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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第2部:反逆の狼煙は西側に上がる
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第47話:圧迫感、美肌効果、その商品は流通していない

「ところで、なんで辺境伯がいるんです?」


 車輪が硬い土を削る低い摩擦音が響く中、バルカスの声が密閉された空間に唐突に落とされた。

 北へ向かう街道。

 機能的に整備された辺境伯領の景色は、四角く切り取られた窓枠の向こうで単調な速さで後方へと流れ去っていく。

 重厚な装飾が施された馬車の内部は、本来であれば大人が四人座っても余裕のある造りであった。

 しかし、現在の車内はひどく空気が薄く感じられるほどの高密度な圧迫感に支配されている。

 向かいの席に座る男の巨大な体躯が、空間の三分の一を理不尽に占拠していた。

 分厚い胸板と丸太のような腕が動くたびに、上等な革張りの座席が悲鳴のような軋み音を上げる。


「ワシが居てはいかんのか?」


 巨体の主であるオルコットが、不満げに鼻を鳴らした。

 その低い声は物理的な振動を伴って車内の空気を震わせる。

 歴戦の傷が刻まれた顔には、無骨な威圧感が無意識のうちに滲み出ていた。


「狭っ苦しいです。圧迫感が……」


 窓際に身を寄せていたヒルデガルドが、顔をしかめて吐き捨てるように言った。

 彼女の細い肩は窓枠に押し付けられ、これ以上は一歩も引けないという明確な拒絶の姿勢を示している。

 その視線は、目の前にそびえる肉の壁に対する純粋な嫌悪に満ちていた。


「暇なんですね? 辺境伯。子供と年寄りを暇にすると碌なことをしない、とはよく言ったものです」


 バルカスの隣に座るベルンが、膝の上で組んだ指先を微動だにせず言い放った。

 その姿勢には微塵の萎縮もない。

 冷ややかな視線が、巨漢の顔面を真っ直ぐに射抜いている。


「暇で悪いか! ガレルに引き継ぎを済ませたんじゃ。少しくらい自由にしても良いじゃろう」


 オルコットの声が一段と大きくなり、馬車全体がびりりと震えた。

 両腕を組んだその姿は、駄々をこねる子供のようでもあり、同時に、些細な動作一つで周囲を破壊しかねない猛獣のようでもあった。


「あー、わかったわかった。何も問題はない。馬車の中が狭いということ以外は」


 バルカスが両手を軽く挙げて降参のポーズをとった。

 口元には引き攣った笑みが浮かんでいる。

 これ以上刺激すれば、物理的に馬車が破壊されかねないという危機感がその動作に表れていた。


「ふんっ」


 オルコットは大きく鼻息を荒くすると、不機嫌さを隠そうともせず、強引に体を捻って窓の外へと顔を向けた。

