表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第2部:反逆の狼煙は西側に上がる
50/56

第50話:おままごと、尊い涙、軍務局長は未来へ亡命する

「姐さん、ブラッドレイ子爵から調査結果の報告が来たッス」


 分厚いガラス窓の向こうで、じりじりと焼けつくような盛夏の日差しがダルトン子爵領の大地を照らし出している。

 しかし、堅牢な石造りのダルトン邸の奥深く、広々とした食堂の内部には、ひんやりとした静謐な空気が保たれていた。

 昼食の喧騒はとうに過ぎ去り、磨き抜かれたテーブルの上には、上品な透かし彫りが施された数客の白磁のティーカップだけが残されている。

 商会の制服を着た『海鳥』の赤毛の細い指には、紙の束がしっかりと握られている。

 上座に腰を下ろし、優雅な手つきでティーカップを傾けていたメリーは、報告の到来に一度は目を輝かせたものの、すぐさま不満げに形の良い眉を寄せた。

 彼女はカップを音を立てて置くと、向かい側の席でひどく寛いだ様子を見せている一人の男を、細い指先で遠慮なく指差した。


「ちょっと、この男がいるのに重要な報告を聞くのはまずいでしょう」


 エメラルドグリーンの瞳が射抜いた先には、王国の軍務局長であり、アイゼンハイド侯爵家当主でもあるエーベルハルトの姿があった。

 彼は西側連合にとっての敵、王国の最高幹部の一人である。

 彼はダルトン子爵という旧友の邸宅であることを良いことに、まるで避暑地にでも訪れた貴族のような優雅さで、極上の紅茶を静かに啜っていた。

 メリーの露骨な敵意と非難の視線を浴びても、エーベルハルトの整った顔立ちには一切の動揺も浮かばない。

 彼はカップを静かに置くと、知性を湛えた眼鏡の奥の瞳を細め、飄々とした口調で応じた。


「案ずるな。私は、ここで見聞きしたことを中央の連中に逐一報告するような野暮な真似はしない。私が王都へ持ち帰って伝えるのは、アルベルト殿下が西の地で泥にまみれながら、ひたすらに街道を造っているという事実だけだ」


 その言葉には、かつて己が信じていた武力による統治という常識が、西側の経済と生活という奔流の前に敗れ去ったことへの、静かな諦観と微かな敬意が混じっていた。

 しかし、メリーはそのような男の感傷など一切考慮する気はないというように、さらに眉間の皺を深く刻み込んだ。


「あんた、いったいいつまでここに居座る気なのよ? さっさと王都に帰りなさい」


「そう言うな。私の休暇はあと三日ほど残っている。もう少しだけのんびりさせてもらうさ。それより、君こそ自分の領地であるギルガルド領に帰らなくていいのか?」


 エーベルハルトの反撃めいた問いかけに、メリーは鼻で小さく笑い、ふんぞり返るようにして背もたれに体重を預けた。


「私はいいのよ。領主代行の面倒な仕事は、全部クラウスに押し付け……任せてあるわ」


「クラウスだと? まさか『黒鉄』の副官クラウスか?」


 常に冷静沈着な軍務局長の顔に、初めて明確な驚きの色が浮かんだ。

 王国最強と謳われた私兵団の副官を、あろうことか敵対していた領地の代行として据えるなど、常軌を逸した人事である。


「そうよ。あの男も将軍と一緒に負けた捕虜だからね。何でも言うことを聞いてくれるわ」


 すまし顔でとんでもないことを言い放つメリーの横顔を、エーベルハルトは半ば呆れたように、半ば恐ろしいものを見るような目で見つめた。


「マクシミリアンにクラウス、オーウェン、そして『黒鉄』の精鋭たち……。君たちは、中央の優秀な人材を根こそぎ引き抜きすぎだろう。あれほどの武人たちを、ただの労働力として再利用するなど、前代未聞にも程がある」


