第49話:徒労感、実効支配、命を奪うための手で
「見つけましたね」
吹き抜ける初夏の強い海風が、眼下の絶壁に打ち砕かれた波の飛沫を空高くへと巻き上げている。
容赦なく照りつける太陽の熱が岩肌を炙る中、巨大な黒馬の手綱を握るベルンが、眼下に広がる異様な光景を見下ろして口角を上げた。
そこには、大地が海に向かって大きく口を開けたような、巨大な裂け目が存在していた。
両岸の切り立った断崖は深く抉れ、波の浸食を拒絶するような重厚な岩盤が奥深くまで続いている。
その幅と水深は、レグス海運が誇る大型ガレオン船が二隻並んで入港したとしても、なお余りあるほどの規模であった。
「昔は、自領内に黄金の港レグスがあったんだし、侯爵家の近くに港が無いわけはないと思っていました」
ベルンの双眸は、荒れ狂う波間に沈む岩礁の配置を正確に見極め、防波堤を築くための算段を既に弾き出している。
その横で同じく眼下の絶え間ない波音を聞きながら、マクシミリアンが太い首を巡らせた。
「陸路と海路の両方が充実していなかったって話じゃなかったか」
旧ノルトヴァルト侯爵領が経営破綻という結末を迎えた事実と、目の前にある天然の良港候補という現実が、マクシミリアンの頭の中で矛盾としてぶつかり合う。
「現在に比べれば、ですよ。輸送の経路はあっても、物がなかったら意味がないですからね。当時のことはわかりませんが、僕は歴史学者じゃありません。見るべきは未来だけです」
ベルンは手元の地図に、迷いなく新たな港湾都市の基盤となる印を刻み込んだ。
この地に、港という拠点が必要なのは明白であった。
「これ以上の探索は無用です。最高の港の候補地を見つけました。本日の調査はここで打ち切り、急ぎ本部へ帰還しましょう」
最大の目的を達成したことによる、合理的な判断であった。
太陽がまだ中天で焼け焦げるような日差しを放つ中、ベルンは名残惜しむ素振りすら見せずに馬首を返す。
初夏の陽炎が揺らめく荒涼たる岩場を背に、一行はオルコットたちの待つ本部へと帰還の途についた。
──────
深い緑に覆われた東の山麓を流れる川沿いを北上していたバルカスが、鬱蒼と生い茂る夏草を掻き分けて足を止めた。
初夏の日差しを照り返す水面の上に、朽ちかけた木造の橋が架かっている。
長年の風雨に晒され、ところどころ木材が欠落しているが、対岸へと続く唯一の道であった。
「橋があるな。渡れそうか?」
バルカスの背後に控えていた『海鳥』の一人が、一切の躊躇なく橋へ足を踏み入れた。
軋む音すら立てず、軽やかな足取りでさっさと対岸へと渡りきってみせる。
「大丈夫です。一人ずつ渡ってください」
その淀みない動きを確認し、バルカスたちも慎重に一人ずつ古い橋を渡っていく。
渡った先に広がっていたのは、自然のままの荒野ではなく、かつて人の手が入っていたことを示す明確な痕跡であった。
人の背丈ほどもある夏草の海の中に、朽ち果てた木の柵が一定の間隔で並んでいる。
足元には真っ直ぐに伸びる土を固めた窪みがあり、それがかつての農道であったことは明らかだった。
「見渡す限りの農地か。川があるというのは強いな。水路に困らん」
バルカスは顎を撫でながら、湿気を帯びた初夏の風に揺れる広大な緑の海を見渡した。
この規模の農地を潤すだけの豊かな水源が確保されているという事実は、開拓において何よりも重要な要素である。
大地のポテンシャルは十分に確認できた。
「よし、水源と農地の基盤が確認できただけで十分だ。これで十分な収穫だ。本日の調査はこれで切り上げるぞ。本部へ帰還する」
バルカスはベルン同様、目的を達成したことによる明確な見切りをつけ、日の高いうちに調査部隊に帰還の号令を下した。
豊かな水を湛える川と、眠れる広大な農地跡を背に、一行は足早に本部へと向かって歩を進め始めた。
──────
旧ノルトヴァルト侯爵家跡地に設営された野営地には、海から吹き上げる湿気を帯びた初夏の夜風が、重く、ねっとりとまとわりついていた。
荒野の真ん中で赤々と燃え盛る焚き火が、爆ぜる音とともに火の粉を夜空へと巻き上げている。
揺らめく炎の明かりを頼りに、ヒルデガルドは木箱の上に広げられた一枚の巨大な白紙の地図へ、ペンを走らせていた。
各部隊が二日間、この広大で足場の悪い夏草の海を歩き回り、靴の底を擦り減らして持ち帰った情報を、彼女は正確な記号と線に変換していく。
