本能的な嫌悪感によって歪む。

 激しい動作によってメリーのドレスから揮発した、未消化物と胃液の生々しい匂いが、春の柔らかな風に乗って直撃したのだ。


「だめッスよ、姐さん! 乙女の矜持が……」


 赤毛が慌ててメリーをベンチに押し戻そうとするが、激昂したメリーは己の口元を片手で押さえながら、もう一方の手で二本の指を立て、ヴォルガンの顔面に向かって執拗に突き出し続けた。


「今日はこの辺で失礼するよ。また会おう。酸っぱい娘」


 もはや一切の感傷も威厳も消え失せ、ただ鼻と口を覆いながら逃げるように背を向けるヴォルガン。

 その背中が護衛たちと共に港の喧騒へと消えていくのを、メリーは口を押さえたまま恨めしげに見送った。


「ああ、『酸っぱい聖女』として伝説になるッスね。西の救世主の姐さんの株は大暴落ッス」


 げんなりとした声で呟く赤毛の腕を、メリーは無言のまま、二本に立てた指で何度も何度も、激しくつつき回していた。


     ──────


「綺麗な夕日ね。今日一日の疲れが溶けていくようだわ」


 西の海原に向かって進む漆黒のガレオン船『メリー・ローズ号』の舳先で、メリーが深く息を吐き出した。

 空と海を隔てる境界線が、燃えるような黄金色から深い紫へと溶け合い、世界そのものを荘厳な絵画のように染め上げている。

 ヴェリウス領での荷揚げを終え、港町レグスへの帰路についた船上には、心地よい疲労と達成感が満ちていた。

 風を孕む帆の音と、波を切り裂く重厚な水音が、静かな夕暮れの海に規則正しいリズムを刻んでいる。

 手すりに優雅に手を添え、夕陽を浴びて黄金に輝くピンクブロンドの髪を風に靡かせるその姿は、絵に描いたような美貌の淑女であった。

 先ほどの港での失態を完全に記憶の底に封じ込め、彼女は再び、圧倒的な気品と大人の女としての威厳を身に纏っていた。

 何事もなかったかのように黄昏れるその横顔は、触れれば切れそうなほどの気高さを放っている。


「姐さんはゲロ吐いて倒れてただけじゃないッスか」


 しかし、その完璧に構築された幻想は、傍らに立つ『海鳥』の赤毛が放った容赦のない一言によって、あっけなく粉砕された。

 黄金色の夕陽が演出していた荘厳な空気が一瞬にして霧散し、甲板に気まずい沈黙が降り下りる。


「うるさいわね! しょうがないでしょ!」


 大人の女としての威厳はどこへやら、メリーは顔を真っ赤にして振り返り、ヒステリックな声を張り上げた。

 完璧に計算された淑女の仮面が剥がれ落ち、ただ意地を張る子供のような素顔が露わになる。


「スッパ! 姐さん、歯を磨いてきてくださいッス」


 メリーの抗議の叫びを真正面から浴びた赤毛が、大袈裟に顔をしかめて鼻をつまんだ。

 胃液と未消化物の生々しい記憶を呼び起こすその言葉に、メリーの顔面が屈辱でさらに朱に染まる。


「だからうるさいって言ってるでしょ! あんた、わざとやってるわね!」


「事実を言っただけッスよ。国王陛下にも酸っぱい娘って言われてたじゃないッスか」


「あいつのことは言うな!」


 夕暮れの静寂を切り裂いて、威厳の欠片もない騒々しい口論が甲板に響き渡る。

 その背後では、甲板の清掃や帆の調整を行っていた屈強な船員たちが、手を止めて二人のやり取りを眺めていた。

 無数の傷跡を刻んだ海の男たちの顔に浮かんでいるのは、呆れでも軽蔑でもなく、ある種の歌劇を楽しむような生温かい笑みであった。

 彼らにとって、圧倒的な美しさと権力を持つ『姐さん』が、こうして赤毛の娘に口論で負け、顔を真っ赤にして怒る姿は、退屈な航海における最高の日常風景なのだ。

 黄金色から深い藍色へと沈みゆく空の下。

 威厳を取り戻そうとして失敗した少女の甲高い抗議の声と、それを飄々と躱す赤毛の笑い声、そして船員たちの低く野太い笑い声が、波の音に溶けていく。

 西の最果てを目指す『メリー・ローズ号』は、夜の帳が下り始めた広大な海原へと、その漆黒の船体を静かに進めていった。


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