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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第2部:反逆の狼煙は西側に上がる
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第48話:黒麦、総合的な大商人、辺境伯もたまには役に立つ

「ふあぁ~。生き返るわ」


 深い夜の帳が降りた旧ノルトヴァルト侯爵家跡地に、場違いなほど無防備な吐息が溶けていった。

 かつての侯爵の屋敷は、屋根も壁も無惨に朽ち果て、夜風に晒された石組みの残骸が剥き出しの牙のように月明かりを反射している。

 その荒涼たる廃墟の片隅で、濃密な白煙が絶え間なく立ち昇っていた。

 豪奢な浴場などあろうはずもない。

 地面に置かれた大きなタライに熱湯を湛えただけの簡素な風呂である。

 ヒルデガルドは、そのタライから手足をはみ出させてはいたが、それでも湯に浸かっている満足感を味わっていた。

 空間を区切るのは、『海鳥』たちが周囲の瓦礫を利用して張り巡らせた厚手の帆布のみである。

 風に煽られて時折弾けるように鳴る布の向こう側からは、低い男たちの声と、無作法に湯を掻き回す水音が絶え間なく響いてきた。


 仕切りの向こう側、男たちの湯浴みは荒々しい原始の営みそのものであった。

 硬い地面を乱暴に削り、窪みを作り、そこに巨大なテント用の天幕を何重にも敷き詰めて即席の湯溜まりを形成している。

 大地の裂け目から絶え間なく湧き出す熱湯がその窪みを満たし、夜の冷気を白く濁った湯気へと変えていく。


「これはいいな。湯量も多い、湯温は高めだが、こうして湧いている場所から距離をとれば問題ない。快適じゃないか」


 湯気越しに揺らぐ視界の中、バルカスが首筋の汗を拭いながら口角を上げた。

 湯船の縁に腕を預け、見上げる星空の瞬きに目を細める。

 その肩口で弾ける飛沫が、周囲に立ち込める硫黄の匂いを含んだ蒸気と混ざり合い、夜の静寂に溶けていく。


「これを建物で囲ってしまえば、冬を越せますね」


 ベルンが湯面を見つめながら、指先で静かに湯をすくい上げた。

 指の間から滴り落ちる雫が波紋を描く。

 彼の双眸には、目の前の湯だまりではなく、雪に閉ざされた未来の防寒設備が既に幻視されているようだった。


「良かったな、将軍。凍死することはなさそうだぞ」


 バルカスが視線を横に滑らせ、薄暗がりの中で湯に沈む屈強な影へと声を投げた。


「ああ、冬に暖をとる手段があるのとないのでは雲泥の差だな。これはありがたい」


 マクシミリアンが低い声で応じ、両手で掬い上げた熱湯を己の顔面へと無造作に浴びせた。

 顎から滴る湯の雫が、月光を反射して硬質な輝きを放つ。

 分厚い胸板に無数に刻まれた刃の痕跡が、立ち昇る湯気の中で生々しく脈打つように浮かび上がっていた。


「さて、明日からの調査だが、分担をどうする? ベルン君」


 濡れた髪を後ろに撫で付けながら、バルカスが場の空気を引き締めるように問う。

 周囲の森から聞こえていた虫の音すらも、男たちの放つ熱気と低い声に圧されて遠ざかっていくようであった。


「僕は西の海岸線を調査します。港を作れるかどうかでだいぶ事情が変わってきますからね」


 ベルンの声には、一抹の迷いもなかった。

 彼の瞳は、暗闇の奥に広がるであろう海原の波音を正確に捉えようとしている。

 船の行き交う航路、積み降ろされる物資の重量感、それら全てをこの荒れ果てた大地に結びつけるための算段が、彼の頭脳で静かに回転を始めていた。


「そうか。では私は東を回るとするか」


 バルカスが短く頷く。

 東の稜線をなぞるように視線を巡らせ、未知の地形に潜む起伏を想像する。

 夜風が彼の濡れた肩を冷やしたが、その内側に燃える意志の熱が温度を奪われることを許さなかった。


「ワシはこの本部を中心に狭い範囲で調査するかの。辺境伯軍を何人か使うぞ」


 湯船の最も深い場所に鎮座していたオルコットが、岩が擦れ合うような重い声を発した。

 巨躯から立ち昇る凄まじい湯気が、彼の隻眼の周囲に刻まれた深い皺を隠している。

 かつて数多の命を刈り取ってきたその腕は、今や静かに湯の中で休められていた。


「辺境伯は、住居跡を重点的に調べてください。当時の住民がどのような生活をしていたのかを知ることは非常に重要です」


 ベルンが鋭い視線を向け、老将に役割を明示した。

 朽ちた柱の傾き、竈の残骸、それらが語る過去の営為は、この大地が抱える病魔の正体を暴くための道標となる。


「『海鳥』は本部をもっと機能的にしてくれ。悪天候で調査隊が全滅なんて事になったら目も当てられない」


 バルカスが暗闇に向けて命じる。