だが、その作業はあまりにも早く終わりを迎えた。
ヒルデガルドがペンを置き、小さく息を吐き出して身を引くと、そこに残されたのは残酷なまでの余白であった。
西の端に印された「港の候補地」。東の山麓に引かれた「川」の線。そして「朽ちた橋」と、名もなき「集落の跡」。
地図が大きければ大きいほど、そして二日間の行軍が過酷であればあるほど、その真っ白な余白は、現場で得たはずの手応えを「たったこれだけの成果」へと目減りさせ、費やした労力が砂に水を撒くような徒労であったかのように錯覚させていた。
「結局、見つかったのは港と橋だけか」
重苦しい沈黙が支配する野営地で、バルカスが忌々しげに息を吐き出した。
その声には、泥と汗にまみれて未知の領域を歩き回った疲労と、それに見合うだけの戦果が得られなかったことへの隠しきれない落胆が滲んでいた。
「温泉、黒麦、丸芋、川、港。この調査は成功なのか?」
オルコットもまた、丸太のような太い腕を組み、疑念のこもった低い声を漏らす。
幾多の戦場を渡り歩いてきた老将にとっても、敵の首や奪い取るべき城がないこの行軍は、ただ体力を削り落とすだけの単調な苦行に近かった。
「旧ノルトヴァルト侯爵家のお宝とかもありませんでしたしね。経営破綻したのなら当然と言えば当然だけど」
ヒルデガルドが肩をすくめ、すすけた眼鏡のブリッジを押し上げた。
彼女の目から見ても、ここには金に換算できるような即物的な価値は一切転がっていない。
場を支配しているのは、重く、暗い徒労感であった。
過酷な大地の踏破と疲労に見合うだけの「目に見える富」や「分かりやすい成果」が何一つ得られなかったという現実が、焚き火を囲む者たちの肩に重くのしかかっている。
「どうだ? ベルン君。この結果はキミの望んでいた成果か?」
バルカスが、微動だにしない青年の背中へと問いかけた。
ベルンは丸太に腰を下ろしたまま、無言で地図を見下ろしている。
瞬きすら忘れたかのように、炎に照らされた紙面の一点を見つめるその横顔は、彫像のように硬く、冷たい。
その静寂は、この二日間の調査で得られた情報の少なさに、この調査の提案者である彼自身が最も落胆し、言葉を失っているのだと、周囲の者たちに思わせるに十分であった。
誰もベルンを責めるつもりはなかった。
しかし、期待が大きかった分だけ、何もなかったという空虚さは拭い去れない。
「農地を広げるという意味では成功じゃったと言えるのかのぅ?」
沈み込む空気に耐えかねたのか、オルコットが静かに言葉を紡いだ。
それはベルンへの慰めであると同時に、自分たちが汗水流したこの時間が全くの無駄ではなかったと、己に言い聞かせるための響きを含んでいた。
ベルンは依然として、圧倒的な余白を抱えた地図を見つめている。
だが次の瞬間、彼の肩が微かに震え、不規則な音がその唇から漏れ始めた。
「……ふ。ふふふ」
地図を見下ろしたまま、ベルンの唇の端が歪み、押し殺したような笑いがこぼれ落ちる。
沈鬱な空気に決定的にそぐわないその異様な反応に、バルカスもオルコットもギョっとして息を呑んだ。
サフィアンは、ベルンの肩越しに地図を覗き込みながら、その笑いの理由を理解できず、ただ静かに息を呑んだ。
「はは。ははは。はーっはっはっはっは」
突如としてベルンは天を仰ぎ、喉の奥から絞り出すような高笑いを上げ始めた。
暗い荒野の夜空へ向けて、抑えきれない歓喜の声が響き渡る。
その笑い声は、彼らが共有していた徒労感や疲労など微塵も存在しないかのような、純粋で圧倒的な熱量を帯びていた。
「お、おい、ベルン君」
あまりの落胆に、ついに青年の精神の均衡が崩壊したのではないかと、バルカスが顔を引きつらせて一歩歩み寄る。
「勝った! 勝ちましたよ子爵! これで西はあと百年戦えます!」
ベルンが勢いよく立ち上がり、焚き火越しにバルカスを指差した。
その瞳は血走るほどに見開かれ、暗闇の中でも爛々とした光を放っている。
「勝ったって……、農地が確保できただけじゃないか」
徒労感の底に沈んでいたバルカスは、常識的な感覚から呆れたように溜息をついた。
全く理解できない。
沈み込む周囲の冷え切った空気と、ただ一人「誰も理解できない大勝利」に打ち震えているベルンの異常な熱量との間には、同じ景色を見ているはずなのに、次元が違うほどの強烈な温度差と違和感が生じていた。
「そこですよ。それこそが僕たちの勝ちだと言っているんです!」
