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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第51話:世代交代、途切れぬ営み、「さあ、行くわよ!」

「姐さん、出港の準備ができたッス。港に行くッスよ」


 柔らかな春の陽光が、石畳の広がる港町レグスを黄金色に染め上げていた。

 海から吹き抜ける穏やかな風が、潮の香りと共に、活気に満ちた人々の熱気を街の隅々にまで運び込む。

 絶え間なく行き交う荷馬車の車輪が、重厚な轍の音を響かせながら大通りを削り、御者たちの威勢の良い掛け声が空へと吸い込まれていく。


 レグス商会の堅牢な石造りの建物の前で、手綱を握った『海鳥』の赤毛が軽快な声を上げた。

 洗練された商会の制服を纏いながらも、その身のこなしには野性的なしなやかさが宿っている。

 装飾を抑えた漆黒の馬車に乗り込むと、柔らかな革の座席が微かに沈み込んだ。


「姐さんが大泣きした時から三年、いろいろあったッスね」


 手綱が振られ、馬車がゆっくりと動き出す。

 メリーは軽く目を閉じた。

 馬車の揺れに合わせて、記憶が静かに浮かび上がる。


 三年。

 この三年間で、王国を揺るがす二つの巨大な事件が立て続けに起きた。


 一つ目は、『剣鬼』オルコット辺境伯の薨去である。

 王国の守護者として、絶対的な武力の象徴として君臨し続けた老将は、拍子抜けするほど穏やかな最期を迎えた。

 長男ガレル、次男シリル、そして養女アンナマリー。

 それぞれの血を受け継ぐ幼い孫たちに囲まれ、微かな笑みを浮かべたまま、ある日、眠るように倒れ、二度と目を開くことはなかった。

 本来であれば、王国全土を挙げての国葬が執り行われるべき偉大な武人であった。

 しかし、不穏な時世がそれを許さず、事態は思わぬ方向へと転がった。

 国王ヴォルガンが、最低限の護衛のみを連れ、自ら辺境伯領へと馳せ参じたのだ。

 武人の亡骸を前に直々に弔辞を述べるその姿は、王国建国以来の異例事態として歴史に刻まれることとなった。

 張り詰めた静寂に包まれた葬儀の場で、ヴォルガンの勅命により、長男ガレルが正式にオルコット辺境伯の地位を継承することが宣言された。


 そして、その重苦しい空気の中で、もう一つの予想外の事件が起きていた。

 九年ぶりとなる、アルベルトと国王ヴォルガンの直接会談である。

 窓を堅く閉ざされた執務室で、血を分けた兄弟は冷たい視線を交えながら、王国の形について言葉を交わした。

 アルベルトの王位継承権はいまだ抹消されておらず、立場としては明確に王兄殿下であるという事実の確認。

 ヴォルガンは、アルベルトの傍らに立つアンナマリーとの間に生まれた幼い娘を一瞥し、早く男の子を作れと感情の読めない声で言い放った。

 国王という立場は、いつ暗殺の刃に倒れてもおかしくない死と隣り合わせの玉座である。

 ゆえに、ヴォルガンは今のところ王妃を迎える気もなく、直系の跡継ぎを作るつもりもないという、乾いた覚悟を口にした。

 自分に何かあれば、アルベルトか、その血を引く息子が国王になれ。

 それは、歩む道こそ違えど、互いに王国の存続を最優先とする兄弟の、血を吐くような静かな盟約であった。


 二つ目の事件は、昨年の夏に王国全土を襲った記録的な大雨と冷夏である。

 分厚い鉛色の雲が太陽を遮り続け、王国の中央から南部にかけての穀倉地帯は壊滅的な被害を受けた。

 秋に収穫されるはずだった黄金の麦は根腐れを起こして黒く変色し、その他の作物も軒並み大地の泥に沈んだ。

 飢饉の発生である。

 飢えた民衆の悲鳴が王都の城壁を越えようとした時、西側の巨大な機構が、ついにその真の力を現した。

 西側大穀倉地帯構想。

 王国の食糧庫となるべくおよそ八年の歳月をかけて開拓された大地と、そこから伸びる無数の街道網が、王国の窮地に際していかんなく機能し始めたのだ。

 対立状態にあった西と中央を繋いだのは、かつての軍務局長、アイゼンハイド侯爵であった。

 彼の周到な根回しにより、国王の勅命として、西からの食糧に対する関税が一時的に完全に撤廃された。

 輸送の妨害は重罪とされ、食糧を運ぶ商人たちには王室の印が刻まれた専用の通行証が発行された。

 レグス海運には、アイゼンハイド侯爵領の東に位置するヴェリウス領の巨大な港を使用する許可が下り、陸と海の両面から、西の豊かな食糧が王国全土の血管を巡るように行き渡った。