 返事はなかったが、テントの布が不自然に揺れ、風の音に紛れて微かな衣擦れの音が響いたことで、指示が正確に伝達されたことが知れた。


「ベルン殿、この調査には金も人員もそれなりに掛かっておる。相応の成果は得られるんじゃろうな」


 オルコットの隻眼が、湯気を貫いてベルンを射抜いた。


「そんなのわかりませんよ。すべては調査の結果次第です。でも僕は期待以上の成果が得られると確信しています」


 ベルンは老将の眼光を真っ向から受け止め、揺るぎない声で言い切った。

 彼の背中から立ち昇る自信が、周囲の湯気さえも退けるかのような錯覚を抱かせる。


「確信ですか? ベルンさんには何が見えているんです? 私にも教えていただきたい」


 少し離れた浅瀬で静かに湯に浸かっていたサフィアンが、身を乗り出して問いかけた。

 彼の双眸には、純粋な知的好奇心の光が宿っていた。


「まず、この初夏の季節に、人の背丈ほどの草が生い茂る。これは土が生きていることの証明になります。そして何もない平地。これほど農地に適している土地はありません」


 ベルンは湯から腕を抜き、夜の闇に沈む大地を指し示した。

 視界を埋め尽くす鬱蒼とした夏草の海。

 それは放置された無秩序ではなく、大地が内包する圧倒的な生命力の奔流である。

 その爆発的な力を御し、形を与えることができれば、どれほどの豊穣を生み出すか。

 彼の言葉は、夜風に乗って男たちの胸に重く響いた。


「ふむふむ」


 サフィアンは湯が跳ねるのも構わず、前のめりになって聞き入った。

 帝国の宮廷で幾万の書物を紐解くよりも、目の前の商人が語る生きた大地の声が、彼の理性を激しく揺さぶっていた。


「また、土がいくら良くても、水がなければ草は育ちません。雨が降りやすいとか、水を溜め込みやすい地盤であるとか、いろいろ考えられますね」


「なるほど。ベルンさんは、この地を人の住む土地にするのではなく、農場にするつもりなんですね」


 サフィアンが納得の息を吐きながら、本質を突いた。

 単なる居住地の再建ではなく、大地そのものを変革するという巨大な構想。

 そのスケールの大きさに、サフィアンの指先が微かに震えていた。


「まだわかりません。さっきも言った通り、すべては調査の結果次第です」


 ベルンは口元に微かな笑みを浮かべ、再び湯の中に身を沈めた。

 大地の底から湧き出す熱湯が、彼らの肉体と精神を静かに温め直していく。

 廃墟を吹き抜ける初夏の夜風が火照った身体の熱を奪い、空を覆う星々の輝きはより一層の冴えを見せていた。

 未知なる大地との対話はまだ始まったばかりである。立ち昇る白煙の向こうで、果てしない荒野の夜が深く、深く更けていった。


     ──────


「温泉が川になって海に流れ込んでいますね。このように川が海に流れ込む場所は、海産物が良く獲れるんです」


 暁闇が白み始めたばかりの西の海岸線に、波の轟音に負けぬ澄んだ声が響いた。

 馬車すら拒絶する荒々しい岩肌を、数頭の軍馬が慎重な足取りで進んでいく。

 足裏の感覚を確かめるように蹄が岩を叩く乾いた音が、規則的に海風に溶けては消える。

 辺境伯領との境界線から北へ向かって続くのは、草木も生えない荒々しい岩場ばかりであった。

 初夏の湿気を帯びた強い海風が容赦なく吹き付ける中、先頭を進むベルンの視線は、眼下の絶壁から広大な海へと注ぎ込む白濁した一本の筋に釘付けになっていた。


「ここの付近に漁港があれば、海産物の収穫が捗りそうですね」


 背後から馬を進めてきたサフィアンが、ベルンの視線の先を追って同意を示す。

 海面からもうもうと立ち昇る湯気と、冷たい海水が激しくぶつかり合い、白く濁った波紋を無限に広げている。

 そこには過酷な自然環境とは裏腹に、豊かな命を育む揺り籠のような温もりが確かに存在し、無数の魚影が群れをなしているであろう豊かな海中図が容易に想像できた。


「それはわかるが、こんな岩場に漁港は難しくないか?」


 巨大な黒馬の手綱を握るマクシミリアンが、鋭利な刃物のように乱立する岩礁帯を見下ろして低く唸る。

 革鎧の擦れる音を微かに鳴らし、彼の双眸は眼前の地形が持つ物理的制約を測り分かっていた。

 船を寄せるための水深、波を殺すための入り江、そのどれもがこの切り立った絶壁には欠落している。


「岩を削るか、土で埋め立てるか、やり様はあると思います。一応、目印を付けておきましょう」


 ベルンは手綱を片手に持ち替えながら、振り返って的確な指示を飛ばす。

 その言葉には、不可能を嘆く響きは微塵もない。

 彼の頭の中では既に、削り出された石材の運搬経路、埋め立てに必要な土砂の総量、そしてそれらを動かすための人員と資金の調達経路が、恐るべき速度で弾き出されているかのようであった。