ベルンは両手を広げ、足元の地図を、そして夜の闇に沈む広大な荒野全体を抱きしめるような仕草を見せた。
他の者たちは、彼が一体何に対してこれほどまでに喜悦しているのか全く理解できず、困惑の視線を交わし合うしかなかった。
「どういうことです? ベルンさん」
サフィアンが眉をひそめ、炎越しにベルンを見据えた。
帝国の知である彼をもってしても、この余白だらけの地図から「西の百年の勝利」を導き出す計算式は構築できない。
「いいですか? 皆さんには何もないように見えるかもしれない。ですが、ここには見渡す限りの広大な農地があります。そして、それを管理する領主も、耕す農民も、誰一人として居ないんです。つまり……」
ベルンが勿体ぶるように声を落とし、周囲の顔をゆっくりと見回した。
その言葉の裏に潜む身も蓋もない本質に、バルカスがハッと目を見開いた。
「ここを実効支配してしまえば、広大な農地も、そこから得られる莫大な実りも、すべて我々のもの、というわけだな?」
「その通りです。できますよね? 将軍が『ノルトヴァルト侯爵』を名乗って、ここに住んでしまえばいい。誰の許可もいらない。『何もない』ことこそが『宝』なんです」
無主の地の、完全なる領有化。
それこそがベルンが最初から描いていた、最大の目的であった。
自らこの地に立ち、実効支配する。
この広大な大地を自分たちの手で掌握し、確かな糧へと変えていくための力強い決断に、マクシミリアンが太い首を縦に振った。
「あの時の『侯爵を名乗れ』という話は冗談ではなかったのか。……いいだろう。ノルトヴァルト侯爵を名乗り、この地を開拓してみせよう」
将軍の覚悟の声は、初夏の夜風よりも重く響いた。
それに呼応するように、背後に控えていた『黒鉄』の面々も、開拓への熱意に、その瞳に鋭い光を宿し始める。
「あは。ははは。やりましたよ、メリーさん! これで、本当の意味で『西側大穀倉地帯構想』は完成します! あー早く報告したいなぁ」
ベルンは再び両手を天に掲げ、底抜けに明るい声を上げた。
彼が見ているのは、ただ、メリーの提示した途方もない事業の完成形である。
同じ狂ったスケールの構想を共有できるただ一人の少女へ、この完璧な盤面を突きつけたくてたまらないといった、協力者を超えた、同志としての歓喜がそこにあった。
「ああ、メリー君も喜んでくれるだろう」
ベルンに見えている景色をようやく理解したバルカスが、安堵と呆れが入り交じった息を吐き出す。
「喜ぶのは開拓が済んでから、と言いたいところじゃが、お主たちに掛かればお手のもんじゃろうな」
オルコットが隻眼を細め、豪快に笑った。
場を支配していた重苦しい徒労感は完全に払拭され、明確な目標と未来への確信が野営地を包み込んでいる。
もはや地図の余白は「何もない」ことを示すものではない。「これから何でも描ける」という無限の可能性の証明へとすり替わっていた。
「よし、一度戻って本格的に準備を始めよう。明日、ここを撤収する」
西側の構想を完成させるための、最後のピースが見つかった。
調査の最後の夜は、焚き火の熱と初夏の海風を混ぜ合わせながら、深く、そして静かに更けていった。
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狂熱に浮かされた作戦会議から幾ばくかの時間が過ぎ、旧ノルトヴァルト侯爵家跡地の野営地には再び深い静寂が舞い戻っていた。
大地の裂け目から湧き出す熱湯が、冷え込み始めた初夏の夜気を白く濁った蒸気へと変え、廃墟の石組みを幻想的に包み込んでいる。
就寝を前に、一行は再び即席の露天風呂に身を沈め、過酷な調査の最後に訪れた微かな安らぎを肌で味わっていた。
分厚い帆布で仕切られた空間の向こう側から、湯を掻き回す微かな水音とともに、ヒルデガルドの通る声が静寂を破った。
「ベルン、行きの馬車の中の話、覚えてる?」
「辺境伯がデカくて邪魔だった話しか覚えていません」
帆布を隔てた男たちの湯だまりで、ベルンが即答する。
「デカくて悪かったな! 帰りは馬に乗るわい」
湯船の大部分を占拠しているオルコットが、豪快な笑い声と共に湯を跳ねさせた。
「そうじゃなくて、夫を仕入れろって話よ」
ヒルデガルドが呆れたような溜息を交え、本来の話題へと軌道を修正する。
「ああ、あれですか。特注の話ですね」