「いいじゃない。これは勝者の正当な権利よ」


 ふふん、と誇らしげに胸を張り、小さな鼻を鳴らすメリー。

 その光景を、同席していたアルベルトやダルトン子爵は、もはや日常の一コマとして静かに見守っていた。

 二人のやり取りが一段落したことを見計らい、入り口で待機させられていた赤毛の娘が、申し訳なさそうに小さく手を挙げた。


「あの、そろそろ報告を読み上げてもいいッスか?」


「……仕方ないわね。でも、この男に聞かれてはいけないような機密情報は飛ばしなさい」


「大丈夫ッス。姐さんの検閲に引っかかるようなヤバい話は、事前に別紙にまとめて後でコッソリ渡す手はずになってるッス。では、表向きの報告をしまッス」


 赤毛の娘は居住まいを正し、手元の真新しい紙の束に真剣な視線を落とした。

 食堂内の空気が、微かに引き締まる。


「まず、ベルンさんたちが向かった、北の最果ての地の調査結果についてッス。報告によれば、懸念されていた先住民の存在は確認されず、法的な障害なく開拓し放題とのこと。さらに、かつては見捨てられた不毛の地と思われていましたが、広大で肥沃な黒土の平地を確保したッス。北の大地ならではの寒さに強い作物を、大規模に栽培可能だと結論付けられています。そして何より……豊富な湯量を持つ温泉が湧いているため、過酷な冬の寒さの中でも、凍えることなく安定した生活が可能だそうッス」


 淡々と、しかし確かな熱を帯びて読み上げられるその報告は、ただの辺境の調査結果に留まらない重みを持っていた。

 かつて中央から見捨てられ、歴史の闇に消えようとしていた死の大地が、新たな命を育み、西側経済を支える巨大な揺り籠となり得るという、途方もない希望の証明であった。

 ダルトン子爵が感嘆の溜息を漏らし、アルベルトが静かに頷く中、赤毛の娘は次の紙へと視線を移した。


「それに伴い、マクシミリアン将軍が自らノルトヴァルト侯爵の位を名乗り、あの最果ての地を正式に自らの領地として治めることになったッス。開拓民たちへ家族を持つ手本を示すため、自ら結婚も果たすとあるッス」


「……そうか。あのマクシミリアンが」


 その報告を聞いた瞬間、エーベルハルトの口から、深い、あまりにも深い感嘆の息が漏れ出た。

 知性を湛えた彼の瞳が、食堂の壁を抜け、遥か北方の空を見つめるように細められる。

 幼い頃からただ剣の頂のみを求めて修練に明け暮れ、人間らしい感情や生活の喜びを一切切り捨てて生きてきた、ひどく不器用な実の弟。

 死に場所を求めるように戦場を駆け抜けてきたその弟が、全てを失い、最果ての大地で自ら土にまみれることを選び、人の営みの根源である農地を築き、あろうことか伴侶まで得て家族を作ろうとしている。

 それは、中央の軍務局長として数万の兵を動かすことよりも、はるかにエーベルハルトの心を激しく揺さぶる、奇跡のような報せであった。

 己の手を血で染めることしか知らなかった弟が、命を育むための手を手に入れたのだ。

 静かな感動に打ち震えるエーベルハルトの感傷を、しかしメリーの容赦のない声が唐突に断ち切った。


「筋肉だるまの結婚とか、そんな暑苦しい話はどうでもいいわ。そんなことより、続きを報告してちょうだい」


 無慈悲なメリーの言葉に、エーベルハルトは苦笑して肩をすくめ、赤毛の娘は小さく咳払いをして先を続けた。


「ッス。次に、西の海岸線にて、大型船が停泊可能な天然の港の跡地を発見し、その再利用が可能であると確認されたッス。これら巨大農場の開墾と港湾設備の工事・開拓に、初期段階で三百人からの人員を投入するとのこと。そして、それに伴う莫大な初期費用と、彼らが食いつなぐための膨大な食料は……全て、ベルンさんが西側経済圏から出すとのことッス」