「よし、杭を打て。赤い布を巻き付けておけ。ここの印は赤三本だ」


 マクシミリアンが太く重い声で命じると、背後に控えていた屈強な男たちが即座に動いた。


「は!」


 かつて最強と謳われた私兵団の面々が、今は開拓の尖兵として岩場に散る。

 硬い岩の隙間を鋭く見極め、巨大な槌を迷いなく振り下ろす。

 岩を叩き割る重鈍な音が波音に混じって響き渡り、火花が散る。

 強引に打ち込まれた太い木の杭に、潮風に煽られて真紅の布が三本、鮮烈な軌跡を描いてはためいた。

 ベルンはその様子を確認すると、手元の地図に赤いインクで三つの印を静かに書き加えた。


「海岸線をさらに北上します。港にできそうな地形、あるいは海に降りられそうな場所がないか調べましょう」


 ベルンの号令で、再び馬蹄の音が岩場に響き始める。

 地道で、果てしのない調査であった。何時間歩を進めても、視界を埋め尽くすのは波に削られた険しい絶壁と、どこまでも続く海原ばかりである。

 太陽が容赦なく岩肌を熱し、海からの湿った風が体力を絡め取っていく。

 それでも一行の足取りに迷いはなかった。

 点在する岩陰や崖の裂け目には、静かに随従する『海鳥』の少女たちが音もなく滑るように移動し、周囲の僅かな地形の変化や外敵の気配を完全に掌握し続けていた。


「海岸線には辺境伯領のような石壁が必要ですね。海風を防ぐだけでもだいぶ違いますからね」


 波の飛沫が岩に砕け散る様を眺めながら、ベルンが独り言のように呟いた。

 その視線は、目の前の荒涼たる風景ではなく、今はまだ存在しない数年後の未来――広大な平野を埋め尽くす豊かな畑と、そこに暮らす人々の営みを見据えている。


「……西と北の海岸線は、全部城壁にするのですね」


 サフィアンが息を呑むような声で問うた。

 一介の商人が口にした、海岸線を丸ごと城壁で覆い尽くすかのような構想の巨大さに、思考がわずかに追いつかなかった。


「そうですね。この地が栄えた際に、外敵に備える必要があります。だったら最初から防風を兼ねて作ってしまえばいい」


 ベルンは馬の首を優しく撫でながら、ごく当たり前の日常を語るように言い切った。

 一石二鳥という言葉では収まりきらない、あまりにも合理的な未来予想図。


「素晴らしいですね。でも、ベルンさんは商人であって学者ではないですよね。なのに、色んな知識を持っておられる」


 サフィアンの眼差しに、純粋な感嘆の光が宿る。

 利益のみを追求するはずの商人が、なぜ気象学や土木建築、さらには国家百年の防衛の知見までをも当たり前のように血肉としているのか。


「物を右から左に流すだけが商人ではありません。無いものは作る、そのために必要な施設も作る。僕が目指すのは、総合的な大商人ですからね」


 海風に前髪を揺らしながら、ベルンは誇り高く微笑んだ。

 その瞳の奥には、物流という血液を大陸の隅々まで循環させ、見捨てられた死の大地すらも黄金の豊穣へと蘇らせるという、静かであるが故に恐るべき覇気が燃え盛っている。


「……これが、西の大商人様」


 サフィアンは、陽光を反射して輝く海面よりも眩しいものを見るかのように、煌めきを宿した瞳でベルンを見つめた。

 かつての権力闘争や武力による領土拡張といった古い世界の価値観が、目の前の青年の描く「経済」と「創造」という新たな理の前に、音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。