「あれ、もういいわ。市場に流れる前に押さえてしまえば良いだけ、簡単な話よね」
その声には、優秀な商人が極上の商材を見定めた時特有の、揺るぎない確信が満ちていた。
「見つけたんですか? 金持ちのイイ男。僕と子爵はダメですよ。結婚してる場合じゃない」
ベルンは実務的な予防線を張りつつ、湯気越しにバルカスと視線を交わす。
西側の物流と暗部をそれぞれに背負う二人には、家庭という安寧を築く暇など皆無であった。
「ええ、大丈夫よ。貴方たちの邪魔はしないわ。ううん、むしろ貴方たちの力になれると思うわ」
帆布の向こう側で、ヒルデガルドの熱を帯びた視線が、男たちの空間の片隅で静かに湯に浸かっている巨躯へと向けられている気配があった。
「オレか? 確かに侯爵という地位を得るが、金持ちではないぞ」
マクシミリアンが、岩肌に背を預けたまま冗談めかして低い声を漏らす。
かつて王国軍最強と謳われた将軍は、今や一領地の主として、この荒野に根を下ろそうとしていた。
「私は商人よ。いくらでも稼いであげるわ」
帆布越しに届くヒルデガルドの宣言は、一片の迷いもない力強いものであった。
湯の底から湧き上がる気泡が弾ける音が、不意に訪れた沈黙を埋めていく。
マクシミリアンは目を閉じ、首筋まで熱い湯に浸かりながら、小さく息を吐き出した。
「本当にオレだったか。いいだろう。オッサンだらけの侯爵領というのもむさ苦しすぎるからな。まずはオレが身を固めて、連中が安心して家族を呼び寄せられる環境を作ってやらんと」
マクシミリアンが目を開け、豪快な笑い声を夜空へ響かせた。
戦場を渡り歩いてきた屈強な部下たちに、ここが死に場所ではなく「生きる場所」なのだと示す。
そのための、領主としての初仕事であった。
「いいの? 本気にするわよ? 将軍、いえ、マクシミリアン」
「いいぞ。どんとこい。ノルトヴァルト領の本当の宝は『子宝』だったということだ。領の復興のため、頑張ろうじゃないか」
マクシミリアンは大らかに笑い、湯面を大きく叩いた。
「なんと、これが一番の予定外の収穫だな。めでたいことだ」
バルカスが湯煙の向こうで目を細め、心底からの祝福を口にする。
「侯爵の家を真っ先に建ててしまわないと、安心して子作りができませんね。計画に組み込みましょう」
ベルンは既に、この地に持ち込むべき資材の優先順位を頭の中で組み替え始めていた。
祝福の言葉と未来の計画が交差する中、マクシミリアンは湯から己の分厚い両手を持ち上げた。
水滴が滴り落ちるその手には、無数の古傷と、長年剣を握り続けてきたことによる硬く厚いタコが刻み込まれている。
「ああ、これからは西の人間だ。……かつて命を奪うためだけだったこの手で、今度は命を育む。兄上が言っていた『地に足のついた営み』ってやつを、オレもようやく始めるわけだ。悪くないな」
月光に照らされた己の掌を見つめながら、マクシミリアンは低い声で独りごちた。
かつて無数の命を刈り取り、国家の武の象徴として恐れられた男の肩から、重い鎧が完全に滑り落ちていく。
凄惨な過去との完全な決別と、荒野を開墾し、新たな命を育む開拓者としての未来への希望。
その二つが、立ち昇る温泉の白煙の中で静かに重なり合っていた。
「アイゼンハイド侯爵か。メリー君たちは上手くやっているかな」
マクシミリアンの呟きを聞き、バルカスが遥か東の空へと視線を向けた。
「ああ、なんだか上手くやっていたぞ。あの兄上がやり込められてたしな。というか、西の目的は兄上だったのか?」
「そうだ。西の三家、ギルガルド、ダルトン、ランツェベルクを取ったのは、すべてアイゼンハイド侯爵を釣り出すためだ」
バルカスが、事も無げにこれまでの手順の意図を告げた。
それを聞いたマクシミリアンは、己の敗北すらも納得がいったとばかりに、低く笑った。
「オレもまんまと釣り出されたわけだしな」
「まあ、あちらはメリー君とアルベルト王子に任せておく他あるまい」
バルカスが初夏の夜空を仰ぎ、静かに呟く。
過酷な大地の踏破を終えた心地よい疲労感が、温泉の熱と共にじんわりと身体の芯まで染み込んでいく。
ふと見上げれば、澄み切った初夏の夜空には、無数の星々が瞬いていた。
それはまるで、これからこの荒野で切り拓いていく彼らの輝かしい未来を祝福しているかのようだった。
立ち昇る湯気の向こうで瞬く希望の星の光を眺めながら、男たちは静かに、確かな充足感の中に身を委ねていた。