 今年の秋に、中央の土地で再び小麦が穫れるようになるかは、誰にもわからない。

 それでも、西から運ばれる麦の香りが、王国の民を確実な死の淵から引き戻していた。


 東の帝国もまた、この飢饉の波とは無縁ではいられなかった。

 しかし、彼らは既に西の知恵を吸収していた。

 元第二皇子サフィアンが西の最果ての地から持ち帰った、寒冷地に強い黒麦と丸芋の栽培技術。

 そして、飢饉に備えて国中に張り巡らされた巨大な食糧庫と、それを繋ぐ強固な街道網。

 完全とは言えないまでも、帝国は今般の天災に対する備えを機能させ、被害の拡大を最小限に食い止めることに成功していた。

 自国の民を食わせることに成功した帝国は、王国へ牙を剥く理由を失った。

 内政に力を入れるという名目の下、国王ヴォルガンと皇帝カイロスの間で、歴史的な休戦協定が結ばれたのだ。

 武力ではなく、土を耕し麦を育てるという行為が、巨大な戦争の火種を完全に消し去っていた。


 未だに、西からの途切れることのない食糧供給は続いている。

 辺境伯領から陸路を抜ける大動脈は、今や西の大商人となったベルンが完全に掌握し、レグスからの海路は、レグス市長の座に就いたシリルが緻密な計算の下に取り仕切っていた。