「なかなかの大事業ね。さすがベルンだわ」


 途方もない規模の予算と物資が動く話を聞いても、メリーは当然の事のように深く頷き、その瞳に強い信頼の光を宿した。

 その額面と決断の速さに、同席している大人たちが内心で冷や汗を流していることなど、意にも介していない様子だ。


「西の大商人様、か。……それで、我が国を視察に来ていたはずの帝国第二皇子、サフィアン殿はどうなったのだ?」


 エーベルハルトが、政治的に最も繊細な火種となり得る人物の動向を尋ねた。


「噂の皇子様は、一連の開拓調査を通じてベルンさんの手腕と理念を大いに気に入ったようで、これからも一人の調査員として、ベルンさんと行動を共にすると書いてあるッス」


「まあ、ベルンなら当然ね」


 西の変革を学ぼうと、次期皇帝という絶対的な地位すらも事実上投げ打って単身やってきた帝国の最高峰の知性。

 その聡明な皇子から、圧倒的な財力と確かな実務の才、そして何より未来を描く狂気にも似た覇気によって、絶大な信頼と心服を勝ち取ってしまった一人の商人。

 東の超大国すらも経済の渦に巻き込んでいくベルンの底知れぬ手腕に、メリーは自慢の息子を褒められた母親のように、深く満足げに頷いた。


「報告の最後に、そのベルンさんから姐さんへ、個人的な伝言が預けられているッス」


 赤毛の娘が、束の最後の一枚を丁寧に引き抜きながら言った。


「そう。読んでちょうだい」


 メリーはティーカップの縁を指先でなぞりながら、相変わらずのすまし顔で小さく顎をしゃくった。

 赤毛の娘は一度深く深呼吸をし、紙に記された言葉を一言一句違えずに、ゆっくりと読み上げ始めた。


「『僕は、メリーさんの西側大穀倉地帯構想を形にするのが、ずっと夢だったんです。これで、五年来の夢がようやく叶います。あなたの夢を一番近くで支えられたことが、僕の誇りです。あの時あなたに言われた「稼ぐに追いつく貧乏なし」。僕、この言葉を支えに、ずっと励んできましたよ。』……以上ッス」


「……っ」


 その純朴で、飾り気のない言葉が食堂の床に落ちた瞬間。

 直前まで、エーベルハルトに対して勝ち誇ったようなすまし顔を作っていたメリーの華奢な肩が、微かに、しかし確かに跳ねた。

 息を呑む小さな、本当に小さな音が、静寂に包まれた広大な空間に痛いほど響き渡る。

 大きく見開かれた瞳の奥で、激しい感情の波が渦を巻き、限界まで堪えられていた大粒の雫が、音もなく表面張力を破って溢れ落ちた。

 ぽろぽろと。

 一度堰を切った感情はもう誰にも止めることはできず、止めどなく流れる透明な涙が、白磁のように滑らかな頬を濡らし、細い顎の先から次々とこぼれ落ちていく。

 膝の上で、ドレスの布地を握りしめる小さな両拳が、微かに震えていた。

 五年前。

 見捨てられ、荒れ果て、その日のパンすら満足に手に入らなかった絶望の港町レグスの地で、彼女が唐突に口にした、西側全域を巻き込むという途方もない未来図。

 飢えた民を救い、いずれ王となるべきアルベルトの盤石な基盤を創るための、血を流さない戦争。

 誰もが不可能だと断ずる巨大すぎる構想を、ただ一人、あの冴えない顔をした商人だけが、メリーの狂気めいた重圧を共有してくれた。

 泥にまみれ、理不尽な要求に胃を痛め、彼女の思い描いた景色を形にするためだけに、ただひたすらに奔走し続けてくれた青年の姿が、メリーの脳裏に鮮烈に蘇る。

 あれは、単なる立身出世や金儲けの野心などではない。

 メリーという一人の少女が、自分の命を削りながら敷こうとしている巨大な未来の道を、決して崩れさせないように下から必死に支え続けるため。

 自らの人生と魂を懸けて、荒唐無稽な夢物語を強引に現実の巨大な歯車へと変えてみせた一人の商人の、血の滲むような、そしてあまりにも誠実な五年の歳月が、その短く不器用な伝言の中に、全て凝縮されていた。