 その巨体が動いた反動で、馬車が右へと大きく傾く。

 直後、車輪の削る音が、滑らかな土の響きから、硬い岩を噛み砕くような暴力的な不協和音へと急変した。

 窓の外の景色が、一瞬にして別世界へと切り替わる。

 整然と積み上げられた石壁の境界線は唐突に途切れ、視界を埋め尽くすのは、大人の背丈ほどもあるむせ返るような夏草と、無秩序に生い茂る茨の群れであった。

 旧ノルトヴァルト領。

 そして、そのさらに奥に広がる最果ての地。

 かつての街道の跡地は、人間の往来を拒絶するかのように荒れ果てていた。

 巨大な地割れが走り、雨水に抉られたすり鉢状の穴が無数に口を開けている。

 馬車が激しく上下に跳ねた。

 車輪が深い轍に落ち込み、木組みの車体が悲鳴を上げる。

 外では、並走するマクシミリアンとオーウェンの怒号が風に混じって聞こえてきた。

 馬のいななきと共に、彼らが馬を降り、裂け目に腐りかけた板を敷き渡し、車輪の落ちた穴に周囲の土や石を蹴り入れている気配が伝わってくる。

 遅々として進まない過酷な道程。

 進んでは止まり、また進んでは強烈な揺れに見舞われる。

 外の野草に呑み込まれた景色と、内部の密閉された物理的な圧迫感が、乗る者たちの精神をじわじわと削り取っていた。


「こちらの綺麗な女性は、いつぞやの『メリーちゃん人形』の時に世話になった娘よの? ベルン殿の嫁か?」


 馬車が大きく傾き、停止したその瞬間。

 窓の外の荒れ地から視線を戻したオルコットが、ふと思いついたように口を開いた。

 その無防備な言葉が、密室の空気を縫ってヒルデガルドへと向かう。


「ばっ!」

「ああっ!」


 バルカスとベルンの口から、ほとんど同時に短い悲鳴のような声が漏れた。

 二人の体が硬直する。

 車内の温度が、物理的な冷気を伴って急激に低下した。

 外の初夏の風は完全に遮断され、代わりに、肌を刺すような凍てつく空気が足元から這い上がってくる。

 ヒルデガルドの座る空間を中心に、濃密な漆黒の影が渦を巻き始めている錯覚すらあった。


「な、なんじゃ? ワシは何かマズイことでも言ったか?」


 オルコットの巨体が、本能的な危機を察知してビクリと震えた。

 戦場で数多の死線を潜り抜けてきた老将の目が、目前で膨れ上がる正体不明のどす黒い気配を見据え、瞬きを繰り返す。


「……ああ、いえ、ただ……」


 バルカスが額に冷や汗を浮かべ、乾いた唇を動かしたが、言葉は意味を成さずに消えた。

 声を発することすら躊躇われるほどの、圧倒的な重圧。


「気にしないでください、辺境伯。私の父は、外に愛人を作り、家に寄りつかなくなりました。母も、父に愛想をつかしたのか、仕返しのつもりか、外に男を作り、帰ってこなくなりました。そんな家庭で育った私です。結婚願望など微塵もありません」