 それから、太陽が西の海に身を沈め、空が血のような赤から深い紫へと染まるまで海岸線の踏破は続いたが、特にめぼしい成果は見出せなかった。

 初夏の強い海風が吹き荒れる中、軍馬たちは嘶きとともに荒い鼻息を漏らしている。


「今日はここまでにしましょう。本部に戻ります。将軍、資材をここに置いていきましょう。明日はここから再開します。目印を」


 暮れなずむ空を見上げ、ベルンが馬を反転させながら指示を出す。


「承知した」


 マクシミリアンが短く応じ、男たちが余剰の杭やロープを岩陰に手際よく隠していく。

 丸一日を費やし、身を削るような悪路を進んだにもかかわらず、目に見える成果は地図に打たれた僅かな赤い点のみである。

 しかし、引き上げを命じるベルンの横顔に、落胆の影は一切なかった。

 彼の双眸は、果てしなく続く無慈悲な暗い岩原の先に、確かに拓かれるであろう巨大な港湾と未来の航路を、決して見失うことなく真っ直ぐに見据えていた。


     ──────


 東の山脈へと近づくにつれ、大地を覆う緑は深さを増し、足を踏み入れることすら困難なほどの密度を誇っていた。


「よし、『海鳥』は周囲の草を刈れ。ヒルデガルド君は地質の調査だ」


 バルカスの声が、鬱蒼と生い茂る夏草の海に響き渡った。

 指示を受けた『海鳥』の少女たちが、音もなく周囲の草木を瞬時に刈り取っていく。

 半径五メートルほどの空間が、瞬く間に切り拓かれた。

 その中心で、ヒルデガルドの鋭い指示が飛ぶ。

 辺境伯軍の兵士たちが力強く鍬を振るい、湿った大地に深めの穴を掘り進めた。


「この辺は岩盤でも粘土層でもない、普通の黒土ね。もっと山に近づくと変化があるのかしら」


 ヒルデガルドは掘り出された土塊を手に取り、指先でその感触を確かめながら呟いた。

 眼鏡の奥の瞳が、土の質とそこから得られるであろう恩恵を素早く計算している。


「よし、山の麓まで移動だ」


 バルカスの号令で、一行はさらに東へと歩を進めた。

 切り拓かれた道の端に、辺境伯軍の兵士が白い布を巻き付けた木の杭を深く打ち込んでいく。

 ヒルデガルドは手元の地図に、その目印を正確なインクの染みとして書き加えた。

 やがて一行は、高く聳える東の山の麓へと到達した。

 そこには、山肌を縫うようにして豊かな水量を誇る川が北へと向かって流れていた。


「なかなかの水量だな。ただの雪解け水じゃない。山の上の方は雨が降りやすいのか」


 バルカスは、厚い雲海に呑まれている峻烈な山脈を見上げながら感嘆の息を漏らした。

 その視線の先には、気象の特異性がもたらすであろう無尽蔵の水源が幻視されている。

 ヒルデガルドは無言のまま、新たな川の軌跡を地図へと刻み込んだ。


「これ以上、山側には近づけないな。ここから北上しよう」


 切り立った崖と激しい水流に阻まれ、バルカスは進路の変更を決断した。

 先ほどと同じように、兵士たちが規則的な間隔で白い布の杭を打ち込んでいく。


「冬になるとどのくらい寒くなるのかしら。この辺は酪農に向いていると思うのだけど」


 吹き抜ける初夏の風を肌で感じ取りながら、ヒルデガルドが思考を口にした。

 見渡す限りの広大な草原と豊かな水。