 メリーは声を殺し、ただただ溢れる涙を流し続ける。

 同席するアルベルトも、ダルトン子爵も、そして敵であるはずのエーベルハルトでさえも、決して余計な口を挟むことはなかった。

 己の身を削り、泥を被り、大人たちの思惑すらも利用しながら修羅の道を歩み続けてきた少女が、ただ一人の恩人であり、最高の同志へ向けて流す尊い涙。

 その美しさと重さを理解できるだけの人生を歩んできた大人たちは、静かな、そして限りなく優しい眼差しで、彼女の涙が止まるのをただじっと見守っていた。


「……ぐっ、……ぐすっ。……ありがとう、ベルン」


 やがて、静寂を満たすように、震える小さな唇から掠れた声が紡ぎ出された。


「知っていたわ。あなたが……私のために、どれだけ無理をして、頑張ってくれていたか。そんなこと、痛いほど分かっていたわよ。……ありがとう」


 嗚咽に途切れながらも、確かに紡がれた魂からの感謝の言葉だけが、夏の光に包まれた静謐な空間に、そっと溶けていった。


     ──────


 エーベルハルトが王都へと帰還してから数日が経過していた。

 王城の最奥に位置する玉座の間は、分厚い石壁と豪奢な絨毯に音を吸い取られ、墓所のような重苦しい静寂に支配されていた。

 高い天井から吊るされた豪奢なシャンデリアの光は、足元の赤絨毯を照らすばかりで、部屋の隅々に巣食う濃密な影を払拭するには至っていない。

 張り詰めた冷たい空気の中、玉座に深く腰を下ろした現国王ヴォルガンが、眼下に控える軍務局長を見下ろしていた。


「アルベルトは何をやっている?」


 玉座の間を震わせるような、低く、威圧感のある声が響いた。

 その声には、武力による即時の決着を求める苛立ちと、一向に攻め上ってこない兄への不満がどす黒く渦巻いている。

 エーベルハルトは伏せていた視線を僅かに上げ、一切の感情を排した平坦な声で報告を口にした。


「アルベルト殿下は西で街道を造っています」


 簡潔な事実のみを告げたその言葉に対し、ヴォルガンの眉間には深い皺が刻まれ、玉座の肘掛けを掴む手にギリリと力が込められた。


「街道? さっさと王都に攻め込んでくれば良いものを。何をやっているんだアイツは。街道作りなんておままごとをやっている場合か」


 吐き捨てるような国王の言葉が、冷たい大理石の壁に虚しく反響する。

 その瞬間、エーベルハルトの胸の奥底で、何かが決定的に冷え落ちていく音がした。

 秀麗な顔立ちのまま微動だにしない軍務局長の頭脳は、たった今玉座から投げ落とされた言葉の致命的な軽さを、静かに天秤に掛けていた。


(おままごと? 陛下は、王国全土を経済で復興しようというアルベルト殿下の政策・施策をおままごとと切り捨てるのか)


 西の大地で彼が目の当たりにしてきたのは、決して子供の遊びなどではなかった。

 泥にまみれ、汗を流し、大地の果てに新たな農地を開拓し、そこに生きる者たちの命を繋ぐための巨大な血管を敷き詰めるという、百年先を見据えた壮大な国家建設そのものであった。

 かつて最強と謳われた自らの弟すらもが剣を置き、その狂気じみた生命力の奔流に飲み込まれ、歓喜と共に鍬を振るっているという現実。

 それらの圧倒的な熱量と重みを、目の前の王は「おままごと」の一言で切り捨てたのだ。

 いくら東の帝国の脅威から王国を守り続けている実績があろうとも、未来を見据えない王に王国は背負えるのか。

 エーベルハルトの底知れぬ失望をよそに、ヴォルガンは忌々しげに手を払った。


「もうよい。下がれ」


 その言葉に従い、エーベルハルトは深く、そして完璧な臣下の礼をとって、重苦しい玉座の間を後にした。


     ──────


 後日。

 王城の敷地内に建つ、無骨な軍務庁舎の最上階。

 広大な執務室には、今日も変わらず山のような書類が積み上げられ、数名の職員たちがペンを走らせる乾いた音だけが響いていた。

 長大で重厚なデスクの前に座るエーベルハルトは、その日もいつもと変わらぬ仕事に追われていた。

 視線を落とした先にあるのは、細かい数字が羅列された無味乾燥な報告書。

 去年の実績。

 今年の傾向。

 来年の予算。

 過去の消費を計算し、現在の損耗を補填し、せいぜい一年先の備えを算出するための、命の通っていない記号の羅列である。

 エーベルハルトの優れた頭脳をもってすれば、これらの処理など造作もないことであった。

 しかし、次から次へと持ち込まれる書類の山を前にして、彼の胸中にはかつてないほどの濃密な虚無感が広がっていた。

 どこまで行っても前後三年程度。

 彼らがこの灰色の石壁に囲まれた部屋で必死に捻り出している未来は、たった一年先しかないのだ。

 書類の束から顔を上げ、エーベルハルトは分厚いガラス窓の向こうに広がる王都の空を見つめた。

 鉛色の雲が立ち込め、生命の息吹など微塵も感じられない灰色の街並み。

 彼の脳裏に、西の果てで見た眩しい夏の陽光と、底抜けに明るい彼らの笑顔が鮮烈に蘇る。

 大陸全土を巻き込む大穀倉地帯を夢見て、百年やその先まで見据えて泥臭く笑い合っていた者たちの姿。

 あの生命力に満ちた西の連中は、次世代に向けて『未来』を創っているというのに。


(私の仕事は、これか)