 ヒルデガルドの声は、底冷えするほど低く沈んでいた。

 感情の起伏は一切なく、氷の底から響くような静謐さだけで紡がれるその言葉は、凄惨な事実をただの現象として羅列していく。

 表情筋は微動だにせず、瞳の奥には光一つ宿っていない。

 しかし、その無機質な言葉とは裏腹に、彼女の全身から発せられる負のオーラは限界点を超えて膨張し、車内の空間を完全に制圧していた。

 呼吸をすることさえ苦痛を伴うほどの重苦しい空気。

 バルカスは完全に背もたれに体を押し付け、ベルンは無言のまま視線を虚空へと彷徨わせている。


「そ、それはすまん事を言った。勘弁してくれ」


 車内を埋め尽くしていたはずのオルコットの巨体が、みるみると縮こまっていく。

 分厚い胸板を丸め、膝を揃え、可能な限り自分の体積を小さくしようとするその姿には、一切の威厳が存在しなかった。


「構いません。私は結婚する気はありませんが、同じく結婚をしない同年代の女性の友人がおります。お気になさらず」


 ヒルデガルドが、わずかに視線を落として言った。

 張り詰めていた空気が、その一言でほんのわずかに弛緩する。

 絶対零度の空間に、かすかな呼吸の隙間が生まれた瞬間であった。


「ギルダ君の事か? 彼女はランツェベルク子爵に嫁入りすることになったぞ」


 バルカスの口から、あっけらかんとした声が滑り出た。

 その言葉が完全に響き終わるよりも早く、車内の空気が爆発的に沸騰した。

 弛緩しかけた凍てつく空気は、一瞬にして皮膚を焼くほどの濃密な殺気へと変貌を遂げる。


「……なんですって? ギルダが結婚?」


 ヒルデガルドの目が、ゆっくりとバルカスを捕らえた。

 底知れぬ漆黒に染まった瞳孔が、極限まで収縮している。

 その視線には、物理的な質量を伴った明確な殺意が宿っていた。


「だ、ダメですよ子爵。火に油……」


 ベルンが顔を青ざめさせ、バルカスを制止しようと手を伸ばす。


「……裏切ったわね、ギルダ。ベルン! 今すぐ私の夫に相応しい金持ちのイイ男を仕入れなさい!」


 ヒルデガルドが身を乗り出し、ベルンの胸ぐらを掴まんばかりの凄まじい剣幕で絶叫した。

 結い上げられた髪が乱れ、その貌には怒りと狂乱が入り混じった夜叉の如き形相が張り付いている。

 狭い車内に、耳をつんざくような甲高い声が暴力的に反響した。


「無理ですね。そんな需要の高そうな商品は、市場に出回る前に誰かに押さえられます。特注でもしてください」


 狂乱の渦中にありながら、ベルンの姿勢は一切崩れなかった。

 視線を鋭く細め、キッパリと言い放つ。

 その言葉には、相場を見抜く商人の目に間違いなどあるはずもないと言わんばかりの矜持が乗せられていた。


「きいぃぃぃぃぃぃ!」


 完全に理性を焼き切ったヒルデガルドの悲鳴が、馬車の天井を叩き割るような勢いで弾けた。

 両手で頭を抱え、座席の上で身をよじる。


「火に油はキミだ! ベルン君!」


 バルカスが絶望的な声で叫び返す。

 怒号と悲鳴が入り乱れ、馬車の中は完全な狂騒空間と化していた。


「……これが、西の王」


 阿鼻叫喚の狂騒が反響する馬車の隅で、これまで沈黙を保っていたサフィアンが感嘆の息を漏らした。

 人間の縁談すら商品の仕入れと同じ基準で平然と切り捨てるベルンの横顔を見つめ、目を輝かせている。

 巨大な馬車が、再び激しく上下に揺れた。

 車内の狂騒を嘲笑うかのように、外の風は一層強く吹き荒れ、千切れた野草を窓に叩きつける。

 ただ生い茂る夏草がどこまでも続く、旧ノルトヴァルト領の跡地。

 彼らを乗せた馬車は、すでに最果ての地の深くへと、その車輪を進めていた。


     ──────


「見渡す限りの平地、見事に何もないな」


 マクシミリアンの声が、初夏の湿り気を帯びた風に削り取られていく。

 先陣を切って馬を走らせていた彼が手綱を引き、土煙を上げて停止した。

 車内での狂騒からどれほどの時間が経過しただろうか。

 旧ノルトヴァルト領の跡地である夏草の海へ踏み入ってから、遅々として進まない馬車の車輪は、硬い岩と深い地割れを乗り越えながら、ただひたすらに北へと轍を刻み続けていた。