 家畜を放牧するには、これ以上ないほどの条件が揃っていた。


「ああ、それならこの山の向こうのヴォルフスブルクから情報を仕入れればいい。一度行ってみるのも手だな」


 バルカスは頷き、山の向こう側に広がるであろう北の大地へと視線を向けた。

 さらに北へと進む一行の前に、川が二手に分かれ、その一つが西の荒野へと伸びている光景が広がった。


「これ以上、北上はできんか。川に沿って移動してみるか」


 行く手を遮る深い森と険しい地形を前に、バルカスは西側へと伸びる川に沿って進むことを選んだ。

 川のせせらぎだけが響く静寂の中を歩き続けると、やがて不自然に開けた平地が現れた。

 そこには、完全に朽ち果て、土に還ろうとしている集落の跡地が存在していた。

 かつては多くの人々が暮らしていたであろう、相応の規模の痕跡である。


「川があり、平地であるここに集落ってことは、農村でしょうね」


 ヒルデガルドが崩れかけた家屋の残骸を見つめながら、かつての営みを推測した。


「そうだな。調査してみるか」


 バルカスの指示で、一行は廃村の中へと足を踏み入れた。

 屋根はとうの昔に崩れ落ち、壁は風雨に晒されて無惨な姿を晒している。


「何もないわね。ここは何かがあって全滅した感じじゃないわ。捨てられた集落って感じね」


 ヒルデガルドはいくつかの建物を巡り、生活の道具すら残されていない不自然さに気が付いた。


「戦や病気で全滅した感じではないな。人骨の一つもない」


 バルカスもまた、争いの痕跡や死の匂いが一切存在しない事実を確認した。

 住人たちは何らかの理由で、自らの意志でこの地を捨てて去っていったのである。


「そうね。ここは後にしましょう。川沿いに進みましょう」


 謎を残したまま、ヒルデガルドは踵を返した。

 一行はそのまま川沿いの調査を続けたが、対岸へと渡れるような浅瀬や橋の痕跡は見当たらなかった。

 やがて本部の設けられた侯爵家跡地が近づいてきたため、バルカスは本日の調査を切り上げる判断を下した。


     ──────


「いくつか集落の跡地はあったが、人はおらん。戦で滅んだ感じではないのぅ。人が出て行って寂れたとしか思えんな」


 月明かりが照らす本部の野営地に、オルコットのくぐもった声が響いた。

 荒野の中央に広げられた大きな白紙の地図を囲み、各方位から帰還した一行が情報を持ち寄っている。

 ヒルデガルドはペンを走らせ、報告された集落の跡地を正確な記号として地図に刻み込んでいく。


「ええ、私の方も集落の跡地を見つけましたが、そんな感じでした」


 バルカスが顎に手を当てながら、静かに同意を示した。


「経営破綻で滅んだという話が信憑性を帯びてきましたね」


 ベルンは地図上に点在する空白地帯を指先でなぞりながら、推論を口にした。


「これだけの土地を持つ領地が経営破綻ですか?」


 サフィアンが焚き火の炎に照らされた顔を上げ、疑問を投げかける。


「そうですね。当時は街道も海路も充実していなかったんじゃないでしょうか。この土地で作った作物だけに頼って生きていくのは、気候や環境的に無理だったのではないかと思います」