 軍務局長という、王国の軍事を根底から支える最高責任者の地位。

 何万もの兵の命を預かり、国の行く末を左右していると信じていた己の仕事が、今や砂上の楼閣を修繕するだけの無意味な徒労にしか思えなかった。

 エーベルハルトは静かに息を吐き出すと、手元にあった分厚いバインダーをぱたりと閉じた。

 乾いた音が、静まり返った執務室に響く。

 ゆっくりと椅子を引き、磨き抜かれたマホガニーのデスクに手を突いて立ち上がった。


「やめた」


 その声は決して大きくはなかったが、奇妙なほどはっきりと部屋の隅々にまで通った。


「局長?」


 突然の言葉に、執務室内の職員たちが手を止め、怪訝な顔をして最高権力者であるエーベルハルトを見つめた。

 しかし、エーベルハルトはそんな職員たちの戸惑いなど一顧だにせず、上着の襟元に手を伸ばした。

 カチャリ、と硬質な音を立てて外されたのは、王国軍務局長たる絶対的な権力の象徴である、重厚な金属の徽章であった。

 彼はその重みを惜しむ素振りすら見せず、徽章を書類の山の上に無造作に置き捨てた。


「本日をもって私は軍務局長を辞める」


 それだけを言い残し、エーベルハルトは振り返ることもなく、滑らかな足取りで執務室の扉へと向かった。


「局長」


 慌てた職員の呼び止める声が背中へ投げかけられる。

 しかし、エーベルハルトの歩みは止まらない。

 彼は誰の制止も受けることなく、静かに、そして確固たる意志を持って部屋を出ていった。


     ──────


 重厚な軍務庁舎の扉を抜け、外の世界へ足を踏み出したエーベルハルトを待っていたのは、王都特有の冷たい小雨であった。

 灰色の雲から降り注ぐ細い雨糸が、石畳の通りを濡らし、風景の輪郭を曖昧にぼやかしている。

 本来ならば従者がすぐに傘を差し掛けるところだが、今の彼には供の者など一人もいない。

 エーベルハルトは傘もささず、仕立ての良い上着の肩を濡らしながら、静寂に包まれた王城の敷地を抜けて大通りへと出た。

 冷たい雨の感触が、長年の重責から解放された彼の心に奇妙な安らぎを与えていた。

 人影もまばらな大通りを歩き始めた彼に対し、不意に、建物の影から一人の若い女が声をかけてきた。


「アイゼンハイド侯爵、こちらへ。馬車の用意があります」


 雨音を切り裂くように響いた凛とした声に、エーベルハルトは立ち止まった。

 振り返った先に立っていたのは、傘もささずに佇む、見慣れぬ若い女であった。

 一切の気配を感じさせず、王都の厳重な警戒網をいとも容易くすり抜けて現れたその存在に、エーベルハルトは知的な瞳を細めた。


「何者だね、君は?」


 静かな問いかけに対し、若い女は抑揚のない声で答えた。


「西の手の者、と言えばお分かりになられるかと」


 その言葉と同時に、エーベルハルトの視線は彼女が身に纏っている没個性の商会の制服へと向けられた。


「ああ、その制服、ダルトン子爵のところで見たな。私をどこに連れて行こうというのだ?」


 それは間違いなく、西で見た組織の娘たちが着ていたものと同じ制服であった。

 王都の心臓部にまで西の『影』が入り込んでいる事実に、エーベルハルトは最早驚きよりも奇妙な納得感を覚えていた。

 『海鳥』の女は雨に濡れることも意に介さず、路地の奥に控える装飾のない黒塗りの馬車を手で示した。


「もちろん、貴方様のご実家ですよ」


 その答えに、エーベルハルトの唇の端に微かな笑みが浮かんだ。

 それは、憑き物が落ちたような穏やかな表情であった。

 彼は迷うことなく馬車へと歩みを進め、その暗い車内へと身を沈めた。

 小雨の降る中、黒塗りの馬車は轍の音すらも静かに、王都の灰色の街並みの中へと溶け込んでいく。

 誰に気づかれることもなく。

 誰に引き留められることもなく。


 その日、王都からエーベルハルト・フォン・アイゼンハイドが消えた。


第2部 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