 中天に張り付いていた太陽は、すでに西の地平へと傾き始めている。

 無秩序に生い茂る夏草の海は、斜光を受けて血のように暗い赤色に染まり、長く伸びた影が大地を黒く浸食していた。

 緑に侵食された平原には、人の営みの息吹すら感じられない。

 ただ、風が背丈ほどもある野草を撫でる重いざわめきだけが、世界に取り残されたように響いている。


「あちらに見えるのが旧ノルトヴァルト侯爵家跡地でしょうか」


 横に並んだオーウェンが、視線を遠くへ向けたまま口を開いた。

 見渡す限りの夏草の海の果て。

 地平線と空の境界が曖昧に交わるその場所に、黒い染みのような輪郭が浮かび上がっている。

 かつては威容を誇ったであろう建造物の残骸が、天に向かって折れた牙のように幾つも突き出していた。


「そうかもな。今日の目的地はあそこか?」


「そのようですね」


 オーウェンは馬の上で身を屈め、荷袋から取り出した地図を広げた。

 風に煽られる分厚い紙の端を指で押さえ、現在の地形と精緻に書き込まれた図面を照らし合わせる。

 山脈の位置と、目の前に広がる果てしない平野の距離感が、間違いなくそこが目的地であることを示していた。


「よし、一度止まろう。斥候を走らせろ、オーウェン」


 マクシミリアンが背後へと振り返り、片手を高く上げた。

 その合図を受け、後続の馬車と護衛の騎馬隊が、次々と車輪の軋みと蹄の音を鈍く響かせながら停止していく。


「その必要はありません。我々が見てきます」


 オーウェンが応じるよりも早く、一切の足音を立てずに影が動いた。

 馬車の周囲を固めていた制服姿の集団の中から、数名の女たちが滑り出る。

 没個性な揃いの制服に身を包んだ『海鳥部隊』。

 彼女たちは返事を待つこともなく、流れるような動作で馬の腹を蹴り、無言のまま黒い染みの方向へと土煙を上げて疾走していった。

 その背中は瞬く間に緑の海へと溶け込み、見えなくなる。


 残された一行は、緑に沈んだ平原の只中で束の間の休息に入った。

 分厚い木の扉が開き、長時間の密室に押し込められていた者たちが、次々と馬車から吐き出されてくる。

 圧倒的な圧迫感から解放された彼らは、大きく息を吸い込み、固まった体をほぐしていく。


「何かニオイますね」


 土の地面に降り立ったベルンが、鼻先を微かに動かした。

 西に傾く太陽が、彼の影を長く大地に焼き付けている。

 湿った風に混じる、微かな異臭。

 大地の奥底から湧き出すような、鼻を突く独特の重い空気が周囲に漂い始めていた。


「ワシじゃないぞ!」


 馬車の入り口から巨体を押し出すようにして降りてきたオルコットが、心外だと言わんばかりに大声を上げた。

 彼の巨大な質量が外へ解放されたことで、沈み込んでいた馬車の車体が、きしりと音を立てて浮き上がる。

 その野太い声は、静寂に包まれた平原の空気を物理的に震わせた。


「はいはい。お爺ちゃんは黙っててくださいね」


 ベルンは、振り向くことすらなく、正面の虚空を見据えたまま呼吸の延長のような自然さで言葉を返した。

 巨漢の咆哮に対しても、その呼吸の周期は一定のまま崩れない。


「前から思っておったが、ワシへの当たりがキツくないか? ベルン殿」


 オルコットは不満げに鼻を鳴らし、分厚い胸板の前で丸太のような両腕を組んだ。


「温泉じゃない? このニオイ」


 最後に馬車から降りてきたヒルデガルドが、風の吹いてくる北の方角へ向かって首を巡らせた。

 小鼻をひくつかせ、周囲の空気を深く肺へと吸い込む。


「なるほど。こんな北の地に侯爵家があったのは不思議だったが、温泉があるとなると話は変わってくるな」


 バルカスが顎に手を当て、深く頷いた。

 極寒の地における熱源の存在は、生存戦略において決定的な意味を持つ。


「利用できるかどうかは不明ですが、まず一つ、収穫ありですね」


 ベルンの瞳が、静かに前方を見据えた。


「この地の調査の間、好きな時に温泉に入れるのであれば、俄然やる気が湧くわね」


 ヒルデガルドの目に、かつてないほどの鋭い光が宿った。

 先ほどの車内での狂乱は完全に鳴りを潜め、代わりに、何かを渇望するような熱を帯びた視線が遠くの廃墟へと向けられている。


「まあ、まずは調査でしょう。人が入れる温泉とは限りません。過度の期待はやめておきましょう」


 ベルンは一切の抑揚を排した声で、無慈悲に事実を突きつけた。


「……温泉、入りたい。……美肌効果……血行改善」


 ヒルデガルドは、ベルンの言葉など聞こえていないかのように、虚空を見つめて呪文のような言葉を呟き始めた。

 その声には、三十代半ばという年齢が突きつける切実な現実に対する、抜き差しならない悲壮感が漂っていた。


「人が入れない温泉にも価値があるんですか? 収穫とおっしゃってましたけど」


 サフィアンが、馬車に背を預けたまま、純粋な知的好奇心に満ちた声を投げかけた。


「人体や植物に害がない物であれば、温泉の熱を使った作物の栽培が考えられますね。水路を引いて湯を流すだけで効果が得られます。建物で囲ってしまえば更に効果が高いです」