 ベルンの声には、かつての領主が直面したであろう孤立無援の状況が分析されていた。


「中央からの支援が途切れて、そのまま衰退したということかな」


 バルカスが腕を組み、かつてこの地を治めていた者たちの末路を思い描く。


「そうかもしれませんね。……あ、辺境伯、集落で何か見つけたりしました?」


 ベルンが視線を地図から上げ、向かいに立つ巨躯へと問いかけた。


「役に立つかどうかわからんが、どこの家にも石臼と蒸し器があった。麦と芋が主食だったんじゃろうな」


 オルコットは隻眼を細め、廃村で目にした生活の痕跡を淡々と語った。


「それは有用な情報ですよ。お手柄です、辺境伯」


 ベルンの顔に、確かな手応えを感じた笑みが浮かんだ。


「そうかの。ベルン殿に褒められるとは思っておらんかった」


 オルコットの岩肌のような顔が緩み、破顔する。


「麦と芋が主食だったことがわかると、何か良いことがあるんですか?」


 サフィアンが二人のやり取りに割り込み、知的好奇心に満ちた瞳を向けた。


「この地で麦と芋が穫れるという事がわかるじゃろう。ついでに麦らしきものと丸芋を掘ってきたぞ」


 オルコットが背後を振り返り、手で合図を送った。

 即座に数名の『海鳥』たちが音もなく進み出て、ずっしりと重い麻袋を地図の脇に置く。

 袋の口が開かれ、土に塗れた穀物と芋が姿を現した。


「……これは。黒麦じゃないですか。なるほど、寒さに強く植えれば植えるだけ収穫が見込める。この地にぴったりの作物ですね」


 ベルンは袋の中身を手に取り、その形状と手触りから瞬時に作物の正体を看破した。


「こちらの丸芋は?」


 サフィアンが、ゴツゴツとした不格好な芋を指差す。


「作付面積当たりの収穫量が驚く程高い芋です。土の病気には弱いですが、この地が見捨てられても自生しているというのは素晴らしいです。よっぽど土が良いんでしょうね。初日にして大発見ですよ、辺境伯」


 ベルンは黒麦と丸芋を交互に見つめ、この荒れ果てた大地に眠る途方もない価値を確信した。


「蒸かした芋を用意してあります。試してみますか?」


 傍らに控えていた『海鳥』の一人が、湯気を立てる木製の器を差し出した。

 器の中には、先ほどまで土に埋まっていた丸芋が熱々に蒸し上げられている。


「あ、これを振ると美味しいですよ」


 ベルンは荷袋から袋を取り出した。

 それは、メリーのイラストが描かれた塩の袋であった。

 彼は迷いなく、その塩を蒸かし芋の上にパラパラと振りかける。


 マクシミリアンは、その袋に描かれたイラストを見た瞬間、巨体を微かに震わせた。

 あの命を刈り取る地獄の娘の影が、大地の最果てであるこの場所にまで蔓延している。

 圧倒的な恐怖を思い出したかのように、彼の額には脂汗が滲んでいた。


「将軍、食べてみてください」


 ベルンが塩の振られた芋を、マクシミリアンへと差し出す。


「あ、ああ」


 マクシミリアンは断ることもできず、引きつった顔でその芋を受け取った。

 最果ての荒野に焚き火の爆ぜる音が響き渡り、調査初日の夜は更けていった。


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