 アルベルトとメリーは、それぞれの輸送ルートに滞りがないか、絶えず各所を巡回する日々を送っている。

 今回は、メリーがレグスから海路でヴェリウス領へと向かう航路の責任者として、港へ赴くところであった。


 馬車が緩やかに速度を落とし、潮の香りが一層濃くなる。

 窓枠を打つ潮風の音が、遠くで荷揚げの指示を飛ばす船員たちの怒声と混じり合う。

 老将が倒れ、王族が盟約を交わし、世代が新しく入れ替わったとしても。

 港に集積された山のような小麦の袋と、それを運ぶために汗を流す人々の熱気が、変わらぬ事実を証明している。

 人の営みは、途切れることなく続いていく。

 馬車の扉が開き、春の陽光の下、出港の準備を終えた巨大な黒いガレオン船が、その威容を誇るように海風を孕んでいた。


     ──────


 春の陽光が降り注ぐ港町レグスの巨大な波止場。

 海風が運ぶ潮の香りと、絶え間なく行き交う人々の喧騒を割って進んできた漆黒の馬車が、静かに停止した。

 手綱を握っていた『海鳥』の赤毛が軽やかに地面へ飛び降り、恭しく重厚な扉に手を添える。

 車内の影の中から、一人の女性が石畳へと降り立った。


 十八歳。

 小柄な体躯を包むのは、上質な素材を用いた漆黒のドレスである。

 その身のこなしには洗練された淑女の気品が宿り、黄金色の陽射しを受けたピンクブロンドの髪が、柔らかな春の風に流れる。

 幼さを残していた顔立ちは、三年という歳月を経て、誰もが息を呑むほどの圧倒的な美しさへと磨き上げられていた。

 大人の女性としての豊かさと、触れれば切れそうなほどの気高さを併せ持つ、完成された美貌。

 その優雅な姿が陽光の下に晒された瞬間、彼女の到着を待ちわびていた群衆から、地鳴りのような絶叫が巻き起こった。


「メリーちゃん!」

「メリーちゃんだ! いってらっしゃい、メリーちゃん!」

「お気をつけて! メリーちゃん!」


 何年も前から商会の流通網を掌握し、画集やグッズによって国中の民衆を汚染してきた、圧倒的な偶像としての支配力。

 どれほど彼女が大人の気品を身に纏い、息を呑むほど美しく成長しようとも。

 熱狂的な信奉者たちの網膜には、永遠に愛らしくて手が届かない「メリーちゃん」の幻影が焼き付いているのだ。

 大人の女としての確固たる自負を木端微塵に打ち砕く、その幼稚な響きの大合唱。

 物理的な熱波となって押し寄せる歓声に対し、メリーは内心で深々とため息をついた。

 しかし、決してその不満を表情に出すことはない。

 優雅にドレスの裾をつまみ、狂騒に沸く民衆へ向けて、完璧に計算された非の打ち所のない微笑みを振りまく。

 頬の筋肉を正確に動かし、慈愛に満ちた聖女のような愛想笑いを浮かべながら、ゆっくりと手を振り返した。

 その一挙手一投足が、群衆の熱をさらに爆発させ、港の空気を震わせる。


 彼女の視線の先、群衆の背後に広がる青い海には、レグス海運の威容を誇る巨大な黒船『メリー・ローズ号』が鎮座していた。

 闇夜を煮詰めたような漆黒の重厚な船体には、鮮烈な『蒼紫の薔薇』の紋章が誇らしげに刻まれている。

 その両翼を固めるように、輸送の役割を担う二隻の中型船が波に揺れていた。

 それぞれの甲板や巨大な船倉には、愛らしい笑顔のメリーが印刷された印を持つ大量の食糧の袋と、陸路用の馬車が隙間なく満載されている。

 袋の隙間からは微かに麦の香りが漂い、潮の匂いと混じり合っていた。

 西の豊かな恵みを王国中へ運ぶための、完璧な出港準備が整えられている。

 波の音と、巨大な船体が軋む音が、港の喧騒の底で重厚なリズムを刻んでいた。


 群衆の熱気を背に受けながら、『海鳥』の赤毛が軽やかな足取りでメリーの傍らに寄り添う。

 洗練された商会の制服に身を包んだ彼女の所作は、野獣のようなしなやかさを保ちつつ、メリーへの絶対的な忠誠を示している。

 赤毛に先導され、メリーは重厚なタラップをゆっくりと上り、『メリー・ローズ号』の甲板へと足を踏み入れた。

 潮風がより一層強く吹き付け、ドレスの裾を大きく波打たせる。

 磨き上げられた甲板の上では、潮焼けした屈強な船員たちが、軍隊のような正確さで一列に整列していた。

 太い腕に無数の傷跡を刻んだ海の男たちの視線は、一点の曇りもなく、目の前に現れた美しき絶対者へと釘付けになっている。

 荒々しい息遣いすら押さえ込み、微動だにしない彼らの間を、メリーの硬質な足音だけが響く。

 波の音と風の唸りだけが支配する静寂の中、メリーはゆっくりと歩みを進め、船の舳先へと向き直った。


「ごくろうさま。問題はない?」


 透き通るような、しかし確かな重みを持った声が、甲板の空気を切り裂いた。

 大人の女としての威厳を響かせたその問いかけに対し、整列した船員たちの先頭に立つ男が、一歩前に進み出て胸を張った。


「姐さんの美しさ以上の問題はこの海には存在しません!」


 それは、実務的な報告ではなく、狂気すら孕んだ信仰の告白であった。

 海賊と見紛うような荒くれ者たちが、真顔で、そして誇らしげにその言葉に無言の同意を示す。

 彼らもまた、港の群衆と同じく、以前から続くメリーの狂信的な信奉者たちであった。

 一切の揺らぎがないその言葉に対し、メリーはただ静かに目を伏せた。

 もはや慣れきった所作で軽く顎を引き、海風を受けながら堂々たる姿勢で前を見据える。

 そして、王国を繋ぐ巨大な血管の支配者として、港全体に響き渡るような力強い号令を放った。


「さあ、行くわよ!」


 その声が合図となり、黒いガレオン船の巨大な帆が一斉に風を孕んだ。

 太いロープが軋む音と、船員たちの威勢の良い掛け声が海原へと放たれる。

 歓声と怒声が交錯する中、『メリー・ローズ号』は春の陽光を反射する海面へと、その重厚な船体を滑り出させた。

 西から東へ、命の糧を運ぶための巨大な航跡が、青い海に白く刻まれていく。


ストック切れました

毎日更新はできません

申し訳ありません

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