「あそこに侯爵家跡地があるんだ、利用できるものである可能性は高いだろうな」


 バルカスが、遠くに見える黒い残骸を指差した。


「……おトイレ」


 突如として、張り詰めた空気を切り裂くように、ヒルデガルドの口から重苦しい宣告が落とされた。

 大地の果てで下される、絶対的な生理の限界。

 数時間にも及ぶ過酷な馬車での移動が、彼女の肉体を確実に蝕んでいた。

 両膝をわずかに内側へ絞り、背筋を硬直させたその姿には、一歩も退くことのできない切迫した危機感が滲み出ている。

 死地に向かう戦士のような、壮絶なまでの覚悟がその横顔に張り付いていた。


「こうなると、街道の休憩所のありがたみがよく分かりますね」


 ベルンが、事切れる寸前の女を横目に、普段通りに息を吐き出すように呟く。


「そうだな、無いものねだりをしてもしょうがない。『海鳥』に用意させるか」


 バルカスの合図とともに、控えていた『海鳥』の数名が音もなく動いた。

 馬車から木材と厚手の布を引きずり出し、一行から離れた背の高い野草の陰に、瞬く間に目隠しの壁を組み上げていく。

 それを見届けたヒルデガルドが、一切の言葉を発することなく、凄まじい速度でその壁の向こうへと消えていった。


 そうこうしているうちに、地平線の彼方から土煙が上がり、先行していた『海鳥』たちが戻ってきた。


「人はいません。予定通り、あの場所を本部にできます」


 馬を降りた『海鳥』の女が、息一つ乱すことなく平然と報告する。


「よし、移動だ」


 バルカスの短い号令が響き、一行は再び前進を開始した。

 巨大な廃墟が、一歩ごとにその全貌を明らかにしていく。

 かつては街道であったであろう石畳は、長い年月をかけて硬い根に持ち上げられ、無数の亀裂から大人の背丈ほどもある夏草が吹き出している。

 農地を囲っていたであろう木の柵は完全に崩れ落ち、土に半ば埋もれて腐敗の過程にあった。

 かつて人々が暮らしを営んでいた家の基礎となる石積みも、風雨に削られ、その輪郭を曖昧にしている。

 すべてが風化し、無慈悲な大自然の侵食によって食い尽くされていた。


 やがて一行は、旧ノルトヴァルト侯爵家跡地へと到着した。

 かつて西側を統べていた名門の本拠地。

 しかしそこには、華やかな歴史の欠片も残されてはいなかった。

 巨大な石柱は半ばからへし折れ、屋根の落ちた建物にはツタが血脈のように絡みついている。

 人の営みの痕跡は完全に消え去り、ただ圧倒的な静寂と、独特の匂いを含んだ重い風が通り抜けるのみであった。


「『黒鉄』は本部を設営しろ。『海鳥』と辺境伯軍は野営の準備、日が暮れる前に終わらせるぞ」


 バルカスの鋭い声が、廃墟の静寂を打ち破った。


「「「は!」」」


 大地を震わせるような返答とともに、集団が水が弾けるように散っていく。

 それぞれが自らの役割を理解し、無駄のない動きで荷を解き、拠点構築のための作業へと没頭し始めた。


 西の空が赤から深い紫へと色を変え、廃墟に濃い影が落ち始める中。

 忙しなく立ち働く者たちの間を縫って、『海鳥』の一人が音もなくヒルデガルドへと近づいた。


「ヒルデガルド様、お風呂に入れますが、いかがいたしますか?」


 かすかな衣擦れの音よりも静かな、感情の読めない声。


「入れるの? 温泉!」


 その瞬間、ヒルデガルドの顔に、この日最も鮮烈な輝きが宿った。

 車内での狂乱も、長旅の疲労も、見捨てられた大地の殺伐とした空気も、すべてを一瞬で彼方へと吹き飛ばすほどの、純粋で無垢な笑顔。

 年齢という現実と戦う女の執念が、大地の果てに湧き出る熱湯によって、最高潮の報いを得た瞬間であった。

 廃墟を吹き抜ける風の音が、ほんのわずかに暖かみを帯びたような錯覚を遺し、最果ての地の夜が静かに幕を開けようとしていた。